ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 四章 二十九節
『看板の重さは板に宿らず、通る者の足に宿る。』
翌日の昼前、西詰所の掲示板に一枚の紙が増えていた。
昨日の依頼票の控えだ。旧木炭道、仮標識交換。作業完了。
翌日夕方、視認再確認予定。その下に、小さく。みちしるべ。
昨日も見た文字なのに、掲示板に貼られると少し違って見えた。
紙一枚分、逃げ場がなくなる感じがする。
同時に、紙一枚分、前へ出た感じもした。
前へ出た、は言いすぎかもしれない。
でも、昨日は机の上にあった名前が、今日は掲示板にある。
誰かが見る場所にある。
それが少し、くすぐったかった。
「見てるだけで減るぞ」
後ろからラドさんの声がした。
「減るんですか」
「紙は減らん。お前の腹が減る」
確かに、朝からあまり食べていない。
緊張している、というほどではない。
でも、落ち着かない。
昨日立てた白板が、今日もちゃんと見えるのか。
縄が外れていないか。森猿人の足跡が増えていないか。
ニコがまたあそこを通ろうとしていないか。考えることが、紙からはみ出している。
「再確認は夕方だ。今すぐ行っても意味が薄い」
「分かってます」
「昼を食え」
ラドさんは札束ではなく、包み紙の方を顎で示した。
「先にそれを言いますか」
返事をしてから、僕は掲示板の端へ目を向けた。
昨日まで空いていた小さな欄に、受付職員の字で追記がある。
仮設立審査中共同作業、一件。一件。
数字としては小さい。でも、ゼロとは違う。
僕はその一件を見て、なぜか肩の紐を直した。
荷はまだ背負っていない。それなのに、少し重い。重い、と思ったのに、嫌ではなかった。
一件。何度見ても一件だ。僕は掲示板から目を外し、もう一度見た。
✶
昼食は硬いパンと豆の煮込みだった。うまいというより、ちゃんと胃に入った。
食堂の端でパンをちぎっていると、革鎧の男が隣の椅子を引いた。
雑用クランと笑った男だ。
座るのかと思ったら、座らずに皿だけ置いた。
「昨日、旧木炭道に出たんだってな」
「出ました。雨のあとで、道が少し沈んでいました」
「森猿人も出たって聞いた」
「一体です。倒したのはラドさんです」
「そこは正直なんだな」
男は笑った。
からかい半分。
でも、昨日ほど刺さる感じではない。
「少し止めた、って書いてあったぞ」
「書きました」
「自分で?」
「はい。盛ると、次に同じ場所へ行く人が困るので」
「よく書けるな。俺なら、ちょっと盛る」
男の荷袋から、乾いた縄の匂いがした。昨日より近い場所に立っている。
「それでも、僕も少し迷いました」
前なら曖昧に笑って終わらせたと思う。男は片眉を上げた。
「次に困る、ね」
「僕が倒せると思われたら、次は一人で前に出されるかもしれません」
「出たいんじゃないのか。冒険者だろ」
「出る時は出ます。でも、出なくていい時は出たくないです」
男は少し黙った。
僕はパンを飲み込む。
喉に引っかかりそうになって、水で流した。
「変なやつだな」
「よく言われます」
「だろうな」
男は皿を持ち上げた。
「旧木炭道、昔は炭運びが通ってた。俺の親父も一回だけ荷を出したことがある」
「そうなんですか」
「だから、あそこをまだ道だと思ってる爺さん婆さんがいる。札を立てるなら、でかくしろ」
それだけ言うと、男は別の卓へ行った。僕は忘れないうちに、手帳へ「札は大きく」と書いた。
僕はパンの最後の一切れを見た。雑用組。王城上がり。
変なやつ。呼ばれ方は増えた。でも、その中に一つ、仕事の話が混じった。
仕事の話をもらえた。本当は、悪くないより少し良い気分だった。
食べ終えて立つと、椅子の脚へ荷袋の紐が絡んでいた。足元を見る、はすぐ役に立った。
✶
夕方の旧木炭道は、昨日より黒かった。
雨は降っていない。
それなのに、炭焼き窯跡の影が濃い。
太陽の角度が変わっただけで、道の顔が変わる。
喉の奥に少し引っかかった。
「昨日の白板、見えます」
