ファントムコード 月下の迷子(カグヤ)   作:ふゆのねつ

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第1話:魂(こころ)の傷

 深い闇の底から、彼女の声だけが手繰り寄せられる。

 

『アッシュ……アッシュ……』

 

 夢の中のサクヤ=カミシロは、いつも陽だまりのような微笑みを浮かべていた。

 アッシュの記憶の中の彼女は、どこまでも快晴の空のような明るさを纏っている。

 

 ボリュームのある黒髪を潔く切り揃えたショートカット。知的な印象を与える伊達メガネの奥で、その黒い瞳はいつも、アッシュの心の深淵に巣食う「怯え」を正確に見抜いていた。

 

『アッシュ、またそんな顔してる。大丈夫、わたしがそばにいるって言ったでしょ?』

 

 大きな掌で簡単に包めてしまいそうな、華奢な肩。だが、その身体には、神代心眼流を修めた者特有の、研ぎ澄まされた「芯」が通っていた。稽古場で向かい合うたび、アッシュはその圧倒的なまでの「武の才能」に戦慄した。彼女の動きには迷いがなく、ただひたすらに清らかで、速い。

 

 サクヤがその拳を振るうのは、誰かを殺めるためではない。その身に宿した「力」は弱きを助けるためのものであると、彼女だけが純粋に信じ続けていた。

 

『弱きを助け、強きを挫く。これこそが神代心眼流のあるべき姿なんだよ! だからアッシュも 困っている人がいたら助けてあげること! わかった?』

 

 その言葉に、アッシュは苦笑した。

 

 このメガコーポというシステムに支配された、血と硝煙に塗れた世界で「弱きを助ける」など、自らの命を削る行為に他ならない。最下層の深淵を歩くアッシュにとって、サクヤの説く正義は綺麗ごとを通り越し、もはや呪いにも似た絶望だった。

 

 だが、サクヤの瞳の奥に宿る真っ直ぐな光を見ていると、彼女なら本当に世界を変えてしまうのかもしれない――アッシュは、そんな風に思わずにはいられなかった。

 

 幼い時から泥と血の匂いしか知らないアッシュにとって、彼女が向けてくれる言葉と、メガネを外した時に見せる柔らかな微笑みは、この世で唯一の救いだった。彼女の指先や頬にそっと触れるたび、アッシュは自分が獣ではなく、彼女に愛される権利を持つ「人間」であることを思い出すことができた。

 

 だが、そんな彼女は死んだ。

 暗い雨の中、駆けだした彼女はアッシュを助けるため、凶弾に倒れた。雨がサクヤの血で赤く濁っていく。アッシュの手の中で、彼女の体温と色が少しずつ消えていく。

 

「わたしの魂は自然に還るだけだよ……。だから悲しまないで、アッシュ。わたしは、あなたの心の中で……」

 

 伸ばした指先が、彼女の頬に触れる直前で霧のように散る。

 もうあの凛とした美しい身体にも、そしてあの清らかな心にも触れることはできない。

 抗いようのない喪失感と虚無。かつて暮らした失楽園を逃げるように離れた今、彼の傷ついた心の空洞は、さらに大きく深まるばかりだった。

 

 夢が覚める。現実の冷たい空気が、アッシュを容赦なく引き戻した。

 

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