◇ カクヨムにも投稿してます。

後輩系の幼馴染と耳がポンコツな先輩の話です。

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タイトルの通りです。


先輩、その耳は飾りっすか

 放課後の廊下は、掃除の水と黒板消しの匂い、それと少しの埃っぽさがまだ残っていた。

 

 槙野透は、自分のロッカーの前で足を止めて、取っ手に指をかける。

 

「……あ」

 

 声が漏れる。

 

 一昨日着た体操着を、放置してしまった事に気づいたからだ。最悪だと内心で毒づく。しかし、いくら過去の自分に愚痴ってもロッカーの中身は変わらない。

 

 シュレディンガーの猫にあるように、『実際に開けるまで、体操着が臭いかは分からない』などと現実逃避をしたいところだ。だが、アレはあくまで思考実験。どうせ、とんでもない匂いになってるだろう。

 

 扉を開けたら放たれるであろう、げんなりするような匂いを覚悟して扉を開けると。体操服はなく、代わりになぜか開封されてないポテチがあった。

 

 こんなことをするのは、奴しかいない。そう思った瞬間、隣の掃除用具入れが、ぎい、と細く開いた。そして、用具入れの中にあったモップの柄の間から、奴——志波トバリの顔が出た。

 

「開封ありがとうございますっす。トーバーイーツっす」

 

 明るすぎる桃色の髪が、モップの白い房からはみ出しており、足もとの鞄から垂れたチュッパチャプスだかチュパカブラだかのキーホルダーが掃除用具にまじっていた。彼らは、さも自分も備品であるとでも言いたげな顔をしていた。

 

「ポテチなんか注文した覚えないんだが」

 

「返品不可っすよ」

 

「押し売り?」

 

 彼女はあたかも自分の部屋みたいな顔で、持っていたポテチの袋の底から割れた一枚を探っていた。

 

 ここで、彼は気づいた。体操着は無かった。——なら、どこにやったのかと。

 

「つか体操着どこやった?」

 

「昨日見つけて先輩の家に届けたっす」

 

「おー、サンキュ」

 

 体操着の件は素直に感謝するが、それでも目の前の彼女が用具入れから現れたのには変わりない。

 

 一旦、透はなにも見なかったことにして、掃除用具入れの扉を閉めようとした。

 

 が、中から靴の先がすっと伸びて、閉まろうとする扉の邪魔をした。そして、ポテチを一枚つまんで、透へと差し出した。

 

「先輩も食べるっすか?」

 

「食べるとこじゃないんだよなぁ……」

 

「暗くて落ち着くんすよね。あと狭いのも良いっす」

 

「虫かよ」

 

「虫はもっと端っこ行くっすよ。一緒にしないで欲しいっす」

 

「虫と何張り合ってんだお前」

 

「張り合ってないっす」

 

 なんて、軽口を叩き合う二人。しかし、ふいにトバリは袋を胸の前で抱えたまま、なぜかすこしだけ真顔になった。

 

「……今日はただの用事っすよ、ただの」

 

 そこでようやく、トバリはポテチの袋を閉じた。ポテチの粉のついた指で袋の口を折り、親指で折り目を丁寧になぞる。

 

 いつもならもう一枚食べるか、もしくは食べかけを透の鞄へ突っこむ。だが、今日はそれをしない。その違和感が、どうも透の目にとまった。

 

「そんで? 用事って何?」

 

 用具入れから器用に、彼女はぬるりと出た。床についた靴が軽く鳴って、鞄のキーホルダーが遅れてじゃらりと揺れる。

 

「……先輩、ちょっと来てほしいっす」

 

「掃除用具入れから出てきた奴について行く趣味は無いな」

 

「今日は安全っす」

 

 透は半歩だけ下がった。逃げるためではない、と思いたかった。だが体のほうは、どうも先に危険を覚えていたらしい。

 

「今日は?」

 

「昨日よりは」

 

「帰る」

 

 後ずさりした透に、トバリは目をほそめてからその肩を掴む。掃除用具入れから出てきた、怪異みたいな奴にだけは、そんな顔をされたくはない——そう、透は思った。

 

