ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 五章 七節
『撃てる者と戻せる者は、同じ土に異なる祈りを置く。』
北二番水場を過ぎると、道の音が変わった。
石畳ではない。踏み固められた土と古い轍で、雨の後の水が轍の底に残り、ところどころで空を細く映している。
昨日見た赤い矢印は、もう背中の方だ。
白板。
黒文字。
曲がった釘。
あれだけで足りると思ったわけではない。
でも、足りない場所が、こんなに早く次の紙になるとは思っていなかった。
「左、古い荷車道」
搬送班の男が言った。
名はベイル。
昨日、荷を捨てて戻った二人の片方ではないらしい。
ただ、同じ班だという。
「夜だと、ここで道が二つに見えます」
「昼でも二つに見えます」
僕が言うと、ベイルは少し口を曲げた。
「そうなんです」
責めている声ではなかった。
ただ、声の端に、昨日から残っていた疲れがあった。
分かっていても、通る。
通らないと、前線へ荷が届かない。
手帳を開く。
西外縁補給路。
北二番水場より先。
古い荷車道との分岐。
昼でも二方向に見える。
轍、水残り。
視界の脇で、道の候補だけが少し濃くなった。
4。
何の四だろう。
同行者は、僕、ラド、ロシェ、ダネル、保守組のイラ、ベイルの六人。
荷の数。
今はなし。
道札。
一つ。
分岐の見え方。
右。
左。
水に映る細い線。
折れた杭。
四つ。
たぶん、それだ。
「見え方が四つあります」
ロシェがすぐ紙に書く。
「四つ、ですか」
「道が四つあるわけではないです。進みたくなる線が四つに見えます」
「進みたくなる線」
「すみません。言い方が変でした」
「いえ、分かります」
ロシェは首を振った。
「夜間の搬送兵は、道そのものより、車輪が進めそうな線を見ます」
車輪が進めそうな線。
それなら、さっきの言葉は間違っていないのかもしれない。
僕は轍の横にしゃがんだ。
水たまりの中に、折れた杭が映っている。
実物よりまっすぐに見える。
目印は、場所によって嘘をつく。
昨日も、同じ場所で足が止まった。
でも今日は、それに荷車が乗る。
荷車が乗れば、人がついていく。
「杭を抜くな」
ラドさんが言った。
僕の手は、折れた杭に伸びる手前で止まった。
「まだ触ってません」
「触る顔だった」
「顔で分かるんですか」
ニコは札の角に伸ばしかけた指を、そこで止めた。
「分かりやすい」
それは困る。
保守組のイラが、少し笑ってから、すぐに周囲を見た。
「抜くと、夜にここを知ってる人が逆に迷いますね」
「はい」
「なら、足す方ですか」
「足すなら、進める道じゃなくて、進めない道に」
僕は折れた杭と、水たまりを見る。
「ここへ入るな、という印が先に欲しいです」
ロシェが書く手を止めた。
「進める道ではなく、進めない道」
「はい。進める道の目印は、慣れている人ほど見落とすかもしれません。でも進めない印なら、少なくとも一度止まります」
「止まる」
ダネルが初めて口を挟んだ。
銃を肩にかけたまま、彼は水たまりの向こうを見ている。
「いい言葉だ。止まれない道は、人を殺す」
その言い方は、少し重かった。
でも、声は平らだった。
返事より先に、背中の革紐を締め直す声だった。
いや、たぶん、そういうふうに聞こえただけだ。
その時、藪の奥で枝が鳴った。
小さい音だった。
でも、ダネルの銃口はもうそちらを向いていた。
「伏せろ」
ラドさんが言うより早く、僕は膝を落とした。
藪の間から、黒い影が二つ飛び出す。
犬に似ている。
でも、脚が長い。
肋骨のあたりに、硬い板のようなものが並んでいる。
数字。2。
今度は分かりやすい。二体。四章の迷宮なら、これくらいの数はもっと当たり前に出てきた気がする。今は、はっきり見える方が珍しい。
