ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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五章二話 状態線の戦い

《王録》 五章 二節

『状態線の戦いは人数を数えず、息の乱れを数える。』

 

 仮置き箱の横に、椅子が二つ増えた。

 

 それだけで、西詰所の受付机は少し狭くなった。

 

 荷札の束、白板、赤布、曲がった釘二本。

 

 その隣に、保守組のイラが腰を下ろし、ガロンが壁にもたれて立っている。

 

 メリルは受付側の机で、古い帳面を開いていた。

 

 ニコは仮置き箱の蓋に、みちしるべの字をもう一度書き直そうとしている。

 

 人が増えた。そう言うと簡単だけど、実際には少し違う。正式なクラン員ではない。

 

 協力者。立会人。記録補助。

 

 臨時荷運び。呼び方はいくつもある。

 

 そのどれも、まだ少し逃げ道がある。それでも、机の周りに人がいる。

 

 昨日までなら、僕が箱の前で立っている時間の方が長かった。

 

 今日は、誰かが椅子を引く音がして、誰かが帳面をめくっている。

 

 少し、胸の中が忙しい。

 

 仮札の新しい木だけが、使い込まれた装備から浮いている。

 

 浮いている時ほど、ラドさんはだいたい何かを言う。

 

「つまり、名簿に書いていい人が増えたってこと?」

 

 ニコが聞いた。

 

「まだ全員ではありません」

 

 相手の視線は、余った白地に残った。

「じゃあ、名簿の横に書く人」

 

「それは、だいたい合っています」

 

 ニコは満足そうに頷いた。

 

 横に書く人。

 

 妙な言い方だけど、今の状態には近い。

 

 正式名称としては絶対に通らない。

 

 でも、受付で呼ばれたら一番早く返事をしそうな名前ではあった。

 

 ラドさんは入口近くで腕を組んでいた。

 

「人数が増えると、楽になると思うなよ」

 

「思ってません」

 

「見る場所が増える。疲れるやつも増える。間違える声も増える」

 

 ラドさんは赤い線を指でなぞり、途中で止めた。

 

「そこまでは、もう分かります」

 

「返事だけなら鳥でもできる」

 

 言い返す前に、喉の奥で返事だけが先に動いた。

 

「今のは失敗でした」

 

「今のも返事だ」

 

 ニコが笑いそうになって、慌てて口を押さえた。

 

 僕も少し笑いそうになった。

 

 でも、笑う前に受付職員が一枚の依頼票を机に置いた。

 

 返事だけなら鳥でもできる。

 

 頭の中で、妙に律儀な鳥が依頼票をくわえている絵が浮かんだ。

 

 いらない想像だった。でも、少し肩の力は抜けた。北二番水場、追加杭搬入。

 

 旧木炭道、夜間札確認。西側斜面、落石跡確認。三つが一枚にまとめられている。

 

「同時ですか」

 

「同じ道筋です」

 

 受付職員はさらりと言った。

 

「別々に出すと、三回通ることになります。まとめた方が、道の負担も少ない」

 

 道の負担。

 

 人ではなく、道。

 

 でも、人も同じだ。

 

「受けるか」

 

 ラドさんが聞いた。前なら、依頼票だけを見ていたと思う。今は、机の周りを見た。

 

 ニコ。イラ。ガロン。

 

 メリル。ラド。頭の端に、数字が浮く。

 

 疲労。歩行速度。荷重。

 

 生命。その横に、出血なし。緊張、これは数字では見えない。

 

 生命、という字がそこにあった気がする。ただ、言い切るには早い。四章の頃はもっと簡単に、見た文字をそのまま信じられた気がするが、今はにじんでいて、確信が持てない。

 

 見えているのは身体の反応だ。心までは分からない。

 

 分からないから、顔も見る。ニコは目が大きい。少し張り切っている。

 

 イラは落ち着いているが、左手首に擦り傷がある。

 

 ガロンは泥の乾き方から見て、朝から一度外へ出ている。

 

 メリルは帳面を見ている。外に出る格好ではない。

 

「受けます。ただ、二班に分けません」

 

 ラドさんが眉を上げた。

 

「人数が増えたのにか」

 

「はい。今日の道は分けると連絡が切れます。全員で行って、途中で役を入れ替えます」

 

「理由」

 

「ニコは荷を持ちすぎると腕が落ちます。イラさんは左手首を使わせたくないです。ガロンさんは朝から歩いています。メリルさんは記録係で残ってもらった方がいいです」

 

 言ってから、少し早口だったと思った。イラが自分の左手首を見た。

 

 ガロンは靴先の泥を見る。ニコは腕を上げ下げした。

 