「全く……逃げ足だけは成長してるっすね」

 

「誰のせいだ」

 

 文句をこぼしながらも、透は結局ついていった。放っておくことはできる。だが放っておけば、あとでもっと妙な場所から姿を見せるのだ。

 

 昔の話だが──彼女を放っておいた結果、いつの間にか行方不明となってしまい、探し回ったことがある。結局その時は、町内会の倉庫の天井裏で彼女を見つけた。暗い倉庫の中で、「とおる、上っす」と声がして、おもわず腰を抜かしてしまったのは、透にとっては黒歴史である。

 

 もっとも、トバリにとってそれが抱腹絶倒ものであった事は、彼は容易に想像できた。

 

 透が連れて行かれたのは、校庭に面した渡り廊下だった。夕方の光が窓のサッシの影を細く伸ばし、部活動か何かをやっている外の掛け声はガラス越しからか、くぐもっていた。

 

 いつもならトバリは窓に鼻を近づけ、怪しい影や、誰かの落とし物や、ただの草まで事件にしようとする。ただ、今日は透の前に立ったまま、どこにも動かずに制服の裾をつまんでいる。それが、やけに不自然だった。

 

「先輩」

 

「何だよ」

 

「今から言うこと、笑ったら噛んでやるっす」

 

 噛んでやる、という単語だけが妙に現実味を帯びていた。透は思わずトバリの口元を見る。

 

「犬じゃん」

 

「犬のほうがまだ聞くっす」

 

「俺犬未満なん?」

 

 トバリは透を上から下まで見た。答えは既に決まっているとでも言わんばかりの顔だった。

 

「負けてるっす。おすわり」

 

「誰が座るか」

 

「じゃあ立ったまま聞けっす」

 

 ふざけた言い方のわりに、トバリの指は制服の裾をつまんだまま離れない。

 

「何を」

 

「……今から言うっす」

 

 トバリは一度、口をとじた。もう片方の手の指にポテチの塩がついているのに、舐めもしない。その指が制服の裾をつまんで、すぐ離れた。

 

 そして、彼女はゆっくり顔を上げた。いつものにやけた顔を作ろうとして、途中でほどけたような顔。笑う準備だけが頬に残って、目の奥だけが追いついていないようだった。

 

 まるで、ふざけるための足場を自分でどこかへ蹴ってしまったみたいだった。

 

 トバリは普段、真面目な空気をまっ先にぶち壊しにかかる。誰かが深刻な顔をすれば、背後から紙製の幽霊を出す。透が怒れば二歩だけ逃げて、そこで振り返ってにひひ、と笑う。

 

 だから、黙ったまま立っている今の彼女は、透からすればどうにも変だった。変なのに、いつものようにからかう気になれなかった。

 

 笑ったら噛む、という予告が耳に残っている。噛まれるのが嫌なのではなく、そこまでして言おうとしているものは一体何なのかという興味のほうが、今は勝っていた。

 

「先輩。あたし、先輩のこと――」

 

 彼女が何かを言いかけたその瞬間——校庭の向こうで銀色のなにかが飛んだ。夕日を拾ってそれはぎらっと光り、斜めに空気を滑っていく。すこし遅れて、校庭から歓声がはじけた。

 

 男子も女子も、先生まで混じった妙な声で、なにかを追って走り出している。銀色のなにかは一度落ちかけたが、誰かの長い棒でつつかれてまた浮いた。棒の先に貼られた赤い布、板の端に貼られた反射シート、なぜかやけに必死な体育教師の横顔まで見えてしまった。うちの学校はいったいどうしてしまったのかと、透は遠い目でそれらを見た。

 

 歓声がもう一段上がる。透の耳は、トバリの声よりそちらを拾ってしまった。——いや、拾ったというより、勝手に持っていかれた、という言い方が正しいだろう。目もつい追ってしまった。トバリの話を聞こうと準備していたはずの理性は吹き飛んでしまったようだった。

 

 飛んだものは、近づくほど正体から遠ざかった。アルミの大きなシートを、竹竿と洗濯ばさみで無理やり骨組みにしたようにも見える。どこかに小さな鈴がついているのか、風を切るたび、ちり、と乾いた音までした。

