ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 五章 十一節
『渡河の朝、補給列は水音に速度を預ける。』
2375- 北領渡河点 兵站将校視点
「くそ、雨量が予報より多い」
兵站将校は、懐の計測器で空気中の湿度を測っていた。沢の水位を読むための、数少ない手がかりだった。
「荷馬車、現在地点で停止。渡河の可能性を判定するまで、待機」
指示に、十数台の馬車の列が、泥濘の道端で止まった。
積み荷は、北砦へ向かう補給物資だった。食料、弾薬、魔導具の充電用結晶。
リワウヒ港から上がった荷も混じっている。潮の匂いはもう残っていないが、箱の焼印だけが港を覚えていた。
「沢は」
将校が、斥候の兵に聞く。
「本流で腰まで。従来なら渡れますが、この増水では、積み荷が浮く危険があります。金属弾薬は沈みますが、魔導結晶は浮きやすい」
将校は、天を仰いだ。
雨は、まだ降っている。
「水位の推移は」
「このまま続けば、あと二時間で三十センチ上昇。渡河不可の判定になります」
「迂回は」
「北の峠ルート。距離で五キロ増、時間で三時間の遅延です」
将校は、椅子の背から離れなかった。
兵站は計算だ。リスクと時間と物資量。それを冷たく秤にかけるのが仕事だった。
「北砦へ無線。主要街道ルート、現在地点で停止中。渡河判定は一時間後、と」
「了解」
兵が、小型の無線機へ向かう。
その時だった。
沢の上流から、一人の人影が現れた。
濡れた服、疲れた顔。装備は整然としているが、兵のものではなかった。
「おはようございます。北への物資ですか」
将校は振り返った。
「誰だ」
「西詰所の者です。昨日、この上流を見てきました」
懐から、一枚の紙が出てくる。
「沢の記録です。たぶん、役に立つと思います」
紙には、細かい字が並んでいた。
流量。水位。地質。
今日の雨が続いた場合の予測。
安全に渡れる時間帯。午前九時から十一時、本流が腰から膝に下がる見込み。
降雨が止まなければ無効、との但し書きも添えられていた。
字は整然としていた。数字は具体的だった。
そして、斥候の報告値とほぼ一致していた。
「これは、誰が」
「羽黒承です。北へ向かう途中で」
それだけ言って、冒険者は目を伏せた。
将校は、紙に目を落とし、空を見上げ、それから沢の流れを見つめた。
判断に必要なものが、揃っていた。
「現在時刻、午前七時。雨の止む気配なし。あと二時間、待機。その後、本流を直接渡る」
「理由は」
「この紙にある、九時から十一時の渡河時間帯だ。降雨が止めば渡れる。続けば、予測通り水位が上がる。今の判断は、止む方に賭ける」
「根拠は」
「経験と、この記録」
将校は、紙をポケットにしまった。
「北砦へ無線を変更。主要街道ルート、午前九時渡河予定。到着予定、午後二時」
「あなたの名前は」
「羽黒承です」
「羽黒か。次も、この品質で頼む」
「はい」
短い返事だった。
「次は、雨でも読める字にしておきます」
将校の口元が、わずかに緩んだ。
「それは助かる」
「僕も、濡れた紙は読みにくいので」
羽黒は、すぐに北への道を進んでいった。
その背中を見ながら、将校は思った。
単独の冒険者ごときが、と思いかけて、やめる。
単独だから、届いたのかもしれない。組織を通せば、この紙はもっと遅れて来ただろう。
「午後二時渡河」
将校は、紙を確認し、補給列に号令を下した。
あと二時間。待機だ。
✶
その夜、三郷は兵舎の外に出た。
北の暗い空から、遠く砲撃音が聞こえてくる。
訓練の音ではない。
実戦の音だ。
三郷は、砲撃訓練の後の山崎たちの顔を思い出す。
楽しそうだった。強そうだった。負けるわけがないと思えた顔。
だが今、その音を聞きながら思うのは。
「ここに、羽黒がいたら、何て言うんだろう」
返された剣。
約束。
その対価として、羽黒は城を出た。
だから、ここにはいない。
三郷が最初に気づいた違和感は、そこにあった。
✶
夜の北砦。
クラスメイト班は、訓練場から戻ったばかりだった。
「お前たちは」
北砦司令が、彼らを集めて告げた。
「北領魔物対応の中心戦力として、今後半年、ここに配置される。試験的配置ではない。確定配置だ」
三ヶ月のつもりが、半年。
山崎たちの顔に、一瞬の硬直が走った。
「理由は」
「北領の魔物群が、想定より組織化している。お前たちの成長が要る」
司令の説明は、それだけだった。
「つまり」
佐々木が言った。
「試験対象じゃなく、戦力ということですね」
「そういうことだ。文句は聞くが、判断は変わらん。人間相手の内戦には出ない。だが、魔物対応では、もう主力の一部だ」
彼らは、強い。だから使われる。
その使い方が、試験的から確定的に変わっただけだった。
✶
「疲弊度、想像以上だ」
山崎が、それだけ言って寝台に沈んだ。
「五分の待機で、複合属性を三回受けた。防ぐたびに、体の芯が冷える」
佐々木がつぶやく。
「もし、後衛支援がいたら」
桐谷が言う。
「冷却も、回復も、少し速くなった。次と向き合うまでの間ができた」
三人の間に置かれた茶が、そのまま冷めた。
戦闘に後方は要る。
当たり前のことに、彼らはようやく気づいていた。
「では」
佐々木が、ギルド担当者へ視線を向けた。
「みちしるべへの依頼を、大型試験依頼として改めて承認する。対価は十五パーセントで良い。次の依頼でも、同じ条件で頼みたい」
「了解。正式通知を出します」
担当者が、書簡を書き始める。
羽黒のクランが、雑用組ではなく、戦力を支える組織として扱われ始めた瞬間だった。