少女は休む間もなく、重力を無視したような不自然な跳躍でアッシュへと躍りかかった。有機ナノマシンによりただの肉組織で作られたはずの細い肢体が、物理法則の限界を歪めるかのような超高速の軌道を描く。
(速い……、いや、挙動が読めない!)
アッシュは反射的に「心眼流」の受けの型を取る。だが、彼女の拳が触れた瞬間、防御に回した鋼鉄のリストバンドが不快な金属音を立てて悲鳴を上げた。鈍い衝撃波がリストバンドを通じて前腕の骨へと突き抜ける。
それは筋肉が生み出す力ではない。全身を構成するナノマシンが一斉に励起《れいき》し、細胞の密度そのものを一瞬で爆発させているのだ。
捌こうにも、相手には『重心』がない。柳の如く流れるような動きで衝撃を受け流そうとしたアッシュの右腕が、肉眼では捉えきれない高周波の微振動によって、骨ごと粉砕されそうな衝撃とともに無理やり弾き飛ばされた。ガードを抉り開けられ、アッシュの胸元が無防備に晒される。
ナノマシンによる超高速の姿勢制御が、人間にはありえない角度と軌道からの連続打撃を可能にしている。アッシュがこれまで積み上げてきた『武の理《ことわり》』が、圧倒的な『演算という名の暴力』の前に容赦なく粉砕されていく。次々と繰り出される容赦のない拳の嵐が、アッシュをじわじわと追い詰めていった。
アッシュは寸前のところで体勢を整え、身体の重心を地面へと同期させるべく深く沈み足を踏み込んだ。床のコンクリートにひび割れが走り、硬い火花が散る。絶対的な足場を確立し、地球そのものへ衝撃を受け流すことで、少女が放つ質量兵器のような猛攻をようやく捉え始めていた。
そこから反撃の『爆脚《ばっきゃく》』を爆発させようとした――その瞬間だった。
少女の唇がかすかに戦慄《わなな》き、声にならない悲痛な掠れ声が漏れ出す。
「……タスケテ」
「なっ!?」
あまりにも予想外なその響きに、アッシュの脳裏に激震が走り、踏み出そうとした足が完全に凍りつく。プロとしてあってはならない、一瞬の硬直。引き金を引くような決断の瞬間に生じた刹那の空白。
その致命的な隙へ、少女の追撃が叩き込まれる。
ついに、少女の冷たい指先がアッシュの喉笛を完全に捉えていた。
「ぐっ……!」
万力のような剛力が、アッシュの喉仏を圧し折らんばかりに締め付け、呼吸を圧迫していく。頸動脈が圧迫され、視界が急速に狭まっていく。肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、脳が急速にブラックアウトへと向かっていく。薄れゆく意識。
サクヤを失ったあの日と同じ、逃れようのない「死」の予感。すべてが漆黒に染まりゆく冷酷な世界の記憶。
だが、その絶望の淵で、彼女の手の動きが静止した。
彼女の瞳が、アッシュの身体から滲み出る緑の光――量子魂を捉えた。やがて彼女のバイオ脳がアッシュの量子魂とリンクすることで、一瞬だが、彼の過去、サクヤの幻影、傷つき壊れかけている魂の断片をとらえる。そして、彼女の脳内でも、自分が生まれる前の、あの、慈しみにあふれた過去の映像が一瞬だけフラッシュバックする。彼女の頬を流れる、一筋の涙。
「アア……テル……ヒコ……タスケテ……」
それは、合成された電子音声《ボイス》ではない。
震える肺から、本物の空気を震わせて絞り出された、あまりに悲痛な「祈り」だった。
「やめ……ろ……」
アッシュのその言葉に、少女の動きが凍りついた。
今、目の前にいる男の緑の量子が空気中に溶けるように消え始めている。彼女は彼の命を自らの手で、消そうとしている。不意の「セキュリティ・プログラム」を彼女は必至に抑え始めた。この暴走を止めなければ、目の前にある、壊れかけの魂を自分が消してしまう。
彼女の空ろな瞳の奥底に、一瞬だけ生きた人間の光が走り、喉を締め付けていた異常な圧力が不自然に緩む。
アッシュが床に転がり落ち、激しく咳き込みながら酸素を求める隙に、彼女は取り憑かれた獣のような速度で闇の向こうへと逃走した。バタバタと床を蹴る歪な足音が、研究室の通路の奥へと遠ざかっていく。
「……どういうことだ、クリフ」
アッシュは喉に刻まれた激しい痛みをこらえ、倒れ伏すクリフの襟を乱暴に掴み上げた。呼吸が戻るにつれて、締め付けられた首筋に焼き付くような痛熱さが広がっていく。
「……はぁ, はぁ……分からない。セキュリティが……暴走したのか? 彼女の中に眠る『何か』が、システムを拒絶したんだ……」
クリフの小柄な体が苦しげに悶える。アッシュはクリフが命に別条はないことを確信し、告げる。
「俺は彼女を追う。お前はノックスとアブドゥルに連絡しろ」
少女の残像が焼き付いた闇の奥へ、アッシュは弾かれたように踵を返した。研究室の壊れた天井から滴る冷却液が、床に落ちて冷たい音を立てている。その雫が床の血液やオイルの混ざり合った水たまりに波紋を広げていた。
(これが、バイオロイドか……)
喉に残る万力の痛みが、生物の常識を塗り替える圧倒的な暴力の質量を物語っていた。人間の皮膚越しに、未だに彼女の指先の凍るような冷たさが残っている。
だが、あの嵐のような猛攻のなか、一瞬だけ重なった彼女の視線が頭から離れない。
プログラムされた冷酷な殺意ではない。そこにあったのは、声にならない悲鳴と、泥を啜るような悲痛な――『人間』の叫びだった。それは西園寺の遺言動画が残した、魂のバグという不吉な言葉と重なり合う。
「クソッ……!」
割り切れない感情を無理やり押し殺すように己を叱咤し、アッシュはさらに足を加速させた。
少女の残像が消えた暗闇の奥へと、グレイアッシュの影が激しく溶けていく。