 

 あれを見ないでいられる人間がいるなら、そいつは悟りを開いているか、よほど視力が悪いかのどちらだろう。透はどちらでもなかった。

 

「トバリ、今なに飛んだ」

 

「あたしの話じゃないっすか?」

 

 トバリの声が一段低くなった。それでも、透は窓の外を見てしまう。

 

「いや、あの銀色の——」

 

「色まで見てんじゃねえっす」

 

 ネクタイをつかまれ、透の視界がようやく引き戻される。目の前の彼女は、さっきより耳が赤い気がした。

 

「見るだろあんなん」

 

「人の話聞けって話っす」

 

透が言い返す前に、校庭から「もう一回いける!」という声が上がった。何がいけるというのだろうか、全く意味が分からない。

 

 校庭の方をちらりと見たトバリの肩が、ぴくりと跳ねた。あ、という顔だった。さっきまで妙に真面目だった顔が、今では自分が犯人と気づいた時の顔に変わっていた。

 

「……よりにもよって今日っすか……」

 

「お前が元凶かよ」

 

「ちょっとだけ教えただけっす。銀色のものを飛ばしたら、空から返事が来るって」

 

「十分だろ」

 

 透は銀色の板とトバリを交互に見た。この学校で起きるだいたいの事件は、その順番で見れば犯人がわかる。

 

「実行したのはあいつらっすよ」

 

「種まいた奴が言うセリフかこれ」

 

「芽ぇ出るとは思わないじゃないっすか」

 

 校庭では、反射シートを貼った板のようなものが再び持ち上げられていた。生徒たちはやたら本気で、片足立ちのまま空をあおいでいる者までいた。地面に描かれている石灰の白い線が歪んで、砂ぼこりが夕日に溶けていた。

 

 トバリは何も言わずに、透の袖をつかんでから旧校舎のほうへ歩き出す。気のせいだろうか、さっきより歩幅が速い気がした。キーホルダーの音も歩幅にあわせて、鞄の横でよりばらばらに跳ねていた。

 

「なあ、もう帰っていいか?」

 

「駄目っす」

 

「なんでだよ」

 

 トバリの歩幅が、さらに速くなる。袖をつかむ指にも力が入った。

 

「言う前に帰ろうとすんなっす」

 

「言ってねえからだろ」

 

「だから聞けっつってんすよ」

 

 旧校舎の廊下は人が少なかった。木の床はところどころ色が抜け、踏むたびに薄い埃の匂いが上がる。壁の掲示板には、去年の文化祭の紙がまだ残っていた。画鋲の穴だけが増え、端のほうは湿気で丸まっている。

 

 突き当たりの掃除用具入れの前だけ、なぜか数人の生徒が息を殺していた。透は足を止めかけたが、トバリが強く袖を引く。見なかったことにしろ、とでも言っているかのようだった。

 

 再び、トバリは立ち止まって、意を決したように言い始める。

 

「先輩。あたし、ずっと――」

 

 ばたん、と古い扉が開いた。中からモップが三本、バケツが二つ、ちり取りが一枚、順番も遠慮もなく崩れてくる。

 

 トバリは舌打ちした。

 

 金属の柄が床を叩いて、バケツがひっくり返って廊下を派手に転がった。乾いた音が柱に当たり、天井の隅でしばらく跳ねる。

 

 待っていた生徒たちが「マジで開いた!」と叫んで、誰かが悲鳴をあげた。開いたからといって、なんだというのだ。悲鳴をあげる場面ではないだろう。

 

 トバリの声は、バケツの中へ転がり込んだみたいに消えた。透のほうも、消えた語尾を拾いに行けるほど器用ではなかった。

 

「この学校頭おかしいんじゃないんすか」

 

「お前だろどうせ」

 

「うるせえっす。なんで今日に限ってやるんすか、あいつら」

 

 トバリは転がったバケツをにらんだ。相手が物でも、にらみ方だけは容赦がない。

 

「やっぱお前じゃん」

 

「黙れっす。開かずの用具入れ三回ノックしたら開いて霊が出るかも、って伝えただけっすよ」

 

