ノックスの重厚なサイバネティクス・レンズが、静かにアッシュの横顔へと向けられた。
光学ズームの駆動音がかすかに響く、冷たい光彩を放つ人工の瞳。だが、その複雑な計算回路の奥底で、老兵は寒い病室で亡くなった、実の息子の面影を静かに重ね合わせていた。
(随分、若いな……生きていれば……こいつと同じくらいの年齢か。確かに、首の後ろに量子回路《クォンタム・サーキット》がないな……)
バックアップのない、失われればそれきりの裸の肉体。傷を負えば血が流れ、心臓と脳が止まれば完全に終わる。バックアップのないあまりにも儚い魂の危うさと、システムに依存しない気高さを見つめていたノックスの視線が、やがてアッシュが持つシグの手元へと落ちた。
「……ん?」
手元のシグに向けられた、無言の、しかし確かな重圧を孕んだ視線を察知し、アッシュが微かに首を傾げる。
「ん? ああ……すまない」
老兵は戦闘用の人工音声コードを和らげ、低く、ぽつりと言った。金属質な響きの中に、どこか人間臭い湿り気が混じる。
「その銃、ずいぶん懐かしいと思ってな。シグのコンシールドか。少し、拝ませてもらってもいいか?」
アッシュは一瞬だけ不審げに眉を寄せた。額に刻まれた皺が、彼の思考の警戒度を物語る。丸腰の状態で手の内を晒す行為は、バウンサーの生存戦略として愚策に他ならない。だが、老兵の眼の奥に宿る、真摯な光を見て、微かに口角を上げた。
「……いいよ」
アッシュから差し出されたシグを受け取り、ノックスはポリマーフレームの冷たい重みを、傷だらけの鋼鉄の掌で確かめる。プラスティックと金属が擦れ合う、硬質な音が静かに響いた。アッシュの体温を吸っていた銃身が、ノックスの義肢によって急速に冷やされていく。
ノックスは、スライドに刻まれた小さな刻印に目をやった。そこには『ミルトン武器工房製《Milton Weaponsmith》』の文字がある。電子制御のスマートガンが主流のこの時代、あえて100年も前のクラシックな実弾銃を使う酔狂なバウンサーは、この街広しといえど片手で数えるほどしかいない。そしてこの刻印は、これが当時作られた正規の骨董品ではなく、後世に作られた極めて精巧な「レプリカ」であることを示していた。
(第三次世界大戦前の、博物館級の代物だな。シグ・P365……。しかし、なんという狂気的なまでの再現度だ……)
ノックスは、ポリマーフレームの寸分狂わぬ成形技術から、この銃を組み上げた職人の並外れた執念を実感していた。
そして、その表面を無数に走る深い引っかき傷や摩耗の痕跡こそが、この男が潜り抜けてきた凄惨な戦歴を何よりも雄弁に物語っている。
「いい銃だ。……随分と地獄を連れ添ってきたようだな。……ほう、面白い。スライドの先端に反動軽減器《コンペンセイター》を噛ませてあるのか。ポートから噴き出すガスの排気圧を利用して、銃口の跳ね上がりを力ずくで抑え込む……。次弾への連射性能を限界まで引き上げるためのカスタムだな」
現在の兵士の多くは、過剰なサイバネティクスや義体化によって、関節フレームそのものが戦闘用に強化されている。したがって、どれほど銃の反動や威力が上がろうとも、強固な鋼鉄のフレームでマズルライズなど力ずくで抑え込めてしまうため、旧世紀の遺物であるガス圧制御の技術など、現代の戦場ではとうに駆逐され、重要視すらされていない。
「弾丸は通常の9mmパラベラムか?」
ノックスの重厚な光学レンズが細かく明滅し、鋭いスキャンをかけるように銃の細部を凝視する。いくら次弾への移行速度が高かろうと、旧世紀の9mmパラベラム弾の威力では、これから彼らの前に現れるであろう重装甲のサイボーグや自律戦闘マシーンたちと正面から戦うには、あまりにも心許ない。