「二体です。左から一、右から一」
言い終わる前に、ダネルが撃った。発砲音が道の上で潰れる。
一体目の肩が弾け、黒い影が横へ転がった。当たった。
ダネルの射撃は、狙いを外していない。
土の跳ね方が、同じ線に揃っていた。
次の瞬間、彼の肩が後ろへ流れた。
銃床を押さえる腕が遅れる。
排莢のために手が動く。
動くけれど、止まる。
金属音。
短い舌打ち。
照準が戻る前に、右の一体が走り込んでくる。
速い。
でも、見えている。
僕は腰の短剣を抜いた。
同時に、左手の指先で短く魔力を押す。
風、というほど大きくない。
ただ、土埃が右へ散った。
魔物の目の前で、乾いた土が跳ねる。
影の足が半歩だけ乱れた。
半歩。
その乱れが使えるかは、分からない。
僕は前に出た。
深くは出ない。
ラドさんの線より前に一歩。
ダネルの射線から外れて、斜め。
短剣を振る。
硬い板に当たる。
刃が弾かれた。
当たり前だ。
あれは肋骨ではなく、装甲みたいなものだ。
でも、刃を当てる場所はそこじゃない。
弾かれた反動で手首を返し、首の下へ柄頭を叩き込む。
魔物の顎が跳ねる。
横からラドさんの槍が入った。
一撃。
黒い影が土の上に沈む。
「下がれ」
ラドさんの声。
僕は下がった。
下がる時、もう一体を見る。
ダネルが排莢を終え、次弾を込めていた。
銃口が上がる。
肩が入る。
息が止まる。
二発目。今度は外れなかった。倒れていた一体の頭が、土へ沈んだ。
静かになる。僕は自分の手を見る。
短剣を握る指が、少し強すぎた。
手首に硬い感触が残っている。
息は上がっていない。
でも、口の中に土の味が残っている。
何か月も迷宮で数字だけを頼りに歩いてきたはずなのに、いざ牙が目の前まで来ると数字より先に体の方が勝手に動いていて、それが自分の意思だったのか訓練が代わりに動いただけなのか、答えを探す前に次の声がかかった。
「怪我」
ロシェの声。
「なし」
ラドさん。
「なし」
保守組のイラ。
「なし、です」
ベイル。
ダネルは銃を下げ、僕を見た。
「射線に入らなかったな」
「入りたくなかったので」
「いい」
短い。
それ以上は、記録に残らなかった。
褒められたのか、確認されたのかは分からない。
ダネルは薬室を確認し、排莢された薬莢を拾った。
一つ。
二つ。
薬莢の数。
発砲の数。
数字は見えない。
でも、拾えば分かる。
「さっき、止まっていました」
ダネルは薬莢を袋に入れながら、少し眉を動かした。
「撃った後か」
「はい」
「止まる。訓練でも止まる。止まらないようにして、ようやく次が撃てる」
「次」
「その遅れを、仲間が埋める」
ダネルは当たり前のように言った。
「銃は強い。だから一人で強いと勘違いする奴から死ぬ」
その言葉が、耳に残った。
一人で強い。
銃は強い。
能力は強い。
最初の訓練場で、僕たちは何を勘違いしていたのだろう。
いや。
勘違いできるほど、分かってもいなかった。
撃てた。
当たった。
反動に耐えられた。
次も撃てた。
それだけで、身体が勝手に進んだ。うまくやった、ではない気がする。
うまくやれてしまっていた。その言葉は、あまり口に出したくなかった。
✶
魔物が出た場所から少し進むと、捨てられた荷が見つかった。
布で巻かれた箱が二つ。
破れた麻袋が一つ。
車輪の跡は、そこで大きく乱れている。
ベイルが駆け寄りかけて、ラドに襟を掴まれた。
「待て」
「でも、あれ」
「待て」
二度目で、ベイルの足が止まる。僕は荷を数える。
箱、二。麻袋、一。木片、七。紐、三。
数えた荷が、頭の中で三つにまとまる。3。荷の単位は、たぶん三。
「荷は三つです。相談票の荷数と合っています」
ロシェが紙を確認する。
