ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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五章六話 保留箱の底

《王録》 五章 六節

『保留箱の依頼は閉じたまま、願いの重さだけを増す。』

 

 翌朝、仮置き箱の蓋が少し浮いていた。

 

 昨日、閉じた時はちゃんと合っていたはずだ。

 曲がった釘が引っかかったのかと思って、僕は箱に手を伸ばした。

 

 蓋の下に、紙が挟まっている。

 

 白板ではない。

 控えでもない。

 依頼票でも、たぶんない。

 

 紙束の角に、黒い紐が結んであった。

 

「開けるな」

 

 後ろからラドさんの声がした。

 

 僕の指が、蓋の上で止まる。

 

「まだ開けてません」

 

「止まったならいい」

 

「止まらなかった場合は」

 

 ラドさんの手は、冗談の位置ではなく腰の高さにあった。

 

「一発叩く」

 

「止まってよかったです」

 

 ラドさんは返事をせず、箱の横に立った。

 受付職員も、いつの間にか机の向こうからこちらを見ている。

 

 朝の西詰所は、いつもより少し静かだった。いや、正確には音はある。靴音、紙をめくる音、扉の開く音、荷紐を締める音——それらが、いつもより低く重なっていた。

 

 でも、仮置き箱の周りだけ、少し音が細くなっていた。

 

「これ、依頼ですか」

 

「依頼なら受付台に出る」

 

 ラドさんは紙の紐を見た。

 

「相談票だな」

 

「相談」

 

 依頼より、軽そうな言葉だった。

 でも、ラドさんの声は軽くなかった。

 

 受付職員が手袋をはめ、箱の蓋を押さえた。

 

「みちしるべ宛てです」

 

「宛て」

 

 僕は思わず聞き返した。

 

「正式名簿に載っていないのに、宛先になるんですか」

 

「なります。困るので、本来はなってほしくありません」

 

「困るんですね」

 

「困っています」

 

 受付職員は、淡々と言った。

 淡々としているせいで、本当に困っているのが分かりにくい。

 でも、机の上の羽根ペンが一本、いつもより端に寄せられていた。

 そこに相談票を置く場所を空けたのだと思う。

 

 たぶん。

 

 ラドさんが紐をほどいた。

 

 紙は一枚ではなかった。三枚あり、一枚目は相談票、二枚目は略図、三枚目は古い道札の写しだった。

 

 相談票の上には、こう書かれている。

 

 西外縁補給路、仮目印確認。

 搬送班二名、昨夜帰還遅延。

 水場経由の迂回路使用可能性あり。

 正式依頼化前に、現地確認の可否を問う。

 

 危険度欄は空白だった。

 

 空白。

 

 低でも、中でも、高でもない。

 何も書いていない。

 

「……これ、軽依頼じゃないですよね」

 

「軽くはない」

 

 ラドさんが言った。

 

「ただし、正式依頼でもない」

 

「一番困るやつでは」

 

「分かってるなら話が早い」

 

 早くない。

 分かっても、たぶん早くならない。

 

 僕は略図を見る。

 西外縁補給路。

 街道から外れ、北二番水場のさらに先へ伸びる道。

 昨日見た水場が、図の端に小さく描かれていた。

 

 そこから先に、斜めの点線がある。

 

 仮目印。

 荷車一台分の幅。

 夜間通行あり。

 軍用搬送の通過あり。

 

 昨日の控えに書いた言葉が、別の紙の中で少し大きくなっていた。

 

 夜間通行。

 水場。

 目印。

 

 僕の手帳の中では、ただの注意だった。

 相談票の中では、帰ってこない人の話になっている。

 

「搬送班二名は」

 

「今朝戻った」

 

 ラドさんが短く答えた。

 

 喉の奥にあったものが、少し下がった。

 

「怪我は」

 

「一人は足を捻った。一人は荷を捨てて戻った」

 

 下がったものが、そこで止まる。

 

 戻った。

 でも、荷は戻っていない。

 

「荷は何ですか」

 

「薬包と食料。前線予備倉行き」

 

 前線。

 

 その単語だけ、紙の上で少し色が違って見えた。

 見えただけだ。

 実際には黒いインクだ。

 