保守組のイラが入口に立って言った。僕は街道側から確認する。白板は見えた。
赤線も見える。その下の小さな布も、風で少し揺れている。
みちしるべ。ニコの字は、やっぱり曲がっていた。
でも、黒い窯跡の手前では、その曲がり方がかえって目に止まった。
「赤札は」
「見えます。でも白板の方が先です」
「それでいいと思います」
言いながら、僕は足元を見た。昨日の足跡。ラドの靴跡。
僕の滑った跡。森猿人を引きずった跡。いくつかは残っている。
いくつかは崩れている。その中で、縄の近くに新しい跡があった。小さい。
でも、森猿人の足跡ではない。靴だ。子どもの靴。
僕は息を止めた。頭の端に、数字が浮く。3。
足跡の数、だろうか。歩数、だろうか。子どもの数、ではないと思いたい。
数字だけでは分からない。分からないから、膝をついて見た。
「どうした」
ラドさんが後ろから言う。
「新しい靴跡があります。縄の手前で止まっています」
「越えたか」
「越えていません。たぶん」
僕は杭の位置を見直し、靴先で土を押した。
「たぶんを消せ」
僕は頷き、縄の向こう側を見た。土は崩れている。
昨日の僕の靴跡はある。保守組の足跡もある。
でも、新しい小さい靴跡は、縄の向こうには見えない。
「越えていません」
今度は言えた。
保守組のイラが、白板の下を覗き込む。
「ここで止まって、戻ったみたいですね」
札を見て、縄の前で止まり、戻った。小さな靴跡は、杭の手前で向きを変えていた。
僕は手帳へ、通行痕一、引き返し、と書いた。嬉しいとは書かなかった。
「記録します」
「書くのか」
ラドさんが言った。
「はい。小型の靴跡、縄手前で停止、引き返し。白板と縄の効果あり、ただし足跡三歩分なので断定不可」
「断定不可まで書くなら書け」
保守組のイラが、少し笑った。
「断定不可って便利ですね」
「便利というより、逃げ道です」
「報告書の?」
言ってから、ペン先を一度だけ浮かせた。
「僕の」
分からないものを分かったことにしないため、未確認の欄は残した。後で足跡が増えれば書き足せる。
✶
西詰所へ戻ると、ニコが荷置き場にいた。
今日は荷を持っていない。
代わりに、小さな紙片を持っている。
「見た?」
僕を見るなり、ニコが聞いた。
「何をですか」
「旗」
「旗?」
彼女は紙片を差し出した。そこには、下手な絵が描かれていた。道。
杭。小さな布。たぶん、みちしるべの旗だ。
「看板にするって」
「誰が」
「受付の人」
僕は受付を見る。
受付職員は、何も知らない顔で紙を揃えていた。
いや、たぶん知っている。
顔が少し笑っている。
「正式じゃないですよね」
「仮看板です」
受付職員はさらりと言った。
「仮設立審査中の作業窓口が、毎回口頭確認では混みます。目印が必要です」
「目印」
「はい。看板ではありません。仮の目印です」
言い方がうまい。看板ではない。
でも、ほとんど看板だ。ニコが紙片を持ち上げる。
「字、もっとまっすぐ書けるよ」
「昨日の曲がった字も見えました」
「じゃあ、曲げる?」
ニコは板の上で、わざと筆を斜めに浮かせた。
「わざと曲げなくていいです」
ニコは少し不満そうにした。その顔を見て、少し笑いそうになる。笑いそうになって、やめた。
目印が増える。それは嬉しい。
でも、目印は立てた瞬間から、誰かがそれを頼りにする。
白板も。縄も。掲示板の一行も。
この仮看板も。軽くはない。受付職員が一枚の依頼票を机に置いた。
「みちしるべ宛、という形ではありません。ただ、昨日の記録を見た保守組から、次の相談が来ています」
「次」
「北二番水場の案内札です。雨の後、矢印が逆に見えるそうです」
矢印が逆。それは、少し嫌な言葉だった。道を示すものが、道を間違えさせる。
旧木炭道と同じだ。ラドさんが横から依頼票を覗き込む。
「受けるなよ。今日はもう帰って寝ろ」
「はい」
即答すると、ラドさんが少し目を細めた。
「珍しく早いな」
「昨日、続けろと言われたので」
「続けるのと詰めるのは違う」
「はい」
今日は依頼票を持ち帰らなかった。受付職員は保留の日付を書き、明朝の棚へ移した。
