ファントムコード 月下の迷子(カグヤ)   作:ふゆのねつ

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第23話:反逆

 少女はそっと、アッシュの手を握り返した。驚くほどの小ささと、頼りないほどの柔らかさ。

 

 アッシュは一瞬、心臓を直接掴まれたような錯覚に陥る。ドク、と胸の奥で重い鼓動が跳ね、乾いた喉が小さく鳴った。これほどの確かな熱を持った「命」を、誰がただのプログラムだと断じられるだろうか。アッシュは自分の重厚なバウンサー・ジャケットを脱ぎ、彼女の華奢な肩へと掛けてやった。

 

 大きな上着に包まれた彼女は、まるで大人の服を借りた子供のようだ。無骨な繊維の襟に顔を埋めるようにして、彼女はアッシュを見上げる。防刃ケブラーの硬い生地越しに、彼女の微かな吐息が伝わってきた。

 

「カグヤ、か。日本の古い御伽噺に出てくる、月のお姫様の名前だね」

 

「……うん。私、この名前……とても、気に入っているの」

 

 伏せられた長い睫毛《まつげ》が、微かに震える。

 暗い通路に落ちる予備灯の青白い光が、まるで冷たい月光のように彼女を照らしていた。

 世界倫理からも、この歪んだ未来のシステムからも切り捨てられた、あまりに無防備な少女の姿。

 

(西園寺……お前は、こんな美しい絶望を、この世界に遺したのか)

 

 彼が作り上げた『サイオリンクシステム』。それは魂をデータに変える効率的な技術などではなく、データに「心」という呪いを宿らせるための、狂気的な祈りだったのかもしれない。

 

 アッシュはカグヤを立たせ、その小さく頼りない手を、今度は離さないようにしっかりと握り直した。アッシュの指先の節々に刻まれた古い戦傷の硬い皮膚が、彼女の滑らかな手のひらに触れる。

 凍てつく冷気のなか、二つの異なる体温が、静まり返った最深部の闇へと歩みを進める。

 

 二人はクリフたちとの合流地点である、女神の部屋を目指し、薄暗いメンテナンス通路を歩き始めた。

 

 アッシュの大きなジャケットの裾をぎゅっと掴み、一歩一歩、慣れない足取りでついてくるカグヤ。裸足で歩く彼女の歩調に、アッシュは自身の歩調を静かに合わせる。その微かな体温を感じながら、アッシュの脳裏には拭い去れない疑念が黒い渦を巻いていた。

 

(……この子を、本当に渡していいのか?)

 

 ミハエルに。あるいは、その背後に控える巨大企業「トライクロン」という怪物に。そんなことをすれば、この瑞々しい感情を持った魂は一瞬で解体され、兵器か、あるいはただの都合のいいプログラムとして飼い殺される。繋いだ手のひらから伝わってくる愛おしい熱量が、アッシュの胸の奥を重く、圧迫していた。

 

 西園寺輝彦――。

 この世界の理を根底から書き換えた、男。

 

 かつては一介のゲーム会社に所属する天才エンジニアに過ぎなかった男だ。VRMMOという仮想現実への精神転送に成功した彼は、その過程で、電子の海に漂う精神こそが人間の「魂」のデータそのものであることを突き止めてみせた。

 

 彼が見つけたその禁断の理論を企業は「不老不死の保険」として提唱し、巨大複合企業『ニューリィライブ』を設立。肉体という有限の檻から精神を解き放ち、人類に終わりのない生を示唆した。

 

 アッシュがこれまで戦場で嫌というほど見てきた、どれだけ損壊してもバックアップから機械の体で蘇るサイボーグ兵士たち。その光景の起点には、常にあの男の理論があった。

 

 ある者は彼を、神の領域を土足で踏み荒らした悪魔と呼び、またある者は、死の恐怖から人類を救済した神だと崇めた。今や世界の標準となった魂の同期システム――『サイオリンクシステム』という名そのものが、彼の遺した爪痕の大きさを証明している。

 

 その西園寺が、死の間際に遺した『忘れ形見』が、このカグヤだというのか。

 

「ミハエル……。お前、一体何を企んでいる」

 

 アッシュは、虚空に向かって、低く問いかけた。

 かつての幼馴染としての情か、あるいは企業人としての底知れぬ野心か。

 

 もし、カグヤがサイオリンクシステムの「真の完成形」――肉体と魂を完全に融合させ、企業がひた隠しにする「転生技術のバグ」を完全にデバッグできる存在なのだとしたら。世界の全ての生死を司る「神の鍵」をトライクロンへ献上することに他ならない。

 

 「……アッシュ? どうしたの?」

 

 不安げに顔を覗き込むカグヤ。その真っ直ぐな瞳を見つめた瞬間、アッシュの耳の奥に、かつての記憶が不意に重なった。

 

『アッシュ、どうしたの?めっちゃ深刻な顔してるよ?』

 

 ――あの日のサクヤの声だ。

 

 彼女が命を賭して守りたかった「自然な魂」と、西園寺が狂気と共に作り上げた「儚い命」。その埋めようのない矛盾が、今、アッシュの隣で静かに息づいている。

 カグヤを握る手のひらの熱が、アッシュの凍りつきそうだった胸の奥を激しく揺さぶる。

 

「……なんでもない」

 

 アッシュは短く答えた。乾いた唾を飲み込み、喉の奥の痛みを強引に押し殺す。

 

(この子をトライクロンに渡してはいけない。……絶対にだ)

 

 胸の奥で、確固たる決意が冷たく固まっていく。それがミハエルへの背信であり、世界そのものへの反逆になるとしても。

 

 アッシュはカグヤの小さな手を再び引き、企業の喉元たる暗黒の迷宮を、今度は牙を剥くべき敵を見定めるような鋭い眼光で歩み始めた。

 

 ――だが、その決意をあざ笑うかのように。

 

 二人が進む暗闇のすぐ先、通路の空気が突如としてねっとりと重く、不快な熱を帯びて変質した。

 

 血とオイルの、鼻を突くような生臭い腐臭。かつての仲間であったはずの『狂犬』の赤い眼光が、音もなく二人の姿を捉えていることに、アッシュはまだ気づいていなかった。

 

 

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