ファントムコード 月下の迷子(カグヤ)   作:ふゆのねつ

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第21話:死の不協和音

「……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうッ!」

 

 ノックスからのプラン変更指示が出された後も、クリフはメインコンソールにしがみついていた。

 小柄で痩せた体躯を極限まで丸め、震える指先がホログラムの仮想キーを狂ったように叩き、おぞましい速度でコードの羅列を流し込んでいく。

 

 彼にとって、任務の報酬も企業の思惑も、もはやどうでもよかった。

 

 目的はただ一つ。あの「女神のデータの残骸」を奪取し、自分だけの、個人的な伴侶《パートナー》へと作り変えること。失われた有機ボディなど、後でいくらでも別の器で再構築できる。だが、あの伝説的な「女神」のコアデータだけは、今この瞬間に手に入れなければならない。

 

 クリフはぶかぶかの防刃パーカーの懐から、鈍い銀光を放つ予備の量子メモリーキーを取り出した。

 

 本来は死んだバウンサーの魂を回収するためのデバイス。それを、彼は取り憑かれたような手つきでコンソールへ突き刺し、女神のデータの残り香と、断片化された機密データをその小さなチップへと強引に流し込み始めた。接続端子が噛み合う硬質なカチリという音が、焦燥を駆り立てる。

 

「……あともう少し。あと少しで、キミは僕のものだ……」

 

 その時、静寂を切り裂くように、背後の自動ドアが駆動音を立てて滑らかに開いた。狭い室内の空気が、重く不快な気配とともに入れ替わる。

 

「——誰だッ!」

 

 クリフはやせ細った身体をバネのようにし、椅子から飛び上がるようにして、震える手で護身用の銃を背後へと構えた。だが、逆光のなかに立ち塞がる巨大な影の正体を認めた瞬間、その張り詰めた顔に目に見えて安堵の色を浮かべる。銃口を支える細い手首の震えが、ようやく少しだけ収まった。

 

「な、なんだ……アンタか。驚かせるなよ、アブドゥル」

 

 クリフは、自分が企業を裏切って禁忌の「中抜き」を行っているホロ・ウィンドウを慌てて非表示にしながら、動揺を悟られまいと神経質な視線を泳がせた。

 

「ア、アッシュなら……あの『女神』を追っていった。あっちの通路だ。ボ、ボクも……このデータの整理が終わったら……すぐに行くよ」

 

「……その必要はない」

 

 アブドゥルが、重い金属音を立てて床を一歩踏み出す。その全身にべっとりと付着したオイルと血がまざった赤黒いシミと、狂気にギラつくその相貌を目にした時、クリフの鼻腔を濃厚な鉄錆びの臭いが突き刺した。脳裏に最悪の直感が走り、ようやく「決定的な異変」を察知する。

 

「え……? アンタ、その返り血……まさか、ノックスを……」

 

 ノックスを喰らい、人工筋肉を異常膨張させたアブドゥルの巨躯は、以前よりもさらに強固な威圧感を放っていた。圧倒的な質量が、逃げ場のないコントロールルームの壁際へとクリフをじりじりと追い詰め、その視界のすべてを圧倒的な絶望で覆い尽くしていく。

 

「や、やめろ……やめてくれ! 来るな、来るなあああッ!」

 

 絶叫は、鈍い、「グシャッ!」という肉の潰れるような音にかき消された。

 アブドゥルはクリフの細い首を無造作に掴み上げると、まるで枯れ枝でも折るかのような軽さでその頚椎を粉砕した。ボキリ、という湿った硬質な音が狭い部屋に響き渡る。

 事切れたクリフの身体が、床に力なく放り捨てられた。ぶかぶかのパーカーが床のオイルを吸い、歪な形に広がっていく。

 直後、先ほどのノックスと同じように、肉体から溢れ出た緑色の量子が空中を彷徨い始めた。セーブポイントへの帰還を試みる魂の輝き。

 

 アブドゥルはクリフの首の量子メモリーキーを引きちぎると、死体の首裏の量子回路《クオンタム・サーキット》に突き立てた。

 逃げ場を失った緑の量子が、キーの深淵へと吸い込まれていく。

 

「……つかまえたぁ……フフフ……ハハハハハ!」

 

 クリフの絶叫が染み付いた空気の中で、アブドゥルはクリフの魂が詰まった銀色のチップを口腔へと放り込み、奥歯で獣のように噛み砕いた。

 

バリリッ!!

 

 鼓膜を劈《つんざ》く不快な破砕音。それは、クリフという人間が積み上げてきた全人生――その記憶も、執着も、傲慢な知性も――が、ただの「壊れたデータ」へと成り果てた音だった。周囲のコンソールウィンドウが連動するように激しい砂嵐を映し出し、電気的な過負荷の火花がチリチリと空中で弾ける。

 

 噛み砕かれた破片から溢れ出す、どす黒い赤の光。それがアブドゥルの口腔から全身へと駆け巡るたび、彼の筋肉は繊維一本単位で異常な膨張を繰り返し、皮膚の下を這う血管は、まるで生き物のように歪に蠢く。

 

 二人のバウンサーの魂のコードを喰らったその肉体は、もはや生物学的・物理的な限界を超えた、「歩く禁忌」そのものと化していた。呼吸を繰り返すたびに、彼の首筋からはナノマシンの暴走による歪な高熱が陽炎のように立ち上り、周囲のオゾンの匂いを一気に焦がしていく。

 

「……ハァ、ハァ……。満たされるぜ、力が……!」

 

 ベネリM4の薬室に、先ほどと同じ『ハミング・バード』を再装填する。硬質な金属音が地下通路に響く。

 

 アブドゥルは迷いなく引き金を絞った。

 ノックスを砂の塵へと変えた分子振動弾。だが、クリフに対して放たれたそれは、先ほどとは全く異なる結末を引き起こした。

 

 ノックスのような重度な義体《サイボーグ》であれば分子結合を崩壊させ、灰へと還す。しかし、クリフの義体化率はわずか20%程度。彼の身体の大部分は、脆く、柔らかい有機的な肉組織だった。

 振動弾がその身を穿った瞬間、肉体は崩壊を通り越し、凄惨なまでに爆ぜた。

 

 アブドゥルは血に濡れた指先を伸ばし、メインコンソールに刺ささったままになっていた、もう一つの量子メモリーキーを引き抜いた。クリフが死の間際までデータを吸い上げていた『女神の欠片』。ミハエルとの契約すら、今の彼には微温《ぬる》い。魂を喰らう悦びを知った獣にとって、この世界の全ては、自らを強化するための「餌」でしかなかった。

 

 ふと、アブドゥルは血の滴る顔を上げ、アッシュが消えた通路へと視線を戻した。

 ここは『女神』が起動した場所であり、少女を追っていったアッシュが最終的に戻ってくるはずの、唯一の合流ポイントだ。わざわざ血眼になって暗闇を捜索する必要などない。ここで獲物を待っていれば、ターゲットは向こうから勝手に飛び込んでくる。

 

 アブドゥルは狂気に満ちた薄笑いを浮かべ、コントロールルームの中央で堂々と仁王立ちした。

 

 足元には無残に転がるクリフの骸。充満する生温かい血の臭いのなか、溢れんばかりの圧倒的な暴力の質量を誇示するように、怪物はかつての仲間の帰還を不敵に待ち受け始めた。

 

「さあて、Bランク。次はお前だ……ここでお前をバラバラにしてやるぜぇ」

 

 

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