「今日だけで二回だぞ? 後一回で猛打賞だ、おめでとう」

 

 透が指を二本立てると、トバリはその指を払おうとした。払う手にも、少しだけ照れが混じっていた。

 

「数えるなっす、性格カスっすね」

 

「つか『かも』で人が集まるかよ」

 

「集まったっすね」

 

「反省しろバカ」

 

「無理っす」

 

 言い切ったあと、トバリは珍しく黙った。いつもなら、ここいらで他の生徒に割り込むような形で掃除用具入れの中を覗きこむ頃合いだ。中に手を入れ、なにか出たとか出ないとか騒ぎ、ついでに透の顔に毛虫のおもちゃだか何かを投げつける。

 

 しかし——今日は、転がったバケツをまたぐだけだった。透の袖から手を離し、鞄の肩紐を握る。指の先が力を入れすぎて、すこし白い。なにか、緊張してるようだった。周りの生徒たちはまだ扉を見ていたが、トバリは、全く見ていなかった。

 

 透は、茶化すための言葉を一つ用意しかけて、やめた。口の中で転がした軽口が、うまく出口を見つけられずに飲み込まれて、消化されていく。

 

 ふと、トバリの鞄の端で自慢げそうな表情をしている、小さな宇宙人のキーホルダーが外れかけているのに彼は気づいた。昔、近所の祭りで透が射的を外しまくったあと、店のおじさんに泣きついてもらった景品だった。

 

 こうして考えると、その宇宙人は安っぽい見た目をしており、それより良いものなんて沢山あるはずだった。

 

 しかし、トバリはそのときからずっと、壊れた輪っかをなんども直して付けているのだ。

 

 透は彼女を見る。本人は、落ちそうになっているのに気がついていなかった。

 

 歩くたび、ゆるんだ金具が鞄の布をかすめて、銀の輪が布の端で小さく光った。今にも落ちそうなのに、ぎりぎりのところで引っかかっているのが、なんだか今日のトバリそのものみたいで、透はすこしだけ息を止めた。

 

 夜店の射的では、あの宇宙人だけが妙に棚の奥へ置かれていた。コルク弾は二度も横へそれ、三度目は景品の札に当たって、店番の老人が苦笑いしながら落としてくれた。

 

 トバリはそのとき、笑うのでも礼を言うでもなく、両手で受け取って、まぶたを一回だけ強く閉じた。透はその顔を、なぜか今になって思い出していた。

 

「……先輩」

 

 トバリが振り返った。さっきまでの乱暴な勢いが、すこしだけ落ちている。肩で弾んでいたかばんも、ようやく静かになった。

 

「おう」

 

 透は短く頷いた。今度は茶化さない。そういう合図のつもりだった。伝わったかどうかはわからないが、トバリは一瞬だけ目を伏せた。

 

 そのまつげの動きで、透は胸のあたりを指で押されたような気分になった。痛いほどではない。ただ、いつもの軽口が出にくい。まるで、ふだん使っている引き出しだけに、鍵をかけられたみたいだった。

 

 ふたりは校舎裏の細い通路へ出た。部活の声は遠い。窓も閉まっていて、風で揺れる掲示物もない。外から邪魔をしてくるものは、少なくとも今はなかった。

 

 トバリは透の前に立ってから、言葉を探すみたいにもごもごと唇が動いた。かばんを持つ手が胸の前に上がり、すぐ下がる。

 

 透も、今度は逃げ道を探さないように、壁からすこし離れて立った。逃げないと決めたのに、いつものように無意識的に逃げ道だけは確かめてしまう自分が、すこし情けなく感じた。

 

「先輩——」

 

 トバリは片方の靴先で床の傷をこすっていた。小さいころ、嘘をつく前にも似た動きをしていた覚えがあった。だけど、今回は嘘かなにかをつくようには見えなかった。

 

 だからこそ、余計に透は変な汗をかいた。本当に、何を言うか分からなかったからだ。背中とシャツのあいだに、夕方の冷えが薄く入り込んでくる。

 

 と、その時。キーホルダーの輪っかが、静かに抜け落ち、宇宙人の小さな顔が、かばんから離れた。

 

