ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 四章 二十六節
『最初の共同依頼では、帰る数こそ最初の祭具である。』
西詰所の貸し出し棚には、剣も盾もあった。
棚には旧式ライフル、片手剣、丸盾、短槍が並んでいる。
それから、今日の僕の前には別のものが並べられている。
標識杭が四本、赤布が六枚、細い縄が二束。木槌と釘袋は、武器の代わりみたいに机の端へ置かれていた。
武器ではない。
ない、はずだ。
少なくとも、受付の備品台帳には武器とは書かれていない。
備品台帳が戦場でどこまで信用できるかは、まだ分からない。
「それを武器にするなよ」
ラドさんが木槌を顎で示した。
「しません」
「嘘をつくな。追い詰められたら人間はだいたい何でも振る」
「振らないようにします」
「振るなら手元を狙え。頭を狙うな。外した時に自分が死ぬ」
助言と警告を分ける必要はなさそうだった。僕は木槌を腰の紐へ通した。
短槍は借りていない。丸盾もない。
代わりに、標識杭を一本だけ肩に担ぐ。先は尖っていない。
土に打ち込むために、片側が少し削られているだけだ。
「本当にこれでいいんですか」
ラドさんは、僕の腰に木槌が収まっているのを確かめた。
「今日の仕事は討伐じゃない」
「はい」
「なら、討伐する格好で行くな」
そう言われると、少し気が楽になる。
でも、空いた左手が落ち着かない。
火狼の時に持った盾の重さを、手がまだ覚えている。
「怖いか」
「少し」
「少しで済むなら大したもんだ」
ラドさんはそう言って、僕の背中の荷を軽く叩いた。
「飯は」
「食べました。粥と、硬いパンを少し」
「睡眠」
確認は問診というより、荷札を読む作業に近かった。
「足りています。途中で一度起きましたけど」
「見えた数字だけで判断」
声に出すと、約束というより点検項目に聞こえた。
「しません」
「撤退」
「監督者優先。僕だけで決めません」
ラドさんは短く頷いた。
昨日、自分で書いた条件だ。食事確認、睡眠確認、視認は検算、撤退判断は監督者優先。
紙に書くと、少し馬鹿みたいに見えた。
でも、声に出すと、背中の紐が一本締まる。
受付職員が依頼票を渡してくれた。
旧木炭道の仮標識交換、仮設立審査中の共同作業、代表候補は羽黒承。監督者と依頼主側の立会人の名前まで、きっちり書かれている。
欄外に、小さく。
みちしるべ。
その文字を見てから、僕は標識杭を持ち直した。
重い。
でも、持てないほどではない。
持てないほどではない、というのは危ない言葉だ。
人はその言葉で、だいたい余分に一本持つ。
今日は一本だけにする。
✶
旧木炭道の入口は、遠くから見るとまだ道に見えた。
それが、一番困る。草は伸びている。土は崩れている。
けれど入口だけは広い。昔、荷車が何度も通ったのだろう。
両側の土が少し固く、真ん中には古い轍の跡が残っている。
「入りやすいですね」
保守組のイラが言った。
「入りやすいから落ちる」
ラドさんが返す。
その言い方は乱暴だけれど、道を見れば分かる。
入口は広い。奥は見えない。見えないのに、曲がり方だけは優しい。
まるで、こっちだと言われているみたいだ。僕は依頼票の控えを見る。
赤札補強。崩落線の手前に杭を二本追加。
子ども、荷馬車、夜間通行者にも見える目印を検討。
「まず、今の赤札を確認します」
「先に道を見る」
ラドさんが言った。
「札ではなく?」
「札は人が立てる。道は勝手に崩れる」
確かに。僕は紙を畳み、足元を見た。右に新しい街道。
左に旧木炭道。左の入口に、赤い札。そこまでは合っている。
でも、左の奥にもう一つ、何か赤いものが見えた。
「赤札が二つあります」
僕が言うと、保守組のイラが眉を寄せた。
「一つのはずです」
ラドさんが僕の指す先を見る。
「近づくな。まず見える範囲で言え」
「入口に一つ。奥に一つ。奥のは、黒い木の横です」
