研究施設の通路は、どこまでも冷たい結露に覆われていた。湿った空気が肺の奥まで侵入し、鉄錆の臭いを運び込む。床には激戦の爪痕が散乱していた。半ば潰れたドローンや、関節を逆向きに折られた四脚機体が無残に折り重なり、金属の死骸がノックスたちの行く手を阻むように積み上がっていた。
暗闇を微かに切り裂くのは、ノックスの重装甲から放たれる緑色のステータスランプと、アブドゥルが背負うショットガンの電磁コイルが発する不穏なハミングだけだ。
ノックスの手元で、突如として通信回線が激しく明滅した。
「ノ、ノックス……」
「どうしたクリフ。……『女神』は確保したのか?」
通信越しに響くノックスの低い声は、幾多の地獄を潜り抜けた老兵特有の、感情を一切排した鋭さを帯びていた。だが、スピーカーから返ってきたクリフの声は、先ほどまでの天才特有の陶酔が嘘のようにガタガタと震えている。細い喉を必死に震わせ、恐怖を隠そうともしないその響きは、小柄な彼が今どれほど絶望的なパニックに陥っているかを物語っていた。その小刻みな息遣いまでが、ノックスの集音プロセッサを通じて生々しく拾い上げられる。
「……も……問題が発生した。彼女のセキュリティが強制起動したんだ。……そのまま逃走。今は『Bランクさん』が彼女を追っている」
「チッ……ドジを踏んだか!」
ノックスのすぐ隣で、アブドゥルが苛立ちを隠そうともせず短く舌打ちした。
「ボクのプログラムは完璧だったはずだ! 彼女の中に、ボクたちの知らない『何か』が……!」
「言い訳は後でいい。プランBに変更だ。……了解《コピー》か」
「……了解《コピー》」
電波を遮断するように無線を切ったノックスは、傍らに立つアブドゥルへと鋭い視線を向けた。手元で無骨なショットガンを無造作に弄ぶその大男は、相変わらず何を考えているのか読めない、底知れない薄笑いをその面に浮かべている。
「通信は聞いていたな、行くぞ、アブドゥル。獲物を追い詰める」
だが、アブドゥルは動かない。
重厚な防弾ベストに包まれたその強固な身体は、まるで闇の中に深く根を張った大木のように、静止していた。周囲の冷え切った空気が、彼の放つ獣のような歪な殺気によって一瞬で重く歪む。
「……どうした?」
ノックスが不審げに問いかけた、その刹那。
「……悪いな、親父」
衝撃は、痛みよりも先に、魂まで凍りつくようなぞっとする「寒さ」としてやってきた。
ドン、という肉と金属が激突する重い音と共に、ノックスの強固な重装甲の胸躯を、アブドゥルの太い腕がまるで脆弱な紙細工のように容易く貫いていた。
あらゆる防御を無意味にする、剥き出しの圧倒的な怪力。
胸の奥深くへ埋め込まれた腕が容赦なく引き抜かれると、その大穴から、黒い潤滑オイルと生体液の混ざり合った生温かい熱が、ノックスの薄れゆく意識と一緒に一気に溢れ出していく。鉄錆びた特有の臭いが、肺の奥から喉元へと逆流した。
「あ……が…………」
膝から崩れ落ちる視界の中、コンクリートの冷たさが頬に触れる。床に広がった自身の生体液のぬるい熱が、急速に地下の冷気に奪われていく。
一体、何度死んだだろうか。意識が途切れるたび、脳裏には死んだ息子ユアンの記憶が強制的に呼び戻される。それは死の間際に必ず突きつけられる、彼にとっての古傷から血を流し続けるような贖罪の儀式だった。
(すまない……ユアン……)
薄れゆく意識の底で蘇る回想の中の息子――不治の病に侵されていたユアンは、白く眩い病室のベッドの上で、枯れ枝のような腕を頼りなく伸ばしていた。
魂をデータ化して保存し、適合する新しい器を待つ。その最先端の救命医療を施すために必要なクレジットは、故郷を捨て、世界の底で泥を啜る老兵が一生をかけても届かない、天文学的な高さの壁だった。
企業の重役たちがワインを傾ける手軽さで「永遠の命」を買い占めるこの街で、ノックスの息子は、ただクレジットの桁が足りないというそれだけの理由で、電子の海にセーブされることもなく、無へと消え去っていく。
『……父さん……父さん……さ……ん…………』
心電図の単調なアラームが鳴り響く中、震える声で何かを問いかけるユアンに、当時のノックスは何も答えられなかった。差し伸べられたその細く冷え切った手を、握り返すことすらできなかった。ノックスの頑強な義手が、息子の弱々しい指先を潰してしまいそうで、ただ立ち尽くすことしかできなかったのだ。
結局、ユアンはシステムにその存在を記録されることすらなく、ただの肉の塊として静かに朽ちていった。命にすら理不尽な価格《プライス》がつけられたこの世界で、父親である自分は、息子をただの数字の藻屑《もくず》にしてしまったのだ。
死の間際、脳裏にアッシュの腕の感触が蘇る。
(……せめて、お前のような……若者を…………)
ノックスの脳裏に、アッシュの顔が浮かぶ。
量子回路を持たず、一度きりの命を懸けて戦うあの青年に、救えなかった息子の面影を重ねていた。
(ノーネーム。お前だけは、こんな腐った企業の思惑に飲まれて死ぬな――)
心音のような駆動音が、唐突に途切れる。
ハイランドの眩い幻影は、ニューリィライブの冷たい闇の中へと、静かに溶けて消えていった。
アブドゥルは血とオイルに塗れた己の右腕を、陶酔するように眺めた。
「プラン変更だ、ノックス。……俺は、俺のやり方でやらせてもらう」