「なんで分かるの」

 

「見えました」

 

「数字?」

 

 視界の端で、薄い値が草の揺れに混ざった。

 

「たぶん」

 

 たぶん、が口に残る。

 

 でも、今は嘘をつくよりいい。

 

 ラドさんはしばらく黙っていた。

 

「なら、編成を言え」

 

 喉が少し狭くなる。

 

 編成。

 

 ただの道具持ちではなく、人を置く話だ。

 

「先頭、ラドさん。前方確認。僕は二番目。旗と短銃。ニコは中央で白板だけ。イラさんは記録と杭一本、左手を使わない持ち方で。ガロンさんは最後尾、荷の落ちと後方確認。メリルさんは詰所で受け取り記録と戻り予定の管理」

 

「俺は?」

 

 革鎧の男が、食堂側から顔を出した。

 

 いつから聞いていたのか分からない。

 

「今日は依頼外です」

 

「薄情だな、看板屋」

 

「増えすぎると見られません」

 

 言うと、男は一瞬黙った。

 

 それから、口の端を上げる。

 

「見られない、ね。いい言い方だ」

 

 いい言い方。褒められた、のだろうか。いや、この人の場合は半分くらい罠だ。

 

 皮肉かと思った。でも、彼は腰の袋から布を二枚投げてきた。

 

「赤が足りねえなら使え。返せよ」

 

「ありがとうございます」

 

「借りにしとけ」

 

 借り。また戻すものが増えた。

 

 でも、借りられた。その瞬間、指先が少し熱くなった。

 

 あの革鎧の男から布を借りる日が来るとは思わなかった。

 

 借りは軽くない。

 

 でも、軽くないものを渡されたこと自体は、手の中に残った。

 

 

 北二番水場までは、予定通りだった。追加杭を打ち、白板の位置を少し変える。古い札は外さず、横に補助札を立てた。

 

 イラは左手を使わず、右手で記録を取った。少し遅い。でも、字は読める。

 

「遅くてすみません」

 

「読めます」

 

「慰めですか」

 

 メリルさんは記録板を抱え直し、こちらを見返した。

 

「実用です」

 

 イラは少し笑った。そこから旧木炭道へ向かう。昼過ぎの森は、妙に音が少なかった。

 

 風はある。葉も揺れている。でも、鳥の声が遠い。

 

 ラドさんが足を止めた。僕も止まる。

 

 ニコが一歩遅れ、イラがその背中にぶつかりかけた。

 

 ガロンは最後尾で、すぐ膝を落とした。

 

 人数を拾うより先に、ニコの呼吸だけが引っかかった。

 

 味方、五。生命、ひとつだけ落ちるのが早い。いや、そう決めるのは早い。

 

 異常というより、負荷が高い。精神の方は、まだ読めない。

 

 ニコの呼吸が少し速い。荷は軽いはずなのに、肩が上がっている。

 

「ニコ、水」

 

「え、今?」

 

「今」

 

 ニコは不満そうに水筒を取った。飲む音。

 

 喉が動く。その間に、ラドさんが低く言った。

 

「いるな」

 

「はい」

 

 見えない。でも、数字が増えた。6。

 

 8。11。

 

 小さい。散っている。

 

 前方の旧木炭道に六。右の濡れた斜面に八。左の低い藪に十一。距離は近くて二十歩、遠いものでも四十歩はない。

 

 前に遭った、横へ動く群れ。

 

 数字の揺れ方は、さっきと同じだった。

 

「戻るか」

 

 ラドさんが聞いた。戻る。それが正しいかもしれない。

 

 でも、後ろにも数字がある。3。挟まれている。

 

 まだ遠い。来た道の後ろ、白板を置いた場所より少し先。十五歩から二十歩。

 

 でも、ただ戻ると後ろとぶつかる。

 

 口の中が乾いた。

 

「戻りません。水場側へ斜めに下がります」

 

「理由」

 

「後ろに三。たぶん追い込みです。旧木炭道へ戻すつもりかもしれません」

 

 ラドさんの目が細くなる。

 

「見えるのか」

 

「数だけです。位置は、草の揺れでだいたい」

 

「だいたいで人を動かすな」

 

「はい。だから、線を引きます」

 

 僕たちは旧木炭道の入口から、沢へ戻る細い道へ体を向けた。前をラド、真ん中にニコとイラ、後ろにガロン。僕は二番目にいたが、後ろの三を見るなら最後尾へ下がる必要がある。

 

 僕は赤布を一本、低い枝に結んだ。

 

 もう一本をニコに渡す。

 

「ニコ、赤は通らない線。白は戻る線。今日は覚えていますか」

 