「みちしるべで受けろ、という話ですか」

 

「違う」

 

 ラドさんは即答した。

 

「受けるな、という話でもない」

 

「それは、もっと困ります」

 

「だから相談票なんだよ」

 

 受付職員が、相談票の下の欄を指した。

 

 責任者。

 同行者。

 判断保留理由。

 正式依頼化の要否。

 

 責任者欄の横に、薄い鉛筆で文字があった。羽黒。

 

 まだインクではない。薄く、消せる。それでも、書かれている。

 

「これ、誰が」

 

「差出人です」

 

 受付職員が答えた。

 

「北二番水場の記録を見たのでしょう。昨日の控えが保守組から軍務窓口に回っています」

 

「昨日の今日で」

 

「道は昨日も今日も使われます」

 

 それはそうだ。

 待ってくれない。

 

 木箱の中には、旧木炭道と北二番水場の控えが、たった二枚入っていた。でも、その二枚を誰かが読んだ。

 

 読んで、ここへ紙を入れた。

 

 箱の蓋が浮くくらいには、重かった。

 

 

「代表候補、どうする」

 

 ラドさんが聞いた。

 

 代表候補。

 その呼び方は、昨日までなら冗談に聞こえた。

 今日は、少し固い。

 

「僕が決めていいんですか」

 

「よくない」

 

「ですよね」

 

 保留箱の蓋が、閉じたまま机の端に置かれていた。

 

「だが、何を見るべきかは言える」

 

 ラドさんは略図の点線を指で叩いた。

 

「受けるかどうかじゃない。正式依頼に上げるべきか、相談の段階で戻すべきか。そこを見ろ」

 

「戻す」

 

「できるならな」

 

 できるなら。

 

 その言い方が、少し引っかかった。

 

 僕は相談票をもう一度見る。

 

 搬送班二名。

 帰還遅延。

 荷を捨てて戻った。

 前線予備倉。

 

 荷を回収する話ではない。

 道を確認する話でもない。

 

 このまま通せるか。

 通せないなら、どこで止めるか。

 

 それを誰かが知りたい。

 

「同行者は」

 

「保守組から一人。搬送班から一人。あと護衛が一人つく」

 

 ラドさんが顎で入口の方を示した。

 

 鉄灰色の外套を着た伝令が、扉の横に立っていた。

 隣には、長い銃を肩にかけた兵士がいる。

 

 銃身は、僕たちが訓練で見たものより少し短い。

 でも、太い。

 木の銃床には傷が多く、金属部分は黒く磨かれている。

 

 兵士の口元は動かなかった。

 ただ、銃を持つ肩だけが、少し低い。

 

 重いのだと思う。

 

 いや、重いに決まっている。

 僕たちはあれを、どれくらい軽く扱っていただろう。

 

 頭の中で、最初の訓練場の音が少し鳴った。

 発砲音。

 誰かの笑い声。

 反動を受けた肩。

 

 あの時は、銃が重いより、撃てたことの方が先に来ていた。

 

「羽黒」

 

 ラドさんの声で、音が消えた。

 

「はい」

 

「見るだけだ。撃つな。追うな。荷を拾うな。死にかけがいても、一人で判断するな」

 

 一つずつ言われた。

 一つずつ、紙に釘を打つみたいだった。

 

「はい」

 

「返事が軽い」

 

「重くすると、変になります」

 

「じゃあ軽いままで覚えろ」

 

 僕は頷いた。

 

 受付職員が、責任者欄の鉛筆書きを消した。

 

 羽黒、という薄い字が、紙の上で少し残る。

 完全には消えない。

 

 その上に、彼女は新しく書いた。

 

 仮監督、ラド。

 現地確認担当、羽黒。

 判断保留。

 

「責任者ではありません」

 

 受付職員が言った。

 

「はい」

 

「ただし、見た内容は記録します」

 

「はい」

 

「記録した内容で、誰かが判断します」

 

「……はい」

 

 三つ目だけ、少し遅れた。

 

 僕が見る。

 紙に書く。

 誰かがそれで判断する。

 

 昨日までの白板より、少し遠い。

 遠いのに、線はつながっている。

 

 ニコが荷置き場から顔を出していた。

 昨日と同じように、少し背伸びをしている。

 