黒い木。その瞬間、少し違うと気づいた。木ではない。
石だ。煤けた石が、半円に積まれている。
「炭焼き窯跡です」
保守組のイラが言った。
「昔の木炭道だから、窯が残っています。あそこ、夕方になると全部黒く見えるんです」
赤札。黒い窯跡。焦げた幹。
昼でも見えにくい。夕方なら、もっと見えにくいはずだ。旧木炭道。
名前だけの道ではなかった。炭の匂いが、まだ薄く土に残っている。
「奥の赤いものは札じゃないな」
ラドさんが言った。
「では何ですか」
「布だ。誰かが古い標識に巻いた」
古い標識。
僕は目を細めた。
入口の赤札は、こちらへ入るなと示している。
奥の赤布は、旧道の先を示しているようにも見える。
二つの赤。どちらも、遠目には目印だ。頭の端で、数字がちらついた。
2。札の数。道の数。
札の数でも、道の数でも、間違える人の数でもない。
「紙にない赤布があります。古い標識かもしれません。先に撤去するか、隠さないと、間違えます」
「近づくぞ。ただし道には入らん」
ラドさんが先に立った。
僕は標識杭を持ち直す。
杭は武器ではない。
でも、手にあると、空いた手よりは落ち着く。
武器ではない、を二回確認した。
確認する回数が増えるほど、だいたい怪しい。
でも今は、怪しいくらいでちょうどよかった。
✶
炭焼き窯跡に近づくと、足元の土が変わった。
表面は乾いているのに、中が柔らかい。踏むと、靴の横から黒い泥が少しにじむ。
旧道の左側は、沢へ向かって落ちている。右側には焦げた幹が何本か残っている。
赤布は、その焦げた幹の一つに巻かれていた。
古い。
色も褪せている。
けれど入口から見ると、今の赤札と同じ色に見えた。
「これは駄目ですね」
保守組のイラが低く言った。
「撤去します」
「待て」
ラドさんが手を上げた。音がした。枝を踏む音。
僕は息を止める。人の足音ではない。軽い。
でも、子どもより低い。焦げた幹の向こうで、何かが動いた。頭の上に、数字が出る。
8。低い。人ではない。
小柄な影が、黒い窯跡の横から顔を出した。森猿人《ゴブリン》。たぶん、若い個体だ。
背はニコより少し低い。片手に、折れた木片を持っている。喉の奥が一瞬で乾いた。
火狼より小さい。火も吐かない。
でも、近い。近い方が怖いこともある。
「下がれ」
ラドさんの声。保守組のイラが一歩下がる。僕も下がろうとして、足元が沈んだ。
黒い泥。右足が半歩、遅れる。森猿人が跳んだ。
考えるより先に、標識杭を前へ出していた。槍ではない。穂先もない。
ただの杭だ。でも、長さはある。木片が杭に当たり、乾いた音がした。
腕が痺れる。重い。小さいのに、重い。
「押すな、ずらせ!」
ラドさんが叫ぶ。
押さない。
ずらす。
火狼の時、盾ごと押し潰されそうになった重さを思い出す。
ゴブリンの短槍が胸へ来た時、一歩だけ横へ逃げたことを思い出す。
僕は杭をまっすぐ押さず、右へ引いた。森猿人の木片が空を切る。相手の肩が少し流れる。
その一瞬で、僕は腰の木槌を抜いた。頭ではない。手元。
ラドさんの言葉が、妙に大きく残っていた。木槌を振る。殴るというより、落とす。
森猿人の手首に当たった。木片が落ちる。でも、相手は止まらない。
歯を剥き、僕の膝へ飛びつこうとする。近い。近すぎる。
僕は杭を戻せない。木槌も半端な位置にある。だから、足を上げた。
蹴る、ではない。踏ませない。膝を畳み、相手との間に靴底を入れる。
森猿人の胸に当たり、僕の身体が後ろへ押された。
黒い泥で踵が滑る。
転ぶ。
その時、背中の荷紐をラドに掴まれた。
「そこまで」
低い声。
次の瞬間、ラドさんの短い棒が森猿人の首筋へ入った。
音は小さかった。
森猿人は崩れるように膝をつき、そのまま動かなくなった。
息が戻らない。
手が震えている。
転びかけた自分の代わりに、ラドさんが一撃で終わらせてくれたという事実と、自分では止められなかったという事実が同時に胸の中にあって、助かった安堵より先に、情けなさの方が大きく膨らんでくるのを止められなかった。