「覚えてる。赤だめ、白戻る」

 

「イラさん、記録は後で。右手を空けて」

 

「はい」

 

 イラさんの右手が記録板から離れた。

 

「ガロンさん、詰めすぎないで。後ろの三は僕が見ます」

 

「承知」

 

「ラドさん、前を押しすぎないでください。倒しに行くと左右が入ります」

 

 言ってから、また少し怖くなった。

 

 ラドに二度目の指示。

 

 ラドさんは怒らなかった。

 

「続けろ」

 

 そこで話は切れた。小鬼が一体、石を投げた。狙いは白板ではない。

 

 ニコの足元。ニコが小さく跳ねる。呼吸がまた速くなる。

 

 頭の数字が下がった。生命。いや、体力。

 

 どちらの字なのか、境目がまだ見えない。見間違いということにしておく。

 

 まだ動ける。ただ、驚いた直後は足が止まる。

 

「ニコ、白板を置いてください。僕の後ろへ」

 

「持てる」

 

「置いてください」

 

 今度は、ニコが反論しなかった。白板が地面に置かれる。僕は短銃を抜いた。

 

 右の茂みが揺れる。撃つ。当たらない。

 

 でも、出てきかけた一体が止まった。左から二体。ラドさんが一体を棒で弾く。

 

 もう一体は低く抜けようとする。僕は結界棒を地面へ突いた。薄い線が立つ。

 

 壁ではない。でも、小鬼の足はわずかに止まった。そこへガロンが荷棒を横に出した。

 

 殴ったわけではない。ただ、通れない幅を作った。小鬼が下がる。

 

「ガロンさん、そこで止まって」

 

「はい」

 

 後ろの三が近づく。

 

 見えた。

 

 小さい影。

 

 距離はもう十歩もない。ガロンの背中の向こう、道が少し左へ折れるところ。

 

 一体は石。一体は棒。一体は空の袋のようなものを持っている。

 

 袋。目隠し。いや、煙かもしれない。

 

「後ろ、袋持ちです。イラさん、ガロンさんの左へ。左手は使わないで、声だけ出して」

 

「声だけ?」

 

「近づいたら言って。ガロンさんは振り向きすぎないで」

 

 イラの顔が少し強張った。

 

 でも、頷いた。

 

「来ます。三歩」

 

 声が出た。

 

 声が通る。

 

「二歩」

 

 ガロンが荷棒を少し下げる。

 

「一歩」

 

 僕は二発目を撃った。今度は当たった。袋持ちの足元の土が跳ね、袋が落ちる。

 

 中から灰色の粉がこぼれた。煙ではなかった。目潰しの粉。

 

 弾が敵へ当たったかは見えない。でも、袋は落ちた。

 

 今の処理は、少し間に合った。そう思ってしまった。思った瞬間、口の奥が乾く。

 

 間に合った、と考えたすぐ後に、たいてい次が来る。

 

「白へ下がって。二歩」

 

 僕が言う。

 

「二歩」

 

 ニコが繰り返す。

 

「二歩」

 

 イラも続けた。声が列の中を流れる。前から後ろへではない。

 

 真ん中から、両端へ。人数が増えると、声も増える。うるさいだけだと思っていた。

 

 でも、同じ言葉なら線になる。ラドさんが一体を倒した。追わない。

 

 戻る。ガロンの呼吸が荒くなる。数字が一段落ちた。

 

「ガロンさん、次の白で前へ。最後尾は僕が見ます」

 

「代表が後ろですか」

 

「今だけです」

 

 後方の白線が、踏まれた草の上でまだ残っていた。

 

「了解」

 

 ガロンが前へ入る。僕は最後尾へ下がった。背中に、森が近い。

 

 あまり好きな位置ではない。短銃は次弾なし。込め直す時間も怪しい。

 

 結界棒は手元。腰の短剣に指が触れる。後ろから一体が飛び出した。

 

 近い。僕は結界棒を間に入れた。止まらない。

 

 棒ごと押される。短剣を抜く。切る、というより、払った。

 

 刃が小鬼の腕をかすめた。軽い手応え。小鬼が鳴いて下がる。

 

 深追いしない。足が前へ出そうになった。

 

 自分で止める。ラドさんの声が飛ぶ。

 

「羽黒、戻れ」

 

「はい」

 

 返事は少し遅れた。でも戻った。白布の線まで。

 

 そこから先、小鬼は追ってこなかった。森の奥で、何度か鳴き声が交わされる。それから、数字が少しずつ遠ざかった。

 

 完全には消えない。林の奥から、こちらを見送る値が一つ残った。

 

 

 西詰所へ戻った時、誰も倒れていなかった。それを最初に確認した。ニコは疲れている。

 

