ノックスの瞳から生気が失われ、その焦点が永遠の闇へと固定された直後。肉体の深淵から、淡く発光するエメラルドグリーンの粒子が、まるで霧散する魂の残滓のように溢れ出した。冷たい地下通路の暗闇の中で、それは幽かに、しかし鮮烈に揺らめいている。
それは紛れもない『量子魂《クォンタム・ソウル》』――サーバーに眠るバックアップ・データへと回帰するための、彼という存在の座標データだった。
帰還のプロセスは既に開始されていた。この世界の理《ことわり》において、死はもはや終わりではない。電子の海に還り、再び肉体という名の殻を纏うための、ごくありふれた日常の一部に過ぎないはずだった。だが、アブドゥルは動かなかった
アブドゥルは、ノックスの首元で鈍く光る「量子メモリーキー」のドックタグを、獣のような嗅覚で嗅ぎつけ、力任せに引きちぎる。チェーンが千切れる硬質な音が、静寂に冷たく響いた。彼はそのキーを、死した老兵の頸椎付近、量子回路(クオンタム・サーキット)が埋め込まれた箇所に、容赦なく突き立てた。
「……逃さねえよ」
その声には慈悲も、戦士への敬意もない。ただ、獲物を確実に仕留めるためだけの、冷酷な響きがあった。
宙を漂うノックスの魂――淡い緑色の輝きは、霧のように美しく、そしてあまりに儚かった。それはサーバーへと吸い上げられる直前の、自由な電子の奔流だ。だが、転送の光となって消える寸前、量子メモリーキーが放つ呪わしい励起光が、逃げ場を失ったノックスの『量子魂』を空間ごと強引に引きずり戻す。キーの内部チップが膨大なデータ流入に悲鳴を上げ、過負荷による熱を帯びる。チリチリと空気を焦がす微弱な放電の音が、闇の中で祝祭のように弾けた。
――ガクガクと、物言わぬ骸がグロテスクに震えた。
肉体は死後硬直を迎えつつあるはずだった。しかし、サイバネの末梢回路に残存していた電流が、チップへと強制転送される際の超高電圧の電流に反応し、老兵の残骸をビクリと跳ねさせたのだ。首裏の金属端子が、過電流に耐えかねて軋む嫌な音を立てる。ノックスの指先は、誰に届ける当てもなく虚空を掻きむしり、やがて力なく弛緩していった。かつて数多の修羅場を潜り抜けたその手は、二度と引き金を引くことはない。
アブドゥルは、魂のデータが圧縮・封入されたその銀色のチップを、戦利品を愛でるように口元へ運ぶ。冷徹な金属片を口腔の粘膜で舌の上で弄ぶその姿は、おぞましい獣の食事そのものだった。
やがて、迷うことなく、彼はそれを飲み下した。 グビッ、という、生々しい湿った音。
瞬間、アブドゥルの喉元から悍ましい「赤」が血管を浮き上がらせるようにして滲み出した。
取り込まれたノックスの魂が、胃袋を通ることもなく、アブドゥルの食道直下にあるナノマシン群によって強引に分解《デコンパイル》されていく。それは消化ではない。情報の解体だ。ノックスが積み上げてきた経験、戦場での記憶、そして最期に見た息子の面影までが、純粋な「エネルギー」として再構築され、彼の肉体へと還元されていく。首筋の皮膚が、引き千切れんばかりに脈動し、異質な熱量が彼の喉の肉を内側から灼き尽くしていく。
血管を駆け巡る赤い光は、死者の悲鳴を運ぶ濁流のように脈打ち、アブドゥルの筋肉を異常に膨張させた。バキバキと繊維が引き千切れ、より太く、強固にアップデートされていく人工筋肉の駆動音が、静まり返った通路に嫌な金属音を響かせる。服の隙間から覗く皮膚は限界まで突っ張り、異常な密度の質量を湛えていた。それは人体の許容量を超越した、暴力的な進化の光景だった。
「……ハハッ! 美味《うま》いぜ、親父……。長年生きてきただけあって、情報の『脂』が乗ってやがる!」
他者の生を奪い、自らのスペックを上書きする禁忌――。 それこそが、この男の正体。
――――「規格外生体兵器 魂食い(ソウルイーター)」。
ミハエルがアッシュに隠していた「本当の地獄」は、女神の覚醒という未来だけではない。 このチームの内部に、最初から底なしの怪物「ソウルイーター」を飼っていたという事実こそが、破滅の種だった。――だが、迷宮の奥で女神の影を追うアッシュは、背後に迫るその最悪の牙に、まだ気づいていなかった。
「フハハハハハ!これで一人始末した。親父……もうセーブポイントから復活もできねぇなぁ!」
この世界の『死者の復活』とは、サーバーに眠る静止した過去のデータと、肉体の中で脈動し続ける現在の記憶を、差分という名の旋律で調和《マージ》させる繊細な調律作業の上に成り立っている。
だが、ソウルイーターはその『現在《いま》』を根こそぎ喰らう。 調律のための糸を永久に失った魂は、二度と完全な状態で現世に形を成すことはない。サイオリンクによって与えられたはずの『やり直す権利』そのものが、アブドゥルの漆黒の顎《あぎと》によって、世界の理《ことわり》ごと不完全に砕かれた瞬間だった。
呼吸を止め、完全な電子の抜け殻と化した老兵の残骸だけが、日の当たらない鉄の床の上で、静かに冷え切っていった。血の通わない鋼鉄と、もはや魂というOSを失った硬化した肉組織とカーボン繊維の塊は、二度と起動することのない、ただの哀れな廃棄物へと成り下がっている。
「じゃあな、オヤジ」
アブドゥルは、膨張した人工筋肉の太い腕を滑らかに動かし、背負っていたベネリM4を引き抜いた。その分厚い指先が、薬室へ特殊な分子振動弾――通称「ハミング・バード」を装填する。金属の擦れ合う硬い音が、地下通路に冷酷に響き渡った。 躊躇《ちゅうちょ》なくノックスの亡骸《なきがら》へと銃口を向け、容赦なくその引き金を撃ち放つ。
「証拠は消しておかねぇとな」
轟音と共に放たれた高周波の衝撃。それに触れた瞬間、分子結合を完全に失ったノックスの身体は、音もなく崩壊し、サラサラとした灰色の砂へと姿を変えて床へと崩れ落ち、虚空に消え去った。立ち上った一筋の微細な塵が、冷たい換気ダクトの風に煽られて闇の奥へと吸い込まれていく。そこには、老兵が確かに生きていたという痕跡すら、何一つとして残されてはいなかった。彼の魂は食われ、肉体は塵と化し、この世界からノックスという個人は、文字通り完全に「抹消」されたのだ。
「まずは一人目だ」