 透の手が、反射で伸びる。

 

 反射的に手を伸ばしたおかげか、床に当たる前に受け止める事ができた。軽いプラスチックの感触が、手のひらでかたっと鳴る。

 

「——あたし、先輩のこと、好きっす」

 

 ——一方。トバリの声は、今度はちゃんと最後まで出た。通路は静かだった。誰も叫ばないし、なにも飛ばなかった。邪魔するものは何もなかった。

 

 透は手の中のキーホルダーを確かめ、壊れた輪っかを指で押さえたまま顔を上げた。安物の宇宙人は、昔と同じように、妙に得意そうな顔をしている。細い傷、片目の塗装のずれ、背中に残った射的屋の値札のあとまで、はっきり見えた。

 

「これ、落ちかけてたぞ」

 

 トバリが止まった。怒るより前に、目がキーホルダーへ落ちる。透がそれを雑に持っていないことや落とさないように両手で包んでいること、昔の景品だとまだ覚えていること。そこまでは、多分わかったに違いない。

 

 そして、そのわかった顔のまま、トバリのまぶたが半分だけ下がった。通路の奥で、誰かの笑い声が遠くに割れたが、今度はふたりの間へ入ってこなかった。

 

「先輩」

 

「何だ」

 

「聞いてたっすか」

 

「……えーと……金具がやばいって話だったか……?」

 

「……ほぉ」

 

 声が低かった。静かな通路が、急に狭くなった錯覚さえ覚えた。透は思わず、一歩引く。トバリの眼は全く笑っていないのに、口元だけがきれいに上がっている。

 

 透の手のひらには、落下から守ったキーホルダーだけが残っていた。けれど、守ったはずのものが、自分の首に縄をかけてくる気がした。

 

 透は直感的にわかった。何かは分からないが、自分は致命的な失敗をしてしまったらしい、と。

 

「……三秒だけくれてやるっす。遺言でも辞世の句でも、好きに吐けっす。数え終わったらそのポンコツ耳、横からぶっ叩いて昔のテレビみたいに直してやるっす。三回も聞き逃すとか、人間の部品として信用ねえっす」

 

「俺の耳はブラウン管じゃねぇ!」

 

 トバリは鞄を片手で押さえ、キーホルダーを透の手から奪った。乱暴に見えて、輪っかの壊れたところだけは爪でそっと支えつつ、鞄の中にそっと入れた。

 

 透はその手つきを見て、ほんのすこしだけ安心しかけた——が、直後、トバリが指を一本立てる。人さし指の先が、夕方の光を拾って妙に鋭かった。

 

「一、二、さ——」

 

 透は逃げ出した。

 

「三まで聞けっす!」

 

「三まで待ったら殴られるだろうが!」

 

「クソ耳のくせに判断だけ早いっすね!褒めてやるっす!!」

 

「褒めてねぇだろそれ!?」

 

 廊下を駆け出した瞬間、透は床にへばりついている古いワックスを見落として、思わず滑って転びかける。

 

「あっぶな!?」

 

「ちっ、止まれっす、ポンコツ先輩!」

 

「止まったら叩くだろうが!?」

 

「当たり前っす!」

 

「つか二回までは俺のせいじゃないだろうが!!?」

 

「問答無用っす!」

 

「会話になってねぇ!?」

 

 逃げ続けたが──いずれ、限界が来る。

 

「しまっ──!?」

 

 逃げた先には、壁があった。逃げ道は無く、詰みであった。透は逃げ道が無いとわかると、情けなく命乞いを始めた。

 

「ちょ、ストップ! 対話、対話させてくれ! 俺たちは人間だ、だからまず対話を──」

「あたしは三回、対話しようとしたっすよ?」

 

 徐々に、透に近づいてくるトバリ。やはり、目は笑っておらず、近づきながら素振りを何度かした。

 

 かばんのキーホルダー達もそれに合わせてじゃら、じゃらと鳴った。

 

 結局。彼女がはたして一体何を言おうとしていたのか、その日の透は分からなかった。代わりに、耳に赤い手形をこしらえて、彼は帰ることになったのだった。


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