 イラは左手首を使っていない。ガロンは肩で息をしているが、歩ける。ラドさんは額に小さな傷。

 

 僕は右手の親指の付け根が痺れている。数字は、全員まだ戻れる範囲にあった。戻れる範囲。

 

 敵の数ではなく、戻る方向として見たのは初めてだった。

 

 倒せたかとか、進めたかとかじゃない。

 

 戻れるかどうか。メリルが受付机の前で立ち上がる。

 

「予定時刻より二十二分遅れです」

 

「すみません」

 

「謝罪より報告を」

 

 言い方は硬い。でも、水筒が机の上に出ていた。

 

 僕は水を飲んだ。喉が痛い。

 

「小鬼の群れ。前方十一以上、後方三。石、棒、粉袋。追い込みあり。白布退避線、赤布進入不可線。味方の疲労を見て、交代しながら撤退。討伐ではなく帰還を優先」

 

 メリルの筆が動く。

 

「負傷者」

 

「ラドさん、額。僕、右手。軽いです。イラさん左手首、悪化なし。ニコ、疲労。ガロンさん、疲労大」

 

 ガロンが苦笑した。

 

「大、ですか」

 

 言葉はまだ来ないのに、相手はもう次の欄を見ていた。

「大です」

 

「では大です」

 

 ニコが椅子に座り込んだ。

 

「私、疲労だけ?」

 

「はい」

 

「役に立った?」

 

 すぐに答えそうになって、止めた。役に立った。

 

 そうかもしれない。でも、その言い方だけだと軽い。

 

「白の声が途切れませんでした」

 

「白の声?」

 

「二歩、白へ、戻る。その声です。僕一人だと、後ろまで届かなかったと思います」

 

 ニコは少し黙った。

 

 それから、椅子の背にもたれた。

 

「じゃあ、声係」

 

「今日は」

 

「今日は、でいい」

 

 受付職員が報告書の控えを一枚こちらへ回した。

 

「みちしるべ、共同作業三件目。加えて、臨時戦闘記録として別紙を添付します」

 

「戦闘記録」

 

「討伐報酬は出ません。撃退確認も不十分です。ただし、帰還成功と危険情報の提出は記録されます」

 

 討伐報酬は出ない。

 

 それは、少し助かった。

 

 報酬が出たら、勝ったことになってしまう気がした。

 

 勝ってはいない。戻っただけだ。

 

 でも、戻った。ラドさんが額の傷を布で押さえながら言った。

 

「人数、増やせ」

 

 僕は顔を上げた。

 

「今日のでですか」

 

「今日のでだ。見られる人数に限界があるなら、見方を教えるやつがいる。声を繰り返すやつ、荷を捨てる判断をするやつ、後ろを見て嘘をつかないやつ」

 

「正式なクランでは、まだ」

 

「だから候補を増やす」

 

 ラドさんは受付職員を見る。

 

「仮名簿、作れるか」

 

「作れます。正式名簿ではありません」

 

「それでいい」

 

 受付職員は紙を出した。仮名簿。その文字が上に書かれる。

 

 僕の名前。ニコ。イラ。

 

 ガロン。メリル。

 

 ラドさんは保証人欄ではなく、監督者欄に名を書いた。

 

「これでクランですか」

 

 ニコが聞く。

 

 受付職員は首を振る。

 

「まだです」

 

「まだかあ」

 

「ただし、審査中共同体として扱えます」

 

「長い」

 

「正式名です」

 

 ニコが嫌そうな顔をした。その横で、メリルが小さく笑った。

 

 僕も少し分かる。審査中共同体。

 

 口に出している間に、一件くらい依頼が増えそうな長さだった。

 

 僕は仮名簿を見た。人数が増えた。でも、壁が厚くなったわけではない。

 

 見なければいけないものが増えた。戻さなければいけない人が増えた。

 

 それでも、今日の白い線は一人では作れなかった。

 

 僕は右手の痺れを確かめる。まだ少し残っている。短銃。

 

 結界棒。短剣。

 

 声。どれも、きれいには使えなかった。

 

 それでも、どれか一つだけでは足りなかった。

 

 全部使えた、と書きそうになって、違うと思った。

 

 使えた、ではない。

 

 使った。

 

 それだけだ。

 

 けれど、その差を分けられるくらいには、今日は手の中に残っているものが多かった。

 

 深追いはしなかった。戻れた。仮名簿の上に、受付職員が小さな札を置く。

 

 みちしるべ。審査中共同体。字面はまだ硬い。

 

 でも、箱の中で紙が三枚に増えた。その音は、昨日より少し重かった。

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