代表候補の印は、まだ仮のままだ。
受付職員が紙を一度引っ込め、別の棚へ置く。
「明朝、再提示します」
「お願いします」
ニコが紙片を僕に渡した。
「これ、直してくる」
「無理しなくていいですよ」
「無理じゃない。字の練習」
そう言って、彼女は荷置き場の方へ走っていった。
僕はその紙片を見送る。道。杭。
小さな布。看板には早いが、目印にはなる。
誰かが止まり、読んで、戻れるくらいの目印。
今の僕たちには、それくらいがちょうどいい。
杭は一本だけ余っていた。
旧木炭道の分岐には、打ちたい場所が二つある。
一つは、黒い木炭跡の手前。もう一つは、荷車が曲がりすぎる外側。一本。
二か所。数字にすると簡単だ。足りない。
でも、手の中に杭があると、どちらかには打てる気がしてしまう。
一本あるのに、足りない。
この矛盾は、かなり腹立たしい。
杭に怒っても仕方ないので、黙って持つ。
「こっちでいいんじゃないですか」
保守組のイラが、外側の地面を指した。
「荷車が落ちるのはこっちです」
革鎧の男は木炭跡の方を見ている。
「いや、夜なら黒い方へ吸われる。先にこっちだ」
二人の言う場所は、昼と夜で別だった。
視界の脇で、二つの場所だけが妙に濃くなる。
2。危険箇所。
たぶん、二。杭は一本。
「今日は打ちません」
口に出すと、二人が同時にこちらを見た。
「何でだよ」
革鎧の男が言う。
「一本あるだろ」
「一本だけ打つと、打たなかった方が安全に見えるかもしれません」
「見えるだけだろ」
「見えるだけで、人は進みます」
昨日も、そうだった。赤い矢印。水に映る線。
黒に沈む道。目印は、嘘をつかない。
でも、見え方で人を動かす。保守組のイラが、杭を見た。
「じゃあ、申請ですか」
「はい。杭二本。白板一枚。夜間確認ありで」
革鎧の男が舌打ちした。
「面倒くせえ」
「はい」
「でも、まあ、一本打って終わった顔されるよりはましか」
そう言って、彼は杭を僕に押し返した。
「持って帰れ。打たなかった杭も記録しとけ」
「打たなかった杭」
「そういうの好きだろ」
好きではない、と答えかけた。打たなかった杭、という言い方は少し残った。
でも好きだと認めると、ラドさんあたりに面倒な顔をされそうなので、心の中では保留にした。
でも、書く必要はある。僕は手帳を開く。危険箇所二。
杭一本では不足。片側のみ処置は誤認のおそれ。追加杭二本申請。
白板一枚。夜間確認要。余剰杭一本、持ち帰り。
余剰。余っているのに、足りない。
変な言葉だ。でも、今日はそれが一番近かった。
帰り道、杭は肩に重かった。手帳の「余剰杭一本」という字が、歩くたび革表紙に擦れた。
✶
西詰所の門をくぐると、井上が壁に寄りかかっていた。
澄人は少し離れた場所で、荷札の束を数え直している。
「先輩、遅い」
「ごめん、仕事がいろいろあって」
「杭の話、聞きました。二本申請して、一本持ち帰ったって」
「もう伝わってるんですか」
「保守組のイラさんが教えてくれました」
情報が回るのが早い。困る早さだ。
「余った杭、見せてください」
「んー見せなくてもいいかな?」
「ないです。でも見たいので」
断る理由が見つからず、僕は肩の杭を下ろした。井上はそれを両手で持ち、重さを確かめるように少し傾ける。
「思ったより重いですね」
「軽い方が危ないので」
「先輩らしい返し方」
澄人が荷札から顔を上げずに言った。
「褒めてます?」
「さあ」
井上が杭を返しながら、少し笑った。
「今度、私も何か持ってみたいです。先輩の道具」
「危ないよ、許可したくない」
「即答」
「即答だよ」
澄人が荷札を束ね終え、井上の背中を軽く押した。
「帰るぞ。羽黒先輩も、これから寝る予定があるだろ」
「え、あるんですか」
「ない予定を今作りました」
井上が小さく吹き出した。
二人が門の方へ歩き出す。井上は途中で一度だけ振り返り、小さく手を振った。
僕は杭を持ち直し、その重さで手を確かめた。今日はもう十分歩いた。でも、悪くない歩数だった。