ファントムコード 月下の迷子(カグヤ)   作:ふゆのねつ

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第0話:序章

 わたしは、なぜここにいるのだろう。

 

 意識が浮かび上がった瞬間、最初に感じたのは、冷たい床の硬さだった。

 

 次に、光。白く、人工的な蛍光灯の光が、瞼の裏を赤く染める。

 

 そして、音。規則正しい電子音。遠くで響く怒号。金属が擦れる不快な音。

 

 わたしは、誰だ。

 

 記憶を探ろうとすると、頭の奥に膨大なデータが流れ込んでくる。言語、知識、身体の構造、世界の成り立ち。だが、「自分」というものが、どこにも見当たらない。名前はある。カグヤ。誰かがそう呼んでいた。でも、それが「わたし」である理由が、わからない。

 頭の中がぐちゃぐちゃで何も考えられず、わたしは、駆けだした。

 

(助けて……誰か助けて……)

 

 暗い通路で何かにつまずいて、その場に倒れた。身体を起こそうとした瞬間、廊下の向こうから足音が迫ってきた。重く、規則正しい、金属の足音。

 

 ガードドロイドだ、とデータが教えてくれる。施設の警備システム。侵入者を排除するための兵器。

 そして、わたしは今、その「排除対象」らしかった。

 

 壁際に追い詰められ、逃げ場がなくなっていく。四体、五体……数えるたびに、わたしの胸の奥で何かが軋み始めた。恐怖、という感情をデータとして知っている。だが、今初めて、それが「痛い」ということを知った。

 

 死ぬのかもしれない。

 

 震えが止まらなかった。床に崩れ落ち、膝を抱える。ドロイドたちがまた迫ってくる音がする。もう、逃げる力も、戦う意志も残っていない。

 ただ、消えてしまいたかった。

 

 その時だった。

 

――――――――――――――――――――――――

 

 乾いた銃声が、通路を引き裂いた。

 

 タン、タン。

 

 ドロイドが二体、青白い火花を散らして崩れ落ちる。

 少女に襲い掛かろうとしたドロイドたちが後ろから現れた黒と赤の瞳を持つ男を「脅威」と認識した。

 

「――ターゲット変更。排除開始」

 

 男は、敵の挙動を見て、古流武術の構えをとった。

 

 ――心眼流

 それは、古の日本で生み出された、鎧を着た武者たちが、死線を生き抜くために生み出した、戦場格闘術。

 

 そして、いま、それはこの重火器全盛の時代。銃を懐刀に変え、古流の『理《ことわり》』と、近接戦闘術『CQC』と融合した。

 

その流派の名は――

 

 ――神代心眼流《かみしろしんがんりゅう》・銃術《ガン・ジュツ》

 

 

 男は、その場で一歩足を深く引き、身体を斜めに構えた。銃を両手で完全に包み込み、胸元、まさに己の顎の下へと限界まで深く引き込む。脇を締め、肘を鋭角に畳む。その瞬間、男の肉体は生身の人間から、精密無比な射撃機械へと変貌を遂げた。近代戦術『CARシステム』と古流の骨格構造の構え「山勢巌《さんせいがん》の構え」の融合。機械の計算限界を突き破るための、ゼロ距離の銃座だ。

 

 構えから膝を垂直に落とす。予備動作のまるでない「無拍子《むびょうし》」。残像すら残さないその歩法が、一瞬にしてドロイドの間合いを削り取る。

 

 本来、ドロイドは敵の「初動」を読み、あらゆる攻撃パターンを予測する。

 だが、この男の動きにはその「初動」が存在しない。予測演算が捉えるべき「起こり」を完全に消し去られたことで、AIの電子頭脳はコンマ数秒、致命的な硬直を起こした。

 

 男はその隙に肉薄し、装甲の継ぎ目に銃口を押し当ててダブルタップ。一発目の高圧徹甲弾が強固な外殻に亀裂を入れ、コンマ数秒後に追撃する二発目が、剥き出しになった電子頭脳《コア》と微細回路を確実に粉砕する。銃を鎧通しの短刀として使う、ゼロ距離射撃だ。

 

 火花を散らし頽れるドロイドを踏み越え、男は次の標的の死角へと滑り込む。神代心眼流《かみしろしんがんりゅう》・銃術《ガン・ジュツ》「レイヤー・コントロール」。四体の射線が一点に重なるポジションを瞬時に奪い、敵同士がフレンドリーファイアの危険を抱える位置へ誘導する。マシーンは攻撃コードの実行をコンマ数秒、強制停止せざるを得ない。

 

 やがて残る4体も鉄の塊となって、その場に頽れた。

 

 数百年前の戦場で生み出された古流武術が、最新鋭の殺戮兵器を、静かに、完璧に、翻弄していく。

 

 

――――――――――――――――――――――

 

 白煙が漂う通路の中、男はゆっくりと少女の前に膝をついた。

 

 そして、息を呑んだ。

 

 濡れた鴉の羽のように艶やかな、腰まで届く漆黒の髪。月の光を透かした真珠のように白く滑らかな肌。小柄な華奢な肢体は、今にも崩れてしまいそうなほどに線が細い。人工物であることを示す接続端子《ポート》の一つもないその身体は、神話から抜け出した幼い姫君のような、完成された「美」を湛えている。

 

 だが何より、男の目を奪ったのは、その瞳だ。

 吸い込まれるほどに深い黒。左右対称のその一対の黒曜石には、猛々しさは微塵もなく、ただ本物の人間以上に瑞々しい感情と、深い霧の中に迷い込んだ子供のような怯えだけが宿っている。

 

 この少女は、巨大企業の数千億ドルを動かす最新のプラットフォームなどではない。自分を「モノ」としてしか扱わない冷酷な世界の真ん中に、たった一人で放り出された、ただの孤独な迷子だ。

 

「……心配ない。もう、終わったよ」

 

 不器用だが、柔らかな笑みを浮かべながら。

 

 男はメディカルキットから応急テープを取り出すと、血で汚れるのも厭わず、少女の傷口に優しく貼り付けてやった。その無骨な指先に伝わる微かな鼓動と温もりが、男の胸の奥をチリチリと焼くように痛ませる。

 

「わたしは……わたしはカグヤ……」

 

 震える唇から漏れた声は、鈴の音のように清らかで、けれど消え入りそうなほどに細かった。冷え切った通路の空気に、そのか細いソプラノが切なく溶けていく。

 

「……俺は……アッシュだ。名前はない、ただのアッシュだ」

 

 

――――――――――――――――――――――――

 

 すべてを失い、幽霊(ファントム)となった男・アッシュ。

 魂の「コード」を持つ少女・カグヤ。

 

 たった一人の迷子が、たった一人の死神と出会った夜。

 

 二人の出会いが、この世界の理を、大きく書き換えていく。

 

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