木槌を握った指が、変な形に固まっている。
「倒してません」
なぜか、最初にそう言った。
ラドさんは森猿人から目を離さずに答えた。
「倒してたら怒鳴ってる」
「え」
「お前の仕事は、相手を少し止めることだ。今のは止まった」
褒められた、とは思えない。でも、怒られてもいない。怒られていない。
それを成果に数えるのはどうなのか。でも今は、かなり大事な成果に思えた。
僕は木槌を下ろした。手首が遅れて震えた。
保守組のイラが近づきかけて、ラドに止められる。
「まだ見るな。周りを見ろ」
周り。僕は息を吐き、焦げた幹の向こうを見た。数字は増えない。
頭上に新しい数字はない。ただ、足跡があった。黒い泥に、小さい足跡。
一つ。二つ。
三つ。そして、窯跡の奥へ消えている。
「一体だけ、ですか」
「たぶんな」
ラドさんは短く言った。
「たぶんで終わらせるな。足跡を数えろ」
僕は頷いた。木槌を持ったままでは数えにくい。腰へ戻す。
標識杭を地面に置く。手を空ける。それから、足跡を数えた。
来た跡が七。戻った跡はない。
窯跡の奥に、食べかけの干し豆の袋。袋には荷札の紐が残っていた。
「餌があったんですね」
「だから来た。だからまた来る」
ラドさんは森猿人を道の外へ引きずり、布を被せた。
僕は喉を鳴らした。怖い。
でも、さっきよりは手が動く。動いた後で震えているだけだ。
これを何と呼べばいいのかは、まだ分からない。
ただ、僕は標識杭をもう一度持てた。
✶
作業は、予定より遅れた。赤布を外す。古い標識の向きを確認する。
窯跡の奥へ入らないよう、縄を張る。入口の赤札を一枚増やす。それだけなら簡単に聞こえる。
でも、現場では一つずつ止まる。赤布を外すと、下に古い焼き印が出てきた。木炭組合。
王都北炭道。左、沢沿い。
昔なら正しい標識だったのだろう。今は、落ちる道を示している。
「残しますか」
保守組のイラが聞いた。僕はすぐ答えられなかった。古いものを消すのは、少し怖い。
でも、残せば誰かが読む。読んで、左へ行くかもしれない。
「消すんじゃなくて、隠します」
「理由は」
ラドさんが聞く。
「古い標識があること自体は、報告に残します。でも現場では見えない方がいいです。読めると、道だと思うので」
「悪くない」
保守組のイラは、少し頷いた。
「板を打ちます。上から赤布ではなく、黒くない白板を」
返事の代わりに、長い息が抜けた。
「白板」
「炭窯の横で赤だけだと沈みます。白地に赤線なら、夕方でもまだ見えると思います」
僕は入口を振り返る。
焦げた幹と黒い窯跡、その前で褪せた赤布が湿ったまま垂れている。
赤は目立つ。でも、黒の中では沈むことがある。
何でも赤くすればいいわけではない。
「試します」
僕は予備板を一枚取り出した。
白く塗られた薄い板。
その中央へ、受付で渡された赤線を貼る。
みちしるべの小さな布を、その下に結ぶかどうかで少し迷った。
まだ正式なクランではない。
でも、今日は共同作業だ。
「付けろ」
ラドさんが言った。
「いいんですか」
「名前を出す仕事だろ」
僕は小さな布を結んだ。
ニコの字は、やっぱり少し曲がっている。
でも、白板の下で揺れると、よく見えた。
保守組のイラが入口まで戻り、こちらを見た。
「見えます」
「赤札は」
「見えます。でも、白板の方が先に目に入ります」
それでいいのだろうか。
今は、それでいい。
止める札は、見つけてもらわなければ意味がない。
僕は標識杭を地面に立てた。木槌を握る。さっきとは違う握り方。
人に向けるのではなく、土に向ける。一打目。乾いた音がした。
二打目。杭が少し沈む。
三打目。手の震えが、木槌の振動に紛れた。
「強く打ちすぎるな」
ラドさんが言った。
「割れますか」
「お前の手がな」
保守組のイラが少し笑った。僕も、少し息を吐いた。杭は四本。
