ファントムコード 月下の迷子(カグヤ)   作:ふゆのねつ

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第16話:疑念

 クリフの言葉が、アッシュの冷え切った脳髄を打つ。

 

 ノックスも、アブドゥルも、最初からこの「生きた荷物」の正体を理解していた。かつての親友であったミハエルにすら、自分だけが都合のいい使い捨ての『駒』として欺かれていたのだ。その事実が彼の理性を抉る。

 

(ミハエル……)

 

 アッシュが奥歯を噛み締めたその刹那、コンソールの全モニターが異常な閃光を放った。

 

 警告音すら消え失せた漆黒の画面。そこへ、血のような赤色で、意味を持たないはずの機械的な文字列が爆発的な速度で埋め尽くされていく。

 

『TS... TS... TS... TS... TS... TS... TS... TS...』

 

 規則的に、しかし狂気的な密度で増殖するエラーコード。それは、何かが目覚めるための、終わりの始まりを告げるバグのようだった。サーバーが悲鳴を上げ、冷却液の循環ポンプが異常な高音を立てて急停止する。

 

 アッシュの胸の奥を、鋭利なガラス破片で掻き回されるような痛みが走った。

 かつて「魂は自然に還る」と微笑んで逝ったサクヤ。その一方で、こうして「魂」を肉体という名の精密な檻に閉じ込め、再起動を待つ少女。

 

 アッシュは、喉の奥まで競り上がる情動を客観的な思考で押さえつけ、コンソールの光に照らされた目の前の個体を分析し始めた。ナノマシンが構築していく、皮膚などの見た目はどこをどうみても人間にしか見えない。

 

 皮膚も、骨格も、内臓も。ホログラムウィンドウが映し出すあらゆるデータが、これが人間以外の何かであることを否定し続けていた。

 アッシュは思考の中である単語を思い出す。

 

「これは……『バイオロイド』か」

 

 企業統治法により製造が厳格に禁じられた、医学的にも人間と完全に同等の有機生命体――『バイオロイド』。

 

 金属や電子回路といった工業パーツは一切使用されていない。ナノマシンを核として周囲のタンパク質を組織化し、遺伝子配列を極限までデザインされた「模造の肉」だ。それは、最先端の医学的解剖を以てしても、通常の人間との判別を不可能にする悪魔の工芸品である。

 

 静寂の中、少女を包む培養槽にシステムのアナウンスが響き渡る。

 

『――システムログ:有機合成プロセスを起動。』

『――全ナノマシン、タンパク質結合を開始。骨格を核として神経網の構築へ移行します。』

 

 かつて要人暗殺や電脳テロに悪用され、世界を震撼させた禁忌の技術。培養液の中で、蠢くナノマシンの群れが爆発的な速度で増殖し、赤く柔らかな肉体を編み上げていく。その深淵には、魂を統括するための量子脳と、人工知能の雛形が静かにその起動を待っていた。

 

『――心拍数、安定。肺内への酸素循環を開始。生体機能、完全同期まで残り……三、二、一』

 

 少女の胸元が、機械仕掛けではない、あまりに自然なリズムで大きく上下した。

 彼女は、呼吸を開始した。

 

「……ミハエル……お前、一体、何を企んでいるんだ」

 

 アッシュの低い呟きは、モニターが放つ不自然な残光の中に吸い込まれていった。

 画面を埋め尽くす『TS』の不穏な連なり。点滅の速度はさらに加速し、文字の輪郭が滲んでいく。

 

 そのエラーコードの明滅のリズムは、まるで「助けて」と泣き叫ぶ誰かの心拍数のようであり、同時に、何かの名前を狂ったように呼び続けている恫哭のようにも見えた。

 

 培養槽の底でうごめく微細ナノマシンは、少女という名の最新鋭のハードウェアを、細胞レベルから編み上げていく。この少女に宿る「魂のコード」はいったい何なのか?あるいは「魂」そのものすら、企業が巨額の資本を投じて作り上げた、精巧な偽造品《イミテーション》なのか。

 

「アハハハ! 見ろよ、アッシュ! 彼女が息を始めた! 伝説の『眠り姫』が、ボクの手で目覚めるんだ!」

 

 クリフの指先が、もはや愛撫するようにホログラムの仮想キーを滑っていった。彼の人工眼球《サイバーアイ》のフォーカスリングが高速で収縮を繰り返し、レンズの奥で青白い走査線が狂ったように踊っている。網膜経由で脳殻に直接流れ込む膨大な起動データに、彼の電脳はすでに焼き切れかけていた。

 

 アッシュは、無意識のうちに右手を背後のシグのホルスターへと伸ばしていた。

 この忌まわしいバイオロイドを、今ここで「破壊」するべきか。しかし、目の前で生まれつつある物は、あまりにも無垢で、その柔らかな輪郭は引き金を引くことを罪悪と錯覚させるほどに「少女」の形にしか見えない。

 

 今ここで、引き金を引けば、ミハエルからのオーダーも失敗で終わる。そして、眼の前の生まれつつある、少女は二度と起動することはなく死ぬ。不意にフラッシュバックするサクヤの死。血の海のなかで冷たくなっていった彼女の残像。その忌まわしい過去の記憶が、アッシュの右手にわずかな躊躇《ためら》いを生む。

 

(ノックスも……アブドゥルも、これを知っていたのか……なぜ、俺にだけこの情報を伏せたんだ、ミハエル)

 

 暗い疑念が胸の奥でとぐろを巻く。親友に背中から撃たれたような鈍い痛みが、彼の五感を支配していた。

 その時、モニターの『TS』の点滅が最高潮に達し、室内の照明が一斉に赤く染まった。

 

 非常用のレッドアラートが視界を血の色に染め上げ、データの逆流によってコンソールから激しい火花が上がる。

 

『System Recovery: 99%... High Network Load.Wetware Prototype Unit 1 ”HIMIKO” & Unit 2 ”IYO” are already Active.

Awakening Wetware Prototype, Unit 3 "KAGUYA" Module...』

(システム修復99%… 1番基「ヒミコ」、2番基「イヨ」は正常に稼働中。ウェットウェア・プロトタイプ3番基 "カグヤ" 覚醒中…)

 

 カプセルの中で、少女の長い睫毛が微かに震えた。

 その瞬間、アッシュの目の前の空間が淡く発光し、ホログラムが立体的に立ち上がった。

 アッシュの眼の前で幾重もの光の幾何学模様が、現実の空間を浸食していく。

 

 

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