「箱、空にしないの?」

 

「今日は紙を持っていきます」

 

「じゃあ、戻してね」

 

「はい」

 

 ニコは頷いた。

 それから、相談票を見て、少し眉を寄せる。

 

「その紙、白板より重そう」

 

「紙です」

 

「でも重そう」

 

 僕は紙を持ち直した。

 

 薄い相談票。

 略図。

 古い道札の写し。

 

 三枚だけだ。

 

「たぶん、重いです」

 

 そう言うと、ニコは少し満足したような顔をした。

 

「じゃあ、落とさないで」

 

「はい」

 

 落とさない。

 

 白板も。

 釘も。

 紙も。

 

 それから、たぶん。

 まだ名前のついていないものも。

 

 

 出発前、鉄灰色の外套の伝令が僕に頭を下げた。

 

「軍務補助窓口、伝令係のロシェです」

 

「羽黒です」

 

「記録を拝見しました。北二番水場の反射について、こちらの搬送班でも似た報告がありました」

 

 似た報告。

 

 あったのなら、先に教えてほしかった。

 その言葉は、舌の手前で止めた。

 

 出したら、たぶん別の話になる。

 

「こちらも把握が遅れました」

 

 ロシェは言った。

 

 僕が黙っていたせいかもしれない。

 それとも、言われ慣れているのかもしれない。

 

「前線側の通行量が増えています。勇者様方が、東側で大きな成果を上げているそうで」

 

 勇者様方。

 

 クラスメイトのことだ。

 

「大きな成果」

 

「ええ。魔物群の掃討、敵哨戒の撃退、砦ひとつ分の物資路確保。詳報はまだですが、士気は上がっています」

 

 士気。

 成果。

 詳報はまだ。

 

 言葉だけが、先に届く。

 

 三郷なら、こういう時に笑うだろうか。

 桐谷さんは、撃つ前に一度だけ息を止めるだろうか。

 佐々木は、剣を振った後に刃を確認するだろうか。

 

 分からない。

 

 噂の中のクラスメイトは、いつも少し遠い。

 

「そうですか」

 

 僕の返事は、それだけになった。

 

 ロシェは一瞬だけ僕を見た。

 何かを待っていたようにも見えた。

 でも、すぐに口元を戻す。

 

「本日の確認は、西外縁補給路の手前までです。必要がなければ、それ以上は進みません」

 

「必要があるかどうかは」

 

「現地で判断します」

 

 現地で。

 

 また、その言葉だ。

 

 銃を持つ兵士が、肩紐を直した。

 金具が小さく鳴る。

 

 彼は僕に視線を向けて、短く言った。

 

「護衛のダネルだ。射線に入るな」

 

「はい」

 

「撃った後、俺が止まっても前に出るな」

 

 撃った後、止まる。

 

 その言葉が耳に残った。

 

「止まるんですか」

 

 聞いてから、喉の奥が詰まった。

 でも、ダネルは怒らなかった。

 

「止まる。止まらない奴は、訓練場で肩を壊す」

 

 当たり前のように言われた。

 

 当たり前。

 

 僕たちには、当たり前ではなかった。

 

 アンテラルさんに怒鳴られながら、僕たちは撃った。

 肩の痛み。震える手。

 それでも、次を撃てた。

 笑う奴もいれば、青ざめる奴もいた。

 

 でも、撃った後に完全に固まった人間は、たぶん少なかった。

 

 それが上手いからなのか。

 それとも、そういう身体にされていたからなのか。

 

 答えは出なかった。

 

 今、出すことでもない。

 

 僕は相談票を折らないように、手帳の間に挟んだ。

 

 仮置き箱の蓋は、閉じられている。

 中身は一枚減った。

 

 その代わり、僕の手元に三枚増えた。

 

 戻せるかどうかは、まだ分からない。

 

 詰所の外へ出ると、朝の風が少し冷たかった。

 

 昨日までの道と、同じ方向へ歩き出す。

 同じ方向なのに、足の裏に当たる石の硬さが少し違う。

 

 たぶん、紙のせいだ。

 

 紙は軽い。

 でも、軽いものだけが箱に入るわけではない。

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