深い闇の底から、彼女の声だけが手繰り寄せられる。
『アッシュ……アッシュ……』
夢の中のサクヤ=カミシロは、いつも陽だまりのような微笑みを浮かべていた。
アッシュの記憶の中の彼女は、どこまでも快晴の空のような明るさを纏っている。
ボリュームのある黒髪を潔く切り揃えたショートカット。知的な印象を与える伊達メガネの奥で、その黒い瞳はいつも、アッシュの心の深淵に巣食う「怯え」を正確に見抜いていた。
『アッシュ、またそんな顔してる。大丈夫、わたしがそばにいるって言ったでしょ?』
大きな掌で簡単に包めてしまいそうな、華奢な肩。だが、その身体には、神代心眼流を修めた者特有の、研ぎ澄まされた「芯」が通っていた。稽古場で向かい合うたび、アッシュはその圧倒的なまでの「武の才能」に戦慄した。彼女の動きには迷いがなく、ただひたすらに清らかで、速い。
サクヤがその拳を振るうのは、誰かを殺めるためではない。その身に宿した「力」は弱きを助けるためのものであると、彼女だけが純粋に信じ続けていた。
『弱きを助け、強きを挫く。これこそが神代心眼流のあるべき姿なんだよ! だからアッシュも 困っている人がいたら助けてあげること! わかった?』
その言葉に、アッシュは苦笑した。
このメガコーポというシステムに支配された、血と硝煙に塗れた世界で「弱きを助ける」など、自らの命を削る行為に他ならない。最下層の深淵を歩くアッシュにとって、サクヤの説く正義は綺麗ごとを通り越し、もはや呪いにも似た絶望だった。
だが、サクヤの瞳の奥に宿る真っ直ぐな光を見ていると、彼女なら本当に世界を変えてしまうのかもしれない――アッシュは、そんな風に思わずにはいられなかった。
幼い時から泥と血の匂いしか知らないアッシュにとって、彼女が向けてくれる言葉と、メガネを外した時に見せる柔らかな微笑みは、この世で唯一の救いだった。彼女の指先や頬にそっと触れるたび、アッシュは自分が獣ではなく、彼女に愛される権利を持つ「人間」であることを思い出すことができた。
だが、そんな彼女は死んだ。
暗い雨の中、駆けだした彼女はアッシュを助けるため、凶弾に倒れた。雨がサクヤの血で赤く濁っていく。アッシュの手の中で、彼女の体温と色が少しずつ消えていく。
「わたしの魂は自然に還るだけだよ……。だから悲しまないで、アッシュ。わたしは、あなたの心の中で……」
伸ばした指先が、彼女の頬に触れる直前で霧のように散る。
もうあの凛とした美しい身体にも、そしてあの清らかな心にも触れることはできない。
抗いようのない喪失感と虚無。かつて暮らした失楽園を逃げるように離れた今、彼の傷ついた心の空洞は、さらに大きく深まるばかりだった。
夢が覚める。現実の冷たい空気が、アッシュを容赦なく引き戻した。