入口に二本。窯跡の手前に一本。沢へ落ちる曲がりの前に一本。
縄は二筋。人が越えられない高さではない。でも、歩きながらなら一度は止まる。
止まれば、札を見る。札を見れば、戻れるかもしれない。
✶
帰り道、僕は何度も手を開いた。木槌を握った跡が残っている。縄の跡もある。
標識杭のささくれで、親指の横が少し赤い。剣だこではない。でも、何もしていない手でもない。
「今日の戦闘記録はどう書きますか」
僕が聞くと、ラドさんは一瞬だけこちらを見た。
「戦闘記録にするな」
「え」
「標識交換中、小型森猿人一体接近。代表候補が標識杭で距離を取り、監督者が排除。作業中断、周辺確認後に再開」
「それ、戦闘記録では」
「作業記録だ」
同じ出来事でも、討伐欄と保守欄では残る意味が違う。僕は魔物を倒しに行ったわけではない。
道を止めに行った。その途中で、少し止めた。
「僕は、少しはましになっていますか」
口に出してから、しまったと思った。聞き方が雑だ。ラドさんはすぐには答えなかった。
夕方前の道は、行きより少し暗い。木の影が、足元に長く伸びている。
「ましかどうかは知らん」
ラドさんは言った。
「ただ、前より死ににくくはなってる」
死ににくい。
強い、よりずっと地味だ。
でも、胸の奥に落ちるには、そのくらいがちょうどよかった。
死ににくい、か。
帰ったら申請書の活動目的に書き足すべきだろうか。
軽依頼、道標保守、死ににくい。
駄目だ。
受付で絶対に止められる。
「それでいいです」
「よくはない。続けろ」
「はい」
保守組のイラが、少し後ろで白板の控えを抱え直した。
「あの標識、明日もう一度見に行きます。夕方に見え方を確認しないと」
「明日もですか」
「今日見えたものが、明日も見えるとは限りません」
僕が言う前に、彼女が言った。少し、笑いそうになった。同じことを考えていた。
紙に書いたこと。現場で見たこと。次の日にもう一度見ること。
それが、みちしるべの仕事になるのかもしれない。
西詰所に戻ると、受付職員がこちらを見た。僕は依頼票の控えを出す。標識杭四本設置。
旧標識一件、白板で遮蔽。赤札一枚追加。小型森猿人一体、監督者排除。
作業中断あり。翌日夕方、視認再確認予定。最後に、少し迷ってから書く。
代表候補、標識杭で接近を短時間停止。書くと、小さい。
でも、消さなかった。受付職員は紙を読み、顔を上げる。
「みちしるべ、初回共同作業として記録します」
みちしるべ。
呼ばれた。
僕の名前ではない名前が、詰所の中で一度だけ響いた。
嬉しいというより、少し背筋が伸びる気がした。名前に恥じないよう、もう一度気を引き締め直したくなった。
曲がらないように、もう一度土を踏み直したくなった。
最初に名前を呼ばれた時、僕は依頼票の見落としを疑った。
「羽黒先輩」
依頼票にはない声だった。若い。
少し高い。でも、聞き覚えがある気もした。
冒険者協会の横庭には、荷車待ちの人が何人かいる。
保守組。
搬送補助。
協会の使い。
そのどれとも少し違う二人組が、木柵の前に立っていた。
先に目に入ったのは、後ろでまとめた髪と、新しい旅装の裾だった。
靴の泥だけが古い。
何日か、道だけは先に歩いてきた人の汚れ方だ。
隣の少年は荷札板を抱えていた。背は高いのに、板の下を支える腕が少し遅れる。
荷札板を荷物として持っている。
まだ、仕事の道具として体に馴染んでいない。
「……え」
間の抜けた声が出た。
少女の方が、少し胸を張った。
声を出す前に、肩から力が抜ける。
探していた人を見つけた時の、体の動きだった。
「やっぱり羽黒先輩でした。ずっと、探してたんですよ」
やっぱり。
確認されていた、なんていう事務的な話じゃない。彼女の声には、もっと個人的な響きがあった。
「井上……希望、か」
「はい! もっと驚くかと思ってましたけど、先輩らしいですね」
中学の時、二つ下だった。
廊下でたまに会う。
