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博麗神社は幻想郷の境界を支える要である。
そして、つい数年前まで誰の庇護もなく戦い続け、血を流し続けた『先代の巫女』の墓標が眠る社でもあった。
山風だけが静かに吹き抜けるその境内には、今もなお、どこか拭いきれぬ寂寥が残っている。
戦鬼の纏う煤けた銀の鎧には、あの夜、八雲紫から授かった深い紫色の肩布が静かに掛けられている。紫布は、幻想郷という歪な箱庭を見届ける者の証。戦鬼は王ではなく、その均衡を守る調停者となっていた。
だが、いまその足元にいるのは、孤高の王でも修羅でもない。小さな、あまりにもか弱い紅白に身を包む少女だった。
幼い博麗の巫女──名を博麗霊夢。
まだ社殿の大きな床板を持て余すほどの小さな少女は、毎朝、薄明かりの中で目を覚ますと、真っ直ぐに銀鎧の許へと駆け寄るのが日課となっていた。
「せんせい、おはよ」
幼い声が社殿の冷えた空気をわずかに揺らす。
狼の戦鬼は、一切の言葉を発さず、ただ無言のまま巨躯を屈め、その小さな頭にそっと鉄手袋の指先を触れさせた。撫でるというよりは、ただそこに温もりだけを残すような、不器用な仕草だった。だが、霊夢はその無言の優しさを疑うことなく、嬉しそうに目を細めてピタリと頬をすり寄せるのだった。
それは、血の繋がりを超えて育まれた、静かな親子の時間だった。
朝食の時間は、奇妙なほど静かで、そして温かかった。
大きな囲炉裏の火を囲み、戦鬼が手ずから削り出した木製の椀に、湯気の立つ温かな雑穀粥がよそわれる。戦鬼自身は食事は必要としない。だが、霊夢がスプーンを使い、美味しそうに粥を口に運ぶ姿を、兜の奥の昏い双眸はただじっと見守っていた。
「ん……! おいしいよ、せんせい」
霊夢が無邪気に笑うと、無言の王は何も変わらない。ただ、ほんのわずかに肩の力だけが抜けた。
かつて狭間の地で無数の命を刈り取り、黄金を剥ぎ取ってきたその手は今、小さなお椀を支えるためだけの穏やかな手となっていた。
◇
神社の裏手に広がる静かな境内は、二人の修練の場へと変わる。
霊夢の手には白紙の御札が握られていた。霊夢が放つそれは、霊力を媒体として敵を鋭く穿つ博麗の退魔術であったが、幼き未分化の肉体と精神では、その法術の理を十全に定着させることができなかった。
戦鬼は霊夢の霊力の流れを理解していた。
だが、それは外側から見た理解に過ぎない。
それは、博麗の血脈にのみ受け継がれる神技だった。
狭間の地を征した王であろうと、決して踏み込めぬ領域だった。
だからこそ彼が教えるのは、ただ一つ。
幾度の死線を潜ってきた者だけが知る、無駄を削ぎ落とした生き残ることに特化した「足運び」の極意だった。
霊夢が小さく息を吸い、狙いを定めて札を投じる。
「せいっ……!」
軌道が逸れる。その瞬間、背後から無言の巨体が近づき、戦鬼の太く硬質な鉄手袋が、霊夢の小さな足首をそっと、しかし絶対的な重みで正しい位置へと踏み直させた。
霊夢は重心を預け、教えられた通りに踏み込みながら再び札を放つ。今度は、空気の裂ける鋭い音と共に、札が真っ直ぐに的を射抜いた。
戦鬼は何も言わない。ただ、札を放つ幼い背中を静かに見つめていた。その眼差しは、一人の子供ではなく、未来に調停を背負う巫女へ向けられていた。
その小さな背中に刻まれる一歩一歩が、やがて幻想郷を支える礎となることを、少女はまだ知らない。
◇
修練の合間、縁側に二人並んで腰を下ろす穏やかな時間もあった。
昼下がり、境内を渡る風はどこか心地よく、白紙の御札を投じ続けた霊夢の小さな両手は、わずかに疲労を覚えていた。そんな少女を労うように、囲炉裏の火にかけていた鉄瓶から、彼は静かに湯を注ぐ。
不器用な鉄手袋の指先が、湯気の立つ素朴な湯呑みをそっと支える。
霊夢は両手でそれを受け取り、ふうふうと小さく息を吹きかけながら、ゆっくりと口をつけていった。
「ふふっ、あったかいね、せんせい」
湯呑みを包み込む小さな両手と同じように、霊夢の心までもがじんわりとほどけていく。戦鬼は自身でそれを飲むわけでもなく、ただ静かに隣に座り、霊夢が美味しそうにお茶をすする様子を見守っている。