アッシュはノックスの手元をじっと見据えたまま、感情の起伏を削ぎ落とした静かな声で応じた。
「いや、特殊仕様のAP弾(高圧徹甲弾)だ。近距離からであれば、サイボーグが纏う炭素繊維《カーボン》の隙間や、防弾装甲の合わせ目にも確実に穴をあけられる。その強引にあけた穴に、寸分の狂いもなく連弾をブチ込む。そうすれば、中身の電子脳や人工心臓まで確実に届く」
「なるほどな。確かに超至近距離でAP弾を的確に数発ブチ込まれれば、いかに鋼鉄の身体を持つサイボーグとて致命傷は免れん……か。つまりお前さんは、銃撃を組み込んだCQC(近接格闘)に特化した戦闘スタイルというわけだな……」
そこまで思考を巡らせた瞬間、ノックスの脳裏に冷たい疑念が鎌首をもたげた。
インプラントのサイバネティクスによる肉体改造も、戦闘アシストデバイスも一切持たぬ、バックアップすらない『ただの生身の人間』が、文字通り鋼の身体を持つサイボーグを相手に、ゼロ距離のCQCを挑む。
それは、勇敢を通り越して、狂気としか言いようのない自殺行為だった。
「……どうも」
プロからの確かな品定めをさらりと流し、アッシュは目を伏せて答えた。ノックスの鋼鉄の指からシグを受け戻す際、指先に触れたその感触が、アッシュの血の通った手のひらに奇妙な現実感を残していった。
「お前さんの情報はなぜか、ギルドのデータベース上でもほとんど空白だったんでな、アッシュ。お前のことは、ノーネーム(名無し)と呼んでもいいか」
その問いに、アッシュは内心で老兵への評価を一段階引き上げた。
金を積まれれば魂すら売り買いする荒くれ者たちが揃うこの境界線において、ノックスだけは確かな「言葉」が通じる男だった。戦場の本質を知り、企業の論理に呑まれず己を律する指揮官の風格が、その低く響く声には静かに宿っている。
傍らで苛立ちを隠そうともしないアブドゥルは、床を乱暴に踏み鳴らし、やはりただの『狂犬』に過ぎない。利害が一致するオーダーの間だけ、その首輪の鎖を繋いでおけば十分だった。
少し離れた場所では、ハッカーのクリフが依然として思考のログを読ませなかった。小柄で痩せた体躯をぶかぶかの防刃パーカーに包み、猫背のまま虚空のホログラムを叩いている。アッシュやアブドゥルのような大柄な男たちに囲まれるとその細い肩はいっそう際立って見えたが、激しく明滅するコンソールに追随する指先のキーイン・スピードだけは、確かに一級品のクラッカーのそれだった。
アッシュはノックスの機械の義手から視線を上げ、ふっと肩の力を抜いた。張り詰めていた背中の筋肉が、わずかに緩む。
「ああ。好きに呼んでくれていいよ……オヤジさん」
老兵は一瞬、厳格な目元をわずかに和らげて微笑を返したが、次の瞬間には百戦練磨の指揮官の顔へと戻り、低く通る声で号令をかけた。
「よし。これより作戦を開始する。オーダーは『Goddess Acquisition(女神の獲得)』――企業戦争《コーポレートウォー》の時間だ。目標はマディソンにあるニューリィライブのビル。行くぞ!」
ノックスの号令とともに、四つの影は音もなく動き出す。
部屋を満たしていた重油と冷たいオゾンの匂いが、彼らの移動に伴って一気に引き裂かれた。
大戦時の遺物が絶え間なく脈動し、リアルタイムでその構造を書き換え続ける鋼鉄の迷宮。換気ダクトから吹き出す凍りついた空気がアッシュの首筋を撫で、足元からは都市の底が放つ不穏な重低音が微かに骨へと響いてくる。その底の見えない闇の奥へと、猟犬たちは静かに吸い込まれていった。