図書室で、僕の推薦図書を真っ先に借りに来るような、不思議な積極性を持った後輩。
あの日以来、二度と会えないと思っていた。
「……無事だったんだな」
「先輩こそ。……少し、背が伸びました?」
井上が、いたずらっぽく笑う。その笑顔だけで、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。
昔より、目線の位置が近い気がした。
伸びたのはお互い様のはずなのに、なぜか自分の方だけ指摘された気になる。
変なところで、内心が忙しい。
答えが早い。
昔もそうだった気がする。
質問の準備をしてから近づいてくるタイプだった。
「雑です」
横の少年が言った。
「もう少し順番あるだろ」
「え、じゃあ澄人がやる?」
「俺がやると余計長い」
澄人は否定せず、荷札板を持ち直した。
少年は荷札板を持ち直し、僕に軽く頭を下げた。
「沢渡澄人です。井上の友達で、今は協会の下請けで荷札回してます」
相手は荷札板を胸の前で持ち直し、それ以上は動かなかった。
「羽黒です」
「それは知ってます。こっちが勝手に」
勝手に。嫌な言い方ではなかった。井上は僕の胸元を見ていた。
みちしるべの小札。新しい。まだ少し浮いている感じのする名前だ。
「ほんとに付けてる」
「付けています」
「似合ってます」
井上は僕の腕輪を見て、少し目を細めた。
「それは、まだ早いと思います」
井上は少し笑った。
澄人は笑わず、荷札板の角で井上の肘を軽く押した。
「肘、痛いんだけど」
「静かにしてて」
澄人はそれだけ言って、小さく息を吐いた。
昔からこうなのだろう、と勝手に想像した。
ラドさんが、少し離れた受付台の横からこっちを見ていた。
見ているだけで、まだ来ない。
その距離なら、息が詰まらなかった。
「先輩、いま時間ありますか」
「内容によります」
「あるんだ」
昔の話が出ると、足元の土まで少し違って見えた。
「ない可能性に賭けてください」
「中学の時よりちょっと喋る」
井上は嬉しそうに言った。それは困る。困るけど、少し分かる。
今の僕は、中学の時より喋る。黙ったままでは荷札が回らない。
必要だけで増えた分もあるし、それ以外で増えた分も少しある。
「相談、というか確認です」
澄人が荷札板から一枚抜いた。
「北の小道経由で来るはずの二人組が、予定時刻を過ぎても見えないんです」
「遅延ですか」
「たぶん」
記録係のペン先が、まだ紙に触れないまま止まっていた。
「たぶんじゃ困るんです」
井上が言った。
「私、見えてはいるので」
見えている。
そこでやっと、能力の話だと分かった。
「何が」
「友だちの位置です。少し遅れて」
友好性非同期千里眼。
ノートの隅にでも書いてありそうな、長い名前だった。
でも、中学の頃からあの子はそういう名前を真面目に使う子だった気もする。
「少し遅れて?」
「はい。今いる場所じゃなくて、ちょっと前にいた場所が見えます」
「どれくらい前」
「日によります。今は、たぶん十分くらい」
十分。
短いようで、荷運びには長い。
でも、完全に手がかりなしよりはずっといい。
僕は依頼票の控えを畳み直した。
「最後に見えた場所は」
井上は目を閉じた。
少し眉間に力が入る。
無理にすごい顔を作らないあたりは、昔から変わっていない。
「割れた石柱の先です。二股じゃなくて、その少し手前。片方が荷を持って、もう片方が肩貸してました」
「怪我人がいる」
「たぶん」
その、たぶんは軽くなかった。
澄人が横から補う。
「希望の能力、今いる場所は見えません。仲がいい相手しか拾えないし、拾えても少し前です」
「十分です」
言うと、井上がこっちを見た。
少し目が丸い。
「先輩、今のはちょっと格好よかったです」
「やめてよ、はずかしいなぁ」
「でも言いたかった」
井上は悪びれず、結んだ袋を膝の上で揺らした。
「言うのが早い」
「それも昔からです」
早いというより、隠す気がないだけかもしれない。