言葉はなくとも、その巨躯から伝わる確かな体温と気配が、幼い少女にとっては何よりも安心できる陽だまりのような存在だった。
「おいしいお茶を飲んで、お日さまのにおいがして……ここ、すごくすき」
霊夢は湯呑みから顔を上げ、眩しそうに細めた瞳で銀の騎士を見上げる。
巨躯の男は何も言わず、ただそっと、その小さな頭に鉄手袋の指先を乗せた。撫でるというよりは、ただそこに寄り添うような優しい重み。
青空の下、お茶の香りと温もりに包まれたこの穏やかな時間は、いつかの日か少女が大人になっても胸の奥で灯り続ける、かけがえのない優しい思い出となっていく──
◇
夕陽が幻想郷の空を茜色から昏い紫へと染め上げていく黄昏時。霊夢は戦鬼の紫の肩布にもたれかかるようにして小さな頭を預け、そのままトプン、トプンと心地よさそうにまどろんでいく。戦鬼は身じろぎもせず、霊夢が目を覚ましたままでいられるよう、ただ静かに不動の彫像のように座り続けていた。
「せんせい……ずっと、いっしょだよね」
消え入りそうな幼子の呟きに、戦鬼は答えなかった。ただ、その硬質な太い腕をそっと伸ばし、小さな体を優しく抱き寄せる。言葉はなくとも、その背中が「ここにいる」という絶対の真実を語っていた。
──遠く、影に隠れた境界の向こうから、その光景を見つめる八雲紫が小さく息を吐いた。
「約束は、いつか人を泣かせてしまうものよ」
その声は誰にも聞こえず、ただ夕闇の風にかき消されていった。だが、陽が完全に沈み、世界が漆黒の帳に包まるとき、神社の穏やかな日常は、容赦なくその仮面を剥ぎ取られた。
◇
深夜。
霊夢の寝息が静かに響く社殿から一歩離れた鳥居の影に、八雲紫と、その式神である八雲藍が音もなく佇んでいた。
その視線の先では、狼の戦鬼が無言のまま愛馬トレントの手綱を整えている。
「紫様、何度止めても、あの者は何がなんでも契約を護り通すつもりです。一体いつまで、毎回命すら投げ出すような真似を続けるのでしょうか」
藍は九本の尾を警戒心に逆立て、歯がゆそうに戦鬼の背中を睨みつける。その背後で、紫は扇子でふっと口元を隠し、どこか面白がるような笑みを浮かべた。
「あら藍、もしかしてあの人のことが心配なの?」
「な、何を仰るんですか紫様! あり得ません!」
藍は盛大に耳を跳ね上げ、顔を真っ赤にして大きな声を漏らす。
「私があの外来人を気にかける理由などどこにもありません! ただ、もしこのような調子で勝手に倒れられては、のちの結界の維持に我が主が余計な苦労を背負い込むことになるのではと、そう危惧しているだけでして……っ!」
「ふふ、そうかしら。でも、あの人が満身創痍になりながら、毎夜こうしているからこそ、幻想郷の平穏を繋いでいるのよ。藍だって、本当は気づいているのでしょう?」
紫の静かな問いかけに、藍はぐっと言葉を詰まらせた。九本の尾がふと揺れ動き、険しかった双眸がわずかに憂いを帯びる。
初めて異界の王がこの世界に迷い込んだ頃、藍は彼をただの幻想郷の脅威として警戒し、いつかは排除すべき異物と見ていた。だが、幾度も夜の深淵へ赴き、血を浴びてまで無言で境界を守り続けるその背中を背後から見送り続けるうちに、藍の胸の内の敵意は、いつしか言葉にできぬ複雑な畏敬へと変わりつつあった。彼は誰のために戦っているわけでもない。ただ、この儚い箱庭の営みを、自らの痛みを代償に守り続けているのだと。藍は小さく息を吐き、視線を背けながらも、どこか諦めたような愚痴を零した。
「……まったく。元の世界に帰る契約とはいえ、報われない生き方ですね。自分のための命ではなく、他者のための修羅に身を堕とすなんて、見ていて気が気じゃありませんよ」
「そうね。だけど、だからこそ彼は美しいのよ」
紫は微笑みを深め、ふと大きな背中へと視線を投げかける。
狼の戦鬼は、八雲紫の冷徹な策略のすべてを理解しているわけではない。しかし、その深奥にある「この幻想郷を愛し、守り抜こうとする揺るぎなき意志」だけは、言葉がなくとも痛いほどに汲み取っていた。だからこそ彼は、血塗られた剣を振るうことを決して厭わない。紫の掲げる願いの重みを、その不器用な魂で丸ごと引き受けているのだ。
「出番よ、王様」
紫の呟きを合図に、戦鬼は一言も発さず、ただ静かに頷いた。その瞬間、温かな日常の面影は完全に霧散し、白髪は陽炎のように揺れ動き、騎士の双眸には神々を屠ってきた王の狂気が宿った。
