ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 五章 一節
『名簿にない場所にも、戻る音を待つ小さな祭壇がある。』
朝の西詰所は、昨日より少し狭く見えた。
人が増えたわけではない。
荷が増えたわけでもない。
ただ、受付机の端に小さな木箱が一つ置かれていた。
白い板。赤い線。
曲がりかけた字。みちしるべ。
「……これ、何ですか」
僕が聞くと、受付職員は顔を上げずに答えた。
「仮置き箱です」
「仮」
「正式な備品棚に入れるには、まだ名簿上の所属がありません。ただ、毎回こちらで探すと手間です」
言い方は事務的だった。
でも、箱はもう置かれている。
手間。
その一言で箱が置かれるなら、世の中の居場所は意外と手間でできているのかもしれない。
いや、さすがに言いすぎだ。名簿にはない。棚にもまだない。
それでも、机の端にはある。仮置きのままでは、依頼のたびに人と道具を借り直すことになる。この箱を正式な棚へ上げる。そのために、まず今日の共同作業を終える。僕は箱の前で、少し立ち止まった。
「……邪魔でしたら、どこか別の場所へ移しますよ」
僕が恐る恐る提案すると、受付職員は羽ペンを走らせる手を止め、一度だけ顔を上げた。その視線は箱の中の、まだ整理されていない道具の山を数秒間だけなぞり、それから僕の目を見た。
「邪魔ならば、そもそもここには置きません。……まだ名簿にないものは、目に見える場所に置いておくしかないのです。消してしまわないように」
言い方は事務的で、どこか突き放すようでもあったが、彼女の指先が箱の縁をかすめる動きだけは、驚くほど丁寧だった。
それで話は終わりだった。
終わりのはずなのに、僕はまだ箱を見ていた。
ニコの字は、昨日よりまっすぐになっている。
まっすぐになったせいで、少し寂しい。
いや、何を考えているんだ僕は。
「曲げ直した方が……いいですか」
昨日のような『歪さ』が欠けていることに、僕はどうしようもない居心地の悪さを感じていた。思わず漏らした問いに、受付職員は帳簿から顔を上げずに応じた。
「わざわざ歪ませる必要はありません。昨日と同じことを言わせないでください」
「……すみません。昨日のことも、覚えているんですね」
「名簿には載っていませんが、私の仕事は昨日起きたことを忘れないことです。あなたが成長しているのなら、それを記録するだけです」
成長。それでいいのだろうか。
たぶん、いい。ラドさんが奥から出てきて、箱を一瞥した。
「看板屋になったか」
「仮看板です」
「仮の看板屋か」
ラドさんは訂正を聞き流し、白板の縁を指で叩いた。
「違います」
「似たようなもんだ」
そう言いながら、ラドさんは一枚の依頼票を僕の前に置いた。
依頼票には、北二番水場の案内札確認とある。
雨天後に矢印の視認不良が出たため、保守組立会いで確認。危険度は低。ただし夜間通行あり。
低。
低い、はずだ。
でも、旧木炭道も最初は軽い依頼だった。
「受けるか」
ラドさんが聞く。昨日は、すぐ受けなかった。
今日は、すぐ答えなかった。依頼票を見る。水場、矢印、雨、夜間通行。
見間違えた誰かが、水を探して違う道へ進む。
それだけで、十分に面倒なことになる。
「受けます。ただ、夕方の見え方も確認したいです」
「朝に行って、夕方にも行く気か」
「一回で分かるなら、昨日の白板も一回で終わっていました」
ラドさんは鼻を鳴らした。
「言うようになったな」
返事は、椅子のきしみのあとに来た。
「すみません」
「謝るところじゃない」
受付職員が依頼票に短く追記する。
午前確認。
夕方再確認。
仮置き箱より白板一枚、赤線二本、予備杭一本を持出。
仮置き箱。
その文字が、紙の上に載った。
名簿にはないのに、箱の名前は書かれるらしい。
少し、秘密基地の備品欄みたいだと思った。
思った直後に、受付机の奥で羽ペンが走る音がして、その考えは引っ込んだ。ここは遊び場ではない。持ち出したものが戻らなければ、誰かが探しに行く場所だ。