その素直さに、当時の僕は多分助けられていた。
参った。
中学の後輩というものは、記憶の中ではもっと静かな生き物だった気がする。
気のせいかもしれない。
当時の僕が会話を避けていただけの可能性が高い。
ラドさんがこっちへ来た。
「知り合いか」
「中学の後輩です」
「可愛い方か」
ラドさんは低い声のまま、鼻で短く息を出した。
「やめてください」
「否定が早いな」
井上が固まった。
澄人が咳払いをした。
最悪だ。
「違います。そういう意味ではなくて」
「どういう意味でも面倒になるやつだな」
ラドさんはそれだけ言って、井上たちの荷札板を見た。
「遅延二名?」
「はい」
澄人が一枚差し出す。
「本来は協会の見習い同士で回す仕事なんですが、片方が足を悪くしたっぽくて」
「っぽくて、じゃ困るだろ」
「困ってるから来たんです」
そこは澄人も引かない。
悪くない。
ラドさんは井上を見る。
「お前の見えるのはどこまでだ」
会話が途切れ、息を整える音だけが残った。
「友だちだけです。今の位置じゃなくて、少し前の位置です。あと、見え方が雑になる時があります」
「雑」
僕は手のひらを横に動かして、揺れる線の幅を示した。
「走ってると、線みたいになります」
「役に立つな」
説明しながら、自分でも便利と言い切れないところが残った。
「立つ時だけです」
井上は即答した。
ラドさんは井上の荷札板を裏返し、空いた面をこちらへ向けた。
「羽黒」
「はい」
「お前が行け」
「単独で」
「単独じゃない。見習い二人を連れて、割れた石柱まで。そこから先は現地判断だ」
現地判断。
最近よく聞く。
そして、そのたびに、少し胃が重くなる。
「受けます」
「早い」
「断る理由が薄いです」
返事のあと、監督者用の紙が一枚こちらへ寄せられた。
「それはそうだ」
ラドさんは澄人へ赤布を一本投げた。
「お前はこれを持て。危ないと思ったら足を止めるな。布を見て止まれ」
「分かりました」
「そっちは」
井上の方を顎で示す。
「見える場所だけ言え。見えないものを足すな」
「足しません」
「羽黒」
名前だけで呼ばれると、背筋が少し遅れて伸びた。
「います」
「浮くな」
ラドさんの短い声で、足裏が地面を思い出した。
「気をつけます」
浮いていたらしい。否定しようと思ったが、やめた。
否定すると、その方が目立ちそうだった。井上が小さく首を傾げた。
「浮くんですか」
「少し」
「へえ」
井上の声は軽かったが、視線は荷の方に残っていた。
「その、へえは何ですか」
「先輩でもそういうことあるんだなって」
井上の返事は、からかいより少し低かった。
「あります」
「よかった」
何がよかったのかは、聞かないことにした。
聞けば、余分な話まで返ってきそうだった。
浮くな、とラドさんに言われたばかりなのに。
今のは、たぶん別の意味で浮いている。
✶
割れた石柱までは、僕が前を歩いた。後ろで、井上がときどき目を閉じる。
そのたびに澄人が歩幅を落とす。慣れているのだと思った。
「左です」
井上が言った。
「十分前は」
「左の藪の縁でした。今は、たぶんもう少し先」
たぶん、で十分だった。
何もない道で、十分前の位置があるだけでもかなり違う。
藪の縁に、擦れた跡がある。荷袋の角。
靴底。片方は足を引きずっている。
「見えてますか」
井上が目を閉じたまま、こちらへ少し顔を向けた。視界の端へ、今いる藪とは違う色の藪が重なる。葉の位置が少し前だ。その中に、薄い数字が二つあった。
一つは歩いている高さ。もう一つは低い。座っているか、倒れている。
「数字なら」
「二人の方です」
井上が少し笑った。
そういう言い方をするのも、昔からだったかもしれない。
藪の向こうで、小さく声がした。
男二人。
若い。
片方が座り込み、もう片方が荷を抱えている。
大怪我ではない。でも、戻るには面倒な止まり方だ。僕は息を吐いた。