「薬包箱二、保存食袋一。合っています」
「周囲は」
ラドさんが聞く。
僕は道と藪を見る。
足跡。
黒い毛。
引きずった跡。
さっきの魔物のものか、それ以外か。
数字は、すぐには出ない。
出ない時は、分からないということだ。
たぶん。
「断定できません」
「便利な逃げ道か」
ラドさんが言った。
「今日は、逃げ道にした方がいい気がします」
「理由」
「荷を回収するなら、人数が足りません。箱二つは持てても、護衛と記録と周辺確認が崩れます」
僕は自分の手を見る。
短剣の柄を握った跡が、まだ薄く残っている。
「さっき二体でした。次も二体とは限りません」
ベイルが唇を噛んだ。
「薬包箱だけでも」
「持てる重さですか」
「二人で一箱なら」
「じゃあ、一箱持った人は走れません」
言い方が少し硬かった。
でも、柔らかくすると別の意味になりそうだった。
ベイルは黙った。
ロシェが小さく息を吸う。
「正式回収依頼に切り替えます。現地確認、荷三点確認、魔物二体遭遇。道の仮目印は危険。これで報告します」
ラドさんが僕を見る。
「お前は」
「戻ります」
「荷は」
箱の取っ手にかけた指を外すと、手のひらに跡が残った。
「置いていきます」
「理由」
また理由だ。
理由。
理由はある。
でも、全部をうまく言える気はしない。
「今、僕たちが戻れば、荷の場所と数を持ち帰れます。荷を持つと、戻れる人数が減るかもしれません」
戻れる人数。
口に出してから、手帳に書いた。
戻れる人数、六。
荷、三。
回収不可。
正式依頼化。
六。今度の数字は、たぶん合っている。
僕たちは六人で来た。六人で戻る。それが、今日の仕事だ。
ベイルが荷を見ていた。
捨てた本人ではない。
それでも、同じ班の荷だ。
置いていく顔には見えなかった。
「すみません」
僕が言うと、ベイルは首を振った。
「謝るのは、こっちです。見つけてもらったのに」
「持って帰れません」
「場所が分かっただけで、次は来られます」
そう言ってから、ベイルは荷に背を向けた。
背中が少し硬かった。
ダネルが最後尾につく。
銃口は下。
でも、指は引き金から外れている。
手順が身体に入っている。
訓練された人だ。
それでも、撃った後に止まる。
その遅れを、仲間が埋める。
僕たちは、たぶん最初からその遅れを飛ばしていた。
それが恵まれているのか、都合がいいのか。答えはまだない。
ただ、今日戻る人数は六だ。僕は何度も数えた。
ラド。
ロシェ。
ダネル。
保守組のイラ。
ベイル。
僕。
六。
誰も荷を持っていない。
でも、場所と数は持っている。
それを西詰所まで戻す。
今日の僕にできるのは、そこまでだった。
✶
その夜、詰所の裏で洗い物をしていると、井上が澄人を伴わず一人で現れた。
「こんな時間に、どうした」
「先輩が今日、危ないところに行ったって噂を聞いて」
「危ないというほどでは」
「噂は大げさになるものです。知ってます」
彼女はそう言ってから、少し黙った。
水音だけが、しばらく間を埋める。
「先輩」
「なに」
「もし、先輩が本当に危ないところに行く時は、先に教えてください」
「行き先を、か」
「はい。……それと」
彼女は洗い桶の縁を指でなぞった。
「それだけじゃなくて。何て言うか……先輩のことを、ちゃんと心配したいので」
心配したい。
その言い方は、妙に回りくどくて、でも遠回りにしては近すぎた。
「心配は、迷惑にはならない」
「迷惑じゃないなら、よかったです」
彼女はそれだけ言うと、逃げるように早口で続けた。
「じゃあ、そういうことで。おやすみなさい、先輩」
返事を待たず、井上は足早に去っていった。
僕は濡れた手を見る。
今の言葉に、何か大事なものが混ざっていた気がする。
でも、それが何かは、まだうまく数えられなかった。