ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 五章 十節
『色の置かれた机では、沈黙もまた一つの旗となる。』
2375- 第一王城会議室 参謀本部視点
会議室に並ぶ戦域図は、色で分けられていた。
赤は王都と西方回廊。
青は北領の要塞線。
緑は魔物の活動域。
黒い細紐は、街道とも呼べない補給路だった。
ランドマールは、赤い札を見ていた。
病に倒れた国王の代わりに政務を担う第三王子が、この会議室でも最後の決断を握る。
「第二王子派が、帝国の支援を受けたということだな」
声を上げたのは参謀本部長だった。
四十年近い戦歴を背負った男で、机の上に置かれた報告書を、指先で一枚ずつ押さえている。
森田ロハンの名は、まだ報告書の表に出ていない。
だが、第二王城側の防諜、ヘルドランテ派の退避線、帝国側の資材が、同じ地図の上で重なっている。
「はい。ヴィンスイ・パラデートを追われた第二王子派が、防衛旅団と機械化旅団の一部を再編。そこへ帝国側の顧問団、通信機材、砲兵観測要員が合流した可能性があります」
報告官が赤い札を動かした。
王都へ向かうには、まだ遠い。
けれど、遠いというだけだった。
「帝国軍本隊の越境は」
「現時点では確認されていません。あくまで第二王子派への支援です。ただ、支援と呼ぶには、質が重い」
「兵を貸さずに、戦争の骨を貸すわけか」
軍務尚書が言った。
笑い声は出なかった。
地図の上では、兵は小さな札で済む。
だが、通信、弾薬、観測、修理、燃料、食料。その札を動かすためのものは、札よりずっと重い。
「北の緑の札は」
ランドマールが、地図の端に置いた銀の駒を見た。
報告官は唇を湿らせた。
「別件です。魔物の活動が活発化しています。小鬼種を含む群れが、遮蔽、牽制、迂回に近い動きを見せている。ただし、帝国の指示や物資流入を示す証拠はありません」
「同時に起きているだけ、か」
「はい。同時に起きているだけです」
参謀本部長が、そこで短く息を吐いた。
「ただし、兵力表の上では同じ問題になります」
その言い方は、正しかった。
原因が違っても、兵は一人の身体でしか動けない。
南西へ出せば、北には出せない。
北を厚くすれば、王都西方の回廊が薄くなる。
補給馬車も、砲弾も、薬瓶も、同じ倉庫から出ていく。
「つまり」
軍務尚書が、言葉を探した。
「内戦が始まる。帝国は第二王子派を後ろから支える。北では魔物が別の理由で強くなっている。こちらは二つの別件を、一つの財布で処理することになる」
「そういうことです」
会議室の空気が低く沈んだ。
ランドマールは、赤い札を一つ、指で押さえた。
「第二王子派への対応を優先する。王都へ伸びる回廊を失えば、北の要塞線も意味を失う」
「北領は」
ランドマールは、赤い札を押さえていた指を、地図の外へ一度離した。
「捨てない」
ランドマールの声は、少し強かった。
「ただし、正規兵だけで厚くはできない。転移者班、冒険者、協会、現地保守組を使う。魔物対応は、内戦とは別件として処理する。混ぜるな」
報告官の筆が止まった。
「議事録にも、そう残せ。魔物は帝国の兵ではない。第二王子派の兵でもない。だが、結果としてこちらの補給を削る。そこまでだ」
「承知しました」
参謀本部長が、北領の青い札へ目を向けた。
「北領への転移者班配置は、当初予定より重くなります。戦闘能力の高い班を回し、装甲戦闘車と特殊弾薬の補給線を維持する必要がある」
「対人戦へ出すのではないな」
「はい。北領では魔物対応です。正規の内戦戦域へは、まだ出しません」
まだ、という言葉に、何人かが反応した。
ランドマールは反応しなかった。
「彼らは強い。だが、兵士としては幼い。人間相手の戦場へ出すには、早い」
「しかし北領の魔物も、従来とは違います」
報告官が、別の紙を出した。
「小鬼種の群れが、複数方向からの牽制、撤退の反復、火点移動に近い行動を見せています。偶然か、群れの中に判断役がいるのかは不明です。帝国とは無関係でも、戦術的には厄介です」
「むしろ、訓練にはなる」
軍務尚書の言葉に、部屋の空気が少し冷えた。
彼は、それをわかった上で続けた。
「人間を殺させず、隊列、砲撃、後退、補給、負傷処置を覚えさせる場になる。言い方は悪いが、今の彼らを正規内戦へ入れるよりはましだ」
ランドマールは答えなかった。
反論の紙は、誰の前にも置かれなかった。
「補給はどうする」
別の将校が口を挟んだ。
「転移者は消費が大きい。魔法具の充電、食料、特殊弾薬、修理部品。北へ回せば、西詰所から先の細い道が詰まる」
参謀本部長が、黒い細紐を指でなぞった。
「協会経由の小口補給を増やす。民間冒険者クランの中継も、試験的に使う」