大丈夫だった、とはまだ言えない。でも、間に合わない感じではなかった。
「いた」
井上が言った。
見えていたのは十分前だとしても、声は今だ。
「いました」
僕も言った。
澄人が荷札板を抱え直す。
「先輩」
「はい」
「こういうの、前からやってたんですか」
「前は」
言いかけて、少し止まった。前。中学の図書室。
高校の教室。王城の工房。
西詰所。前、と言える場所が少しずつ増えている。
「前よりは、やっています」
それだけ言うと、澄人は少し頷いた。その返事で十分だった。
後輩と、その友達。言葉にすると軽い。
でも、僕の名前を知っていて、こっちの返事を待つ相手がクラス以外にいる。
それは、変な感じがした。
悪くない方の、変な感じだった。
旧木炭道の坂は、登る時より下る時の方が怖い。
荷が前へ流れる。足元の砂利が逃げる。白板を持つニコの腕が、少しずつ下がる。
ラドさんは前を歩いていた。保守組のイラは、後ろで杭を抱えている。
僕は真ん中より少し後ろ。全員が見える。
でも、全員を見ようとすると、足元が遅れる。
「ニコ、止まって」
声が出た。
ニコが止まる。
ラドも止まった。
保守組のイラは一歩遅れて止まり、杭の束が少し鳴った。
「何だ」
ラドさんが聞く。
「白板を先に下ろします」
「理由」
「ニコの腕が下がっています。坂で転ぶと、白板が前へ行きます」
ニコが自分の腕を見た。
「下がってる?」
「はい」
「言ってよ」
「今言いました」
「そうだけど」
保守組のイラが白板を受け取る。
そのままでは持ちにくそうだったので、僕は杭の束を一本抜いた。
「杭を一本だけ先に。束は後ろ」
「はい」
「ラドさん、前を少し遅く」
言ってから、しまったと思った。ラドに指示。
いや、今のは指示だ。指示、で合っている。
合っているけれど、できればもう少し柔らかい名前がほしい。
お願い。提案。坂道における前方速度調整依頼。
最後のは絶対に駄目だ。ラドさんは少し眉を上げた。
「俺にか」
「はい。すみません」
「謝るな。理由」
「前が速いと、後ろが急ぎます」
ラドさんは黙った。
それから、口の端を上げる。
「代表候補らしいじゃねえか」
「候補です」
「今のは候補より少し上だ」
どう返せばいいか分からなかった。
候補より少し上。
正式名称は報告書にもなかった。
でも、今の僕には妙にちょうどいい段差だった。
とりあえず、手帳を開く。坂道。白板、先下ろし。
杭束、分割。前方速度、後方に影響。書きながら、手が少し熱かった。
人に言った。人が止まった。ラドまで止まった。
それは、怖い。でも、坂の下まで誰も転ばなかった。ニコが振り返る。
「さっきの、ちょっと代表っぽかった」
目は、線の引かれていない区画へ向いた。
「ぽいだけです」
「ぽいの大事じゃん」
ぽい。
これも正式書類には書けない。
代表者ぽい行動、一件。
もし書いたら、受付職員はどんな顔をするだろう。
そうなのかは分からない。ただ、白板は割れていない。
杭も落ちていない。誰も膝を擦りむいていない。代表かどうかは分からない。
でも、一歩止める声は出せた。最初に聞こえたのは、旧木炭道の奥で金属が軋む音だった。
採石場跡へ続く広い道から、低い唸りが近づいてくる。
魔物ではない。
いや、最初はそう見えた。
木の間から出てきたのは、鉄板を貼った車だった。
車輪は六つ。前面に斜めの装甲。上には短い砲身。
横腹には、煤で黒くなった排気管。装甲戦闘車。そう呼ぶしかなかった。
「うわ」
ニコが言った。僕も同じことを言いそうになった。車体の横には、冒険者協会の印。
軍の車両ではない。冒険者の車だ。
車長らしい男が、上部ハッチから身を乗り出した。
「道標組か!」
声が大きい。
エンジン音に負けないためだろう。
「仮看板です」
僕が答えると、ラドさんが横で小さく笑った。
車長には聞こえなかったらしい。
「採石場跡に大型が出た。道を空けろ。あと、戻り線を見せろ」
「戻り線」