✶
北二番水場は、街道から少し外れた場所にあった。
旧木炭道ほど危なくはない。
道は広い。
足元も固い。
水場の周りには低い石組みがあり、通行人が水を汲めるようになっている。
ただ、案内札が二つあった。一つは街道側。一つは水場の脇。
どちらも矢印がある。街道側の札は、右。水場脇の札は、戻る方向。
普通に見れば、問題はない。普通に見れば。普通という言葉は、現場ではよく外れる。
最近、それを何度も見ている。できればそろそろ当たってほしい。
「雨の後だと、ここの石が光るんです」
保守組のイラが、石組みの縁を指した。
「水が乗ると、矢印の赤が反射して、逆向きにもう一本あるように見えます」
「逆向きに」
僕はしゃがんで、石の表面を見る。薄く水が残っていた。朝の光が、そこに斜めに入っている。
赤い線が、石の中で少し伸びて見えた。頭の端に、数字が浮く。2。
二、のはずだ。たぶん。四章の迷宮ではもっとすぐ形が決まった気がするが、今日はやけに輪郭がゆるい。
札の数。矢印の数。
反射した線の数。どれかは分からない。
でも、二つに見えるということだけは合っている。
僕は手帳を開いた。
北二番水場。朝、晴れ。水面反射あり。
矢印が二重に見える。数字、2。断定不可。
「また断定不可ですか」
保守組のイラが覗き込む。
「便利なので」
「逃げ道って言ってませんでした?」
「便利な逃げ道です」
言ってから、少ししまったと思った。
でも、彼女は笑った。
笑ってから、すぐ真面目な顔に戻る。
その切り替えが、少し羨ましかった。僕はまだ、軽口を言ったあとで、それが軽口で済むのかどうかを一拍遅れて確認している。
「どう直します?」
僕は札と石を見比べた。赤い矢印は目立つ。でも、水に映ると増える。
旧木炭道では、赤が黒に沈んだ。ここでは、赤が水で増える。目印は、場所によって嘘をつく。
いや、嘘ではない。見え方が変わるだけだ。
「矢印を一本足すより、反射しない位置に白板を置きます。水場の脇には、矢印ではなく文字で戻り方向を書いた方がいいです」
「文字を読む前提ですか」
「夜間通行者には弱いです。だから街道側に先に大きい白板を置いて、水場脇は補助にします」
「予備杭一本で足りますか」
僕は持ってきた杭を見る。一本。
足りない。足りないのに、依頼票には一本と書いた。
「足りません」
口に出すと、軽かった。
保守組のイラは頷いた。
「じゃあ今日は仮処置ですね」
「はい。午前は仮処置。夕方に見え方を確認して、追加杭を申請します」
手帳に書く。
追加杭二本、白板一枚。赤線ではなく黒文字。
夜間用に小型反射石、要相談。相談。
自分一人で決めないための言葉だ。たぶん、今はそれでいい。
✶
夕方、もう一度水場へ戻ると、朝よりずっと分かりにくかった。
赤い矢印は暗い石に沈み、白板だけが先に浮いた。
仮処置としては、たぶん悪くない。
ただ、水場脇の古い札は、やっぱり迷う。
ラドさんが腕を組んで言った。
「どうする」
紙の角が、指の腹で押し戻された。
「今日は外しません」
「理由」
短い問いに対して、僕の返事だけが少し長くなった。
「水場の場所を知っている人には、古い札も使われています。急に消すと、逆に迷うかもしれません」
「じゃあ残すのか」
古い札の釘穴が、板の端に黒く残っていた。
「残したまま、補助を足します。朝と夕方の見え方を両方書いて、保守組で決めてもらいます」
ラドさんは少し目を細めた。
「お前が決めたいわけじゃないのか」
「決めていいことと、決めたら駄目なことがある気がします」
「気がする、か」
「はい」
言い切れない。
でも、言い切れないことを言い切るよりは、たぶんましだ。
ラドさんはそれ以上言わなかった。
帰り道、革鎧の男とすれ違った。
彼は僕の持っている白板を見て、口の端を上げた。
「今度は水場か、看板屋」
「仮看板です」
「はいはい、仮看板屋」
