ファントムコード 月下の迷子(カグヤ)   作:ふゆのねつ

16 / 24
第15話:女神の覚醒

 電磁隔壁が油圧の重々しい音を立てて左右に分かれると同時、クリフは飢えた猟犬のような異常な俊敏さでメインコンソールへと飛びついた。

 

 青白く光を放つホロ・ウィンドウを狂おしく掻き毟るように指先を走らせ、耳を疑うような、昏い妄執をぶつぶつと喉の奥から吐き出し始める。

 

「ボクはね、ずっとこの瞬間を夢に見ていたんだ。ハッカー仲間の掲示板でも自慢してやったよ。今からボクの『伴侶』を迎えに行くんだって……」

 

 その細い指先は、もはや論理を扱うハッカーのそれではない。禁忌の聖遺物に触れる狂信者のように、病的な陶酔によって不気味に痙攣している。

 

「さあ、いよいよだ……ボクの『女神』が目覚める。ボクだけの、イブの降臨だぞ!」

 

 異常なまでの熱に浮かされたクリフの背中に、アッシュは生理的な嫌悪感を覚えた。

 

 私情を排除した精密な『パーツ』だと思っていた男の内側に、これほど致命的な狂気の歪みが潜んでいようとは。アッシュは低く刃のような声を突き立てた。

 

「……おい。何を言っている。遊びは終わりだ、さっさとそのウェットウェアを回収してAIを消去しろ」

 

 アッシュの冷淡な制止を完全に無視し、クリフはショパンの狂気的な旋律を奏でるピアニストのように、虚空の仮想キーボードへ猛烈な速度で指を躍らせた。

 クリフの指先が、最終アクセスを告げるエンターキーへと滑った瞬間、真空カプセルの『蓋』が、内圧を排出しながらゆっくりと持ち上がった。

 

 アッシュがそのカプセルの中身を捉えた瞬間、彼の精密な戦闘思考が一瞬だけ停止した。

 

「……っ、なんだ……これは……!?」

 

 淡い青光を放つ培養液の中に静かに横たわっていたのは、メインフレームのデータではなく、精巧に造り込まれた有機ボディの素体だった。

 

 『棺』が開いて透明な液体が床へと激しく流れ出すと同時に、彼女の全身を覆う無数のナノマシン群が、まるで見えない意思を持っているかのように一斉に脈動を開始した。それは流動的な電子の波となって結晶化し、またたく間に一人の少女の形を肉付けしていく。

 

 カプセルの上に展開したホログラムウィンドウの警告文が、有機ボディの上で急激に織り成されていく『M-テクス(医療用ナノ繊維)』の同調シグナルを捉えていた。

 

 明滅する微細なマシーン群が、その滑らかな胸部と腰部を包み込むように、簡易的な医療衣を瞬時にして自動で紡ぎ出していく。

 

「ああ……素晴らしい……素晴らしすぎる! これはボクのモノだ! ボクだけの……『女神』だぁ!」

 

 クリフが実行した起動シーケンスに呼応し、カプセルの中の彼女はより鮮明に、より「人間」としての輪郭を帯びていく。

 漆黒の髪がさらさらと伸び、白い肌が生命の熱を帯びる。その外殻は、どこをどう観察しても、メカニカルな部品の継ぎ目は見当たらない。

 

 幼く見えるその肢体は、あまりに白く、そしてあまりに無防備だった。

 

 クリフが舌なめずりをしながら、その柔らかな髪に手を伸ばし指を這わせていく。玩具を愛でるような歪な手つき。アッシュはその手を力任せに掴んで制した。

 

「……おい。ミハエルの話と違うぞ。これは『脳』の奪取と『AI』の削除だったはずだ」

 

 アッシュの低い声が、冷気の立ち込める室内を静かに圧した。だが、手首を掴まれたままのクリフは、引きつったような哄笑《こうしょう》を上げた。

 

「……ククッ、何も知らされていなかったのは、キミだけみたいだね!」

 

 手首の痛みすら快楽であるかのように、ハッカーは歪んだ笑みを深めていく。その言葉が、アッシュの胸の奥に冷たい疑惑の楔《くさび》を打ち込んだ。

 

「そもそも、この場所を特定できたのはボクの力だけじゃない。……伝説のネットライナー、『アマテラス』。ヤツがダークネットの最深部に流した暗号断片《フラグメント》を、このボクが解析してやったのさ」

 

 その名を聞いた瞬間、アッシュの瞳が微かに揺れた。

 

 アマテラス。ネットの海に偏在し、国家機密すら遊び半分で公開する正体不明の怪物。

 

(アマテラスだと……? ()()()がわざわざ、こんな場所の情報を流したというのか)

 

 ――アマテラスが動くとき、そこには必ず、メガコーポのパワーバランスを完全に崩す火種が眠っている。それは、失楽園《エデン》にいた頃からアッシュが身を以て知る厳然たる事実だった。

 

「アマテラスはこう呼んでいたよ。これは『人類のバックアップ』ではなく、『神をハッキングするための端末』だってね! 企業の連中はそれをいろんなビジネスに流用しようとしたが、アマテラスはそれを嫌った。だからボクに『迎えに行け』とメッセージをくれたんだ……!」

 

「これは……人間じゃないのか……」

 

「アハハハハ! キミ、本気で言ってるのか? これだよ! これこそが、その『女神』なんだよ!」

 

 クリフの瞳には、嘲笑と陶酔がどろりとした澱《よど》みとなって混濁している。

 

「この有機ボディそのものが、バイオプロセッサとAIを完全統合した最新のプラットフォームなんだ。研究所の連中が神の領域を侵してまで造り上げた、これが『女神』の正体さ!……ハッカーの間じゃ、伝説の『眠り姫』ってわけだよ」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。