異界を駆けた霊馬トレントのいななきが夜空を切り裂き、戦鬼の巨躯は一陣の暴風となって漆黒の森へと飛び出していく。
向かった先は、博麗神社の結界と人里を隔てる山峡だった。
人里まではまだ幾里かの距離がある。だが、この一線が破られれば、夜明けまでに悪鬼どもは人里へ雪崩れ込む。それゆえ戦鬼は、この場所を決して越えさせなかった。
谷を埋め尽くしていたのは、音なき狂気だった。
言葉を持たず、ただ生者の温もりと肉を貪るためだけに群れ集う歪な肉塊の群れが、這い寄るように峡谷の目前へと迫る。その圧倒的な悪意と死臭は、周囲の空気を凍りつかせ、見る者の理性を根底から蝕むほどの悍ましさを纏っていた。
戦鬼は愛馬トレントをその場で止め、一歩も引かぬ壁として立ち塞がった。トレントの背に括り付けられた旅装から、戦鬼は古びた聖印を取り出す。それはかつて狭間の地で、古竜信仰を継ぐ祈祷師から託された遺物だった。
左手に握られた聖印が、暗闇の中で黄金に輝く。
静寂を切り裂くように、戦鬼の喉の奥から地を這うような重低音の呪文が紡ぎ出される。瞬間、漆黒の夜空を貫き、常世の雲を金色に焼き払うほどの神聖なる落雷が奔った。
王都古龍信仰──祈祷『雷撃』
天から狙い澄ました一点へと降り注いだ黄金の雷槍が、群れの中心にいた巨鬼の頭蓋を直撃する。閃光が夜の森を真昼のように眩く照らし出し、衝撃波が周囲の巨木を根元から粉砕した。絶叫を上げる間もなく、巨鬼は熱量に蒸発し、その肉体は瞬時に黒い炭へと変わって地面に崩れ落ちる。
戦鬼は聖印を腰へ収めると、愛馬を蹴り、群れの中心へと踏み込んだ。
右手に握られた直剣の柄を強く握る。
鎧が軋むと同時に次の瞬間。
一閃。
黄金の斬撃が夜を裂く。
遅れて山峡に轟音が轟いた。
悪鬼どもの肉塊は、一刀のもとに断ち切られる。
重圧の電撃を帯びた斬撃が、悪鬼どもの肉塊を一刀両断し、その余波だけで周囲の岩肌さえ砕き散らす。無駄な動きは一切ない。押し寄せる群れを、ただただひたすらに断ち切っていく。
峡谷の要衝を死守した戦鬼の足元に、もはや動くものは残っていなかった。
夜の底に、静かに静寂が戻る。
戦鬼は荒らげた息を静め、歩み寄ってきた霊馬トレントの濡れた鬣を太い指先でゆっくりと撫でた。
遠くの境界の裂け目から、紫と藍が静かに姿を現す。藍は激しい死闘を無事に生き延びた戦鬼の姿を認めるやいなや、無意識に胸を撫で下ろすように小さく安堵の息を零し、それでも気まずそうに顔を背けて調停者に対する警戒を解くことはなかった。一方の紫は、血塗られた戦場に佇むその孤高の背中を静かに見つめ、ゆっくりと扇子を閉じた。
紫はふと小さく微笑んだが、その瞳の奥には、英雄である戦鬼の無私の献身を我が目的のために利用し続けていることに対する、かすかな痛切と罪悪感が陰のように揺らめいていた。
戦鬼は何も言わず、ただ無言で一瞥をくれただけだった。しかしその背中は、すべての意味を受け止めているかのように重く、静かだった。
◇
夜が明ける。
漆黒の闇から、再び朝の柔らかな光が幻想郷を包み込む頃、血に塗れた戦鬼の姿は消えていた。
博麗神社の境内。
朝露に濡れる社殿の縁側で、まだ小さな少女が目を覚ます。
「せんせい……おきたよ」
微睡みの中、霊夢は小さく目をこすりながら、隣に佇む冷たい銀の巨躯へと手を伸ばした。
戦鬼は音もなく膝を折り、その小さな温もりを優しく受け止める。
「…ん…ぁ……ここ、あったかいねぇ」
霊夢は戦鬼の煤けた手甲に小さな両手を重ね合わせ、まるで陽だまりに寄り添う小動物のように、その硬質な胸元へとふんわりと顔をうずめた。外の冷気など忘れたかのような、絶対的な安心感に包まれて、少女はふう、と柔らかく息を吐き出す。
「せんせいといっしょにいるとね、ぜんぜん、こわくないの。ずっと、ずっとこうしててね……?」
戦鬼は答えなかった。
ただ、不器用な鉄手袋の掌で、少女の背中を包み込む。その温もりだけが、何より雄弁な返答だった。
昼の温もりと、夜の殺戮。
その二つの極を胸の内に抱えながら、王は今日も、この小さな巫女の隣で静穏な朝を迎える。
やがて訪れる、新たな幻想郷の夜明けを誰よりも静かに見届けるために。