「民間を軍の補給線に入れるのか」
「軍の補給線ではありません。協会依頼です。標識板、荷札確認、退避線、補修、薬瓶の小口配送。名目は、あくまで現地保守」
「詭弁だ」
「はい」
参謀本部長は否定しなかった。
「ですが、詭弁で馬車が一台通るなら、その一台で助かる兵もいます」
ランドマールは、黒い細紐の端を見た。
そこに、羽黒承の名前は書かれていない。
ただ、西詰所、協会、仮置き場、旧木炭道、保守組という小さな字が並んでいた。
「みちしるべは」
軍務尚書が、報告書をめくった。
「まだ仮設立です。規模も小さい。戦力として見るほどではありません」
「戦力ではなく、途切れにくさだ」
参謀本部長が言った。
「報告を残す。荷数を照合する。撤退線を見て戻す。そういう作業は、派手な戦力より先に切れることがあります。そこを拾う者がいるなら、使わない理由はない」
「本人には、内戦の話を出すな」
ランドマールが言った。
会議室の何人かが、顔を上げた。
「羽黒承を、正規の対人戦に関わらせない。少なくとも、今はだ。魔物対応、補給、撤退、保守、救助。そこまでに留める」
「理由は」
「戻すために外へ出した者を、すぐ人間相手の戦場へ投げ込めば、こちらの判断が破綻する」
ランドマールの声は平坦だった。
けれど、言葉の端に、小さな疲れがあった。
「それに、クラスメイト側とも近づけるな」
「接触を避ける、ということですか」
「そうだ。噂だけでいい。王城派遣戦力が活躍している。北で魔物を押し返している。そういう話だけでいい」
「事実の一部ですね」
「一部なら嘘ではない」
そこだけは、茶器の音も止まった。
参謀本部長が、指示をまとめ始めた。
「一、第二王子派の軍事行動を内戦開始事案として扱う。帝国の支援は確認済み、ただし帝国軍本隊の正式侵攻とは分ける。
二、北領の魔物活動は別件。帝国との直接関係を認めない。ただし兵力と補給を圧迫する要因として管理する。
三、転移者班の一部を北領魔物対応へ配置。正規の対人戦には投入しない。
四、装甲戦闘車、特殊弾薬、魔法具保守の補給線を西詰所経由で維持する。
五、民間冒険者クランの活用は協会依頼として扱い、軍令ではなく現地保守の名目で進める。
六、羽黒承およびその周辺には、クラスメイト側との直接接触を避けさせる」
ランドマールは、最後まで聞いた。
「実行に移せ」
短い命令だった。会議はそれで終わらなかった。終わったのは、迷う時間だけだった。
戦争は、まだ羽黒承の机には届いていない。届くのは、釘、白板、荷札、遅れた荷車。
それから、誰かが少し明るく言い換えた活躍の噂だけだった。
✶
同じ頃、北領の演習場では、別の四時間が過ぎていた。
四時間で十分だった。
砲塔から降りた時、山崎たちはもう喋るのも面倒そうだった。
耳の奥で、まださっきの音が残っていた。
「弾薬消費、六十三発。予算消費額」
指揮官が計算書を見せた。
「約三十万ラル。王国一般兵の月給総額の三百倍だ」
佐々木が、その数字を受け取った。
「たった一日の訓練で」
桐谷が呟く。
「明日はもっと飛ぶ」
指揮官は計算書を指で叩いた。
「当てれば戦果だ。外せば金だ。そういう顔をしておけ」
夜の兵舎。
山崎が、片手を揉みながら、天井を見ていた。
「砲撃の反動、想像以上だな」
「腕への負荷が高い。普通の射撃訓練とは質が違う」
佐々木が答える。
「あの自動随伴ってやつ、何なんだ」
桐谷が聞く。
「魔導工学と結界技術の複合。目標を決めれば、砲身の角度は向こうが計算してくれる」
佐々木は、それだけ答えた。
「つまり、俺らがどれだけ優秀でも、道具が悪けりゃ意味ないってことだろ」
山崎が肩をすくめて言う。
その言葉に、三人の手が止まった。
翌日の実戦を前にして、彼らは何かを理解しかけていた。
しばらく、筆先だけが乾いていった。
さっき聞いた金額だけが、妙に残っていた。
✶
王城の図書室には、日本の学校図書館とは違う匂いがあった。
紙と革と、乾いた薬草。
佐々木宗助は、古びた『冒険者名鑑』を指でなぞっていた。
武勇伝ではない。
階級。登録地。主な依頼種別。
活動停止の理由。処分歴。
「羽黒の噂、聞いたか」
背後から、三郷の声がした。
「聞いた」
「戻ってくるのかな」
桐谷が、そう呟いていたのを思い出す。
教室や食堂が、戻る場所だった頃があった。
今の羽黒にとって、それがどこなのかは、佐々木にも分からなかった。
✶
「北領の『みちしるべ』は、あくまで民間義勇軍としての扱いを」
配備会議の紙が、また一枚増えた。
「正面衝突が起きた際、彼らは」
「規定の規約通りです。自力で撤退。あるいは、現地での時間稼ぎ」
会議室の誰かが笑い、誰かが口を閉じた。
紙の上に引かれた線が、誰の命に触れているのか。
それを気にする者は、この部屋にはいなかった。