ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 五章 九節
『見ぬ者の胸にも、王冠の輪は冷たく触れる。』
2375- 第一王城私室 第二婦人視点
第二婦人は、王冠を見なかった。
王冠は、部屋の奥の硝子棚に置かれている。今の王が儀礼で用いるものではない。戴冠式の時だけ使われる、古い方の王冠だ。
金はくすみ、宝石の一つは色が死んでいる。
それでも、部屋に入った者は必ず一度そちらを見る。
権力とは、見られることで形を保つ。
第二婦人は、それを知っているから見なかった。
「西回廊の通行許可が、また差し止められました」
文官が言った。机の上には、三種類の書類が並んでいる。通行許可。
軍用物資の検査記録。第二王子派と接触した貴族の名簿。どれも、直接には何も起こしていない。
帝国の名は、まだ表に出ていない。だからこそ、危ない。
紙は人を殺さない。ただ、紙は人を動かす。
「森田ですか」
「森田ロハン本人の署名はありません。ただ、第二王城側の防諜と、軍務地図室の補給路制限が噛み合っています。偶然にしては、こちらの足が止まりすぎる」
「あの女は、偶然の顔をして邪魔をします」
第二婦人は、名簿の端を指で押さえた。エルトラル侯爵。ポテンティオール公爵。
軍務士官の一部。西方商隊に口利きをした男。聖六色教会の書記官。
民族会議の使い走り。名前は並んでいる。
だが、名前だけでは足りない。敵国と握った、と書ける者はまだいない。
けれど、敵国の道具を借りようとしている者ならいる。
第二婦人は、その線を自分の側へ引き込むつもりはなかった。引き込めば、こちらも同じ泥に足を入れる。
必要なのは、相手の足跡だけだ。
ランドマールの顔が必要だった。
あの子が会議に座るだけで、慎重な者は口を閉じ、野心のある者は少し前へ出る。母を前にしては言わないことを、幼い王子の前では言う。
かわいそうな子だ、とでも思うのだろう。
ならば、それでいい。
母でいることと、王冠の近くに子を置くことは、ときどき同じ形をしている。
「ランドマール殿下を、次の会議にも」
「ええ」
第二婦人は、文官の言葉を遮らずに頷いた。
「ただし、長く座らせすぎないように。あの子は疲れると、昔のことを思い出そうとします」
文官の目が、一瞬だけ伏せられた。知っている者の目だった。
第二婦人は、その反応を許した。知らない者よりはましだ。
「茶葉は」
「薄く」
短く答える。
「強くしてはいけません。今のランドマールから、これ以上削れば、玉座に座る人形にもなれなくなる」
部屋の音が消えた。
言い過ぎた、とは思わなかった。
真実は、時に刃物より扱いが難しい。だから、普段は布で包む。今日は包む時間がなかった。
「第二王子派が、西方で兵を動かしているとの噂が広がっています」
別の男が言った。
「噂ではなく、事実に近いでしょう」
「では、こちらは」
「慌てません」
第二婦人は、ようやく顔を上げた。
「ヘルドランテが兵を動かすなら、こちらは王国を借ります。貴族の恐れ、民の不安、軍の面子、商人の損得。それらは、王冠より動きます」
「都市の税と迷宮租税で回っている国です。流通が止まると聞けば、議場はすぐ傾きます」
「ランドマール殿下を王に」
「違います」
文官の言葉を、今度は切った。
第二婦人の声は荒くない。
荒くないから、室内の温度が下がった。
「あの子に王冠をかぶせたいわけではありません」
硝子棚の中の王冠を、見ないまま言う。
「あの子から、もう何も奪わせたくないだけです」
返事はなかった。第二婦人は、扇の骨を一度だけ鳴らした。
憐れみが混じるからだ。彼らは、勘違いをしている。
母が子を守るために動くなら、それは美談になると思っている。王城で美談ほど危険なものはない。美談は、人を盲目にする。
第二婦人は、自分が美しいことをしているとは思っていない。
茶葉で記憶を削った。
幼さを守るために、幼さを利用した。
国を割るかもしれない動きを、あえて途中まで進ませるために、別の書簡へ印を押している。
それでも、止まらない。
止まれば、あの日の寝台に戻る。
十日間、何も食べなかったランドマール。
兄の名だけで喉が塞がり、水すら飲み込めなかった子。
あの子を、もう一度そこへ戻すくらいなら。
「通行許可は、止めません」
第二婦人は言った。
「第二王子派の使節団ではないと書かれているもの、巡礼団の護衛物資として処理されているもの、西方商隊の荷として出ているもの。すべて、写しだけを取りなさい」
「軍務地図室には」
「正式な照会は出さない。止めれば、ヘルドランテは引っ込む。引っ込まれては困ります」
文官が、そこで顔を上げた。
「起こさせる、ということですか」
「ええ。こちらが先に剣を抜いた形にしてはいけません。起こすのは、ヘルドランテ側です。小さく起こさせ、すぐに鎮める。そのための道だけを残します」
「そうなれば、国務代行法第十条の延長判断も、議場はこちらへ寄る」
「鎮圧のために」
「名目のために」
第二婦人は、そこだけ訂正した。
「貴族は正義だけでは動きません。恐怖だけでも動きません。自分が勝つ側にいて、しかも正しい側にいる、という紙が必要なのです」
紙は人を殺さない。
ただ、人を歩かせる。
歩かせる道を間違えなければ、剣を抜く場所も、取り押さえる場所も選べる。
第二婦人は、机の上の印璽へ手を伸ばした。
重い。
王冠よりずっと小さいのに、これを押す方がよほど堪える。
「ランドマールには」
文官が聞いた。
「何とお伝えしますか」
第二婦人は、少し考えた。
そして、母の声で答えた。
「迷っている人たちに、まっすぐ進ませてあげて、と」
文官は深く頭を下げた。
第二婦人は、王冠を見ない。
ただ、印璽を押した。