「こいつは後ろが見えねえ! 下がる場所を間違えると転ぶ!」
こいつ、というのは装甲車のことらしい。
狭い道に、重い車体。古い石と雨上がりの土。
転ぶ、という言い方だけが妙に生々しかった。
ラドさんが僕を見る。
「やれるか」
「道を空けるだけなら」
「だけじゃねえ」
その通りだった。採石場跡の方で、地面が揺れた。大きな影が見える。
岩を背負ったような魔物。四つ足。肩が人の背より高い。
数字は出た。1。一体。
それは分かる。でも、一体だから軽いわけではない。
「ニコ、白布。保守組さん、左の古い杭に結んでください。右は赤布。装甲車に見せるのは白、入っちゃ駄目なのが赤」
「え、赤が駄目?」
ニコが聞き返す。
「今日はそうします」
少し、声が減った。
「いつもと違う」
「今日は装甲車用です」
ニコはまだ分かっていない顔をしていた。全部は分かっていない。でも、後ろが見えないとは言っていた。
なら、後ろから見えるものを置くしかない。装甲車が前へ出る。砲身が少し上がる。
大型魔物が採石場の岩を踏み割った。音が腹に来る。
「射線、空けろ!」
車長の声。ラドさんが僕の肩を引いた。砲声。
耳が詰まった。大型魔物の肩で火花が散る。岩の背にひびが走り、欠けた石が地面へ降った。
倒れない。砲尾が開き、空薬莢が床で跳ねる。次弾を押し込む間にも、大型魔物は割れた肩をこちらへ向けて距離を詰めた。
もう一発。ひびの横が弾けた。それでも前脚は止まらない。装甲車は撃った後、すぐには動けなかった。
機関手が何か叫ぶ。車体が少し後ろへ下がる。右の車輪が、ぬかるみに入りかけた。
「右、赤!」
僕は叫んだ。
通じたか分からない。
ニコが赤布を振った。
「赤、だめ! 右だめ!」
言葉は雑だった。でも、通った。車体が左へ切れる。
白布の方へ下がる。大型魔物が前脚を振った。装甲板に当たり、車体が傾いた。左の車輪が一度だけ浮き、土へ落ちる。
鈍い音。銃手が横の銃座から撃つ。連射ではない。
一発。間。一発。
一発は目の横。もう一発は前脚の内側。大型魔物が顔を背けた。その分だけ、次の踏み込みが遅れた。
狙ってはいる。けれど車体が揺れるたび、銃口も少しずつ逃げた。
車長が怒鳴り返し、機関手も何か叫ぶ。半分くらいしか聞こえない。
音が大きい。土が跳ねる。白布も見えたり見えなかったりする。
誰かが同じことを二回叫んで、それでやっと通る。
「羽黒、前を見るな」
ラドさんが言った。
「車輪を見ろ」
車輪。僕は装甲車の足元を見る。右後輪。
沈みかけている。白布の線より半歩内側。
「左に半歩! 白より左!」
車長がこちらを見た。
距離があり、こちらの言葉は全部届いていない。
僕は白布を持って走った。走りすぎない。射線に入らない。
車輪の前に出ない。白布を地面に落とし、杭で押さえる。ここ。
ここまで。装甲車が下がる。ぎりぎりでぬかるみを避けた。
大型魔物が追う。前脚を伸ばし、もう一度装甲板へ叩きつけようとした。そこへ、三発目が入った。今度は肩ではない。
浮いた前脚の付け根。衝撃で脚が内側へ折れ、大型魔物の顎が地面を削った。
ラドと冒険者たちが一斉に前へ出る。盾が頭を押さえ、左右から槍と剣が割れた岩の隙間へ入った。止めを刺すためではない。装甲車が下がりきるまで、顔を上げさせないためだ。
僕は行かない。行かないで、白布を見た。赤布。
白布。装甲車。ニコ。
保守組のイラ。全員、線の内側。そこで初めて、息を吐いた。
戦闘はまだ終わっていない。でも、車は倒れていない。人も轢かれていない。
それだけで、膝の力が少し抜けた。車長がハッチから顔を出した。
「道標組!」
「仮看板です」
「どっちでもいい! 白、助かった!」
どっちでもよくはない。
でも、今はいい。
手帳を開く。
装甲戦闘車、一。大型魔物、一。右後輪、沈みかけ。白布、退避線。赤布、進入不可。
最後に、車輪を見る、とだけ書いた。
それくらいしか、今のところは言えなかった。