からかいは残っている。
でも、彼は腰の袋から古い釘を二本取り出して、僕に投げた。
「曲がってるが、打てる」
答えは、靴底の擦れる音より遅かった。
「いいんですか」
「使えなきゃ捨てろ」
釘は錆びていた。でも、頭は潰れていない。
僕は受け取って、礼を言おうとした。その前に、男は背を向けた。
「雑用組は、釘くらい持っとけ」
雑用組。その言い方は変わっていない。でも、今日は釘が二本増えた。
何かが変わったのかもしれない。何も変わっていないのかもしれない。
とりあえず、釘は使える。僕はそれを荷袋の端に入れた。
✶
西詰所に戻ると、仮置き箱の横に小さな札が増えていた。
みちしるべ。持出中。
その下に、受付職員の字でさらに小さく。返却確認、羽黒。
「僕の名前が」
「返却者欄です」
「所属名簿ではなく」
紙面の上で、欄の線だけが妙にはっきり見えた。
「違います」
受付職員は、いつもの調子で言った。
「正式なクラン名簿には載っていません。審査中です」
「はい」
「ただ、備品の所在は記録します」
備品の所在。
人の居場所ではない。
道具の場所だ。
でも、白板を戻す場所があり、釘を入れる袋があり、紙に僕の名前がある。
それは、不思議だった。
ニコが荷置き場から顔を出した。
「看板、見た?」
「見ました」
「字、まっすぐでしょ」
「まっすぐでした」
白板の字は、確かにまっすぐだった。釘穴の方が少し曲がっている。
「曲げなくてよかった?」
「はい」
ニコは満足そうに頷いた。
それから、少し声を落とす。
「ここ、みちしるべの場所?」
僕は答えに詰まった。
ここだと思った。
受付机の端、仮置き箱、持出中の札。白板と、曲がっていない字。
正式な場所ではない。
名簿にもない。
でも、誰かがそう呼んだ。
「まだ、たぶん違います」
そう言ってから、箱を見る。
「でも、ここに戻すものはあります」
ニコは少し考えてから、頷いた。
「じゃあ、戻す場所じゃん」
戻す場所。
その言い方は、少し乱暴だった。
でも、分かりやすかった。
受付職員が報告書を受け取り、控えを一枚こちらへ戻す。
「北二番水場、仮処置完了。追加資材申請。夕方視認記録あり。みちしるべ、二件目の共同作業として保留記録に入れます」
「保留記録」
「正式記録の前段階です」
また仮だ。
また保留だ。
それでも、前段階はゼロではない。
仮と保留ばかり集めたら、いつか正式になるのだろうか。
ならない気もする。
でも、ゼロよりはずっと音がする。
僕は控えを受け取り、仮置き箱の横に重ねた。
一枚目。旧木炭道。
二枚目。北二番水場。
紙が二枚になると、箱の中で少し音が変わる。
軽い。
でも、空ではない。
ラドさんが扉の横で手袋を外していた。
「これで満足か、代表候補」
「満足かどうかは、まだ分かりません」
「じゃあ何だ」
僕は箱を見た。王城の部屋ではない。西詰所の椅子でもない。
正式なクランの事務所でもない。机の端の、小さな木箱。
「戻すものが増えました」
ラドさんは一瞬だけ黙った。
それから、短く笑う。
「なら、なくすな」
「はい」
外では、夕方の鐘が鳴っていた。名簿には、まだない。看板も、まだ仮だ。
保証人欄も、空白のままだ。それでも、明日ここへ来れば、箱がある。
箱の中には、白板と赤線と、曲がった釘が二本ある。
旧木炭道と北二番水場の控えもある。
誰かが道を間違えそうになった時、そこから一枚取り出せるかもしれない。
僕は仮置き箱の蓋を閉じた。軽い音がした。
戻る場所の音にしては、小さすぎる。でも、今はそれくらいでよかった。
✶
宿へ戻る途中、荷馬車の集配所に、澄人の字で書かれた短い紙が届いていた。
先輩、元気にしてますか。希望が、また誰かの位置を探してます。今度会えたら、ちゃんと顔を見せてください。
それだけの内容だった。用件と呼べるほどのものはない。
でも、僕は紙を畳んで、荷袋の内ポケットへしまった。仮置き箱には入れない。ここに置く紙とは、種類が違う気がした。