二人は、カグヤが眠っていたあの場所――オレンジ色のラインが発光する、強固な円柱型カプセルのある部屋へと戻ってきた。床に飛び散った冷却液の跡を横目に、アッシュのバウンサー・ジャケットを羽織ったカグヤを背後に庇うようにして、アッシュは部屋の中央へ一歩を踏み出す。
アッシュの脳裏をよぎるのは、最悪のシナリオだ。状況次第では、あの三人――ノックス、クリフ、アブドゥルを相手に、容赦のない殺し合いになるかもしれない。
(……だが、ノックスならまだ話が通じるはずだ。交渉の余地はあるかもしれない)
そう考えていたその時、部屋の中央で堂々と仁王立ちしているアブドゥルの姿が目に入った。
そして、その足元に広がる尋常ではない血だまりと、無残に放り捨てられた肉の塊が横たわっていた。
アッシュの脳内で、危険を告げる生存本能の警報が、耳を劈《つんざ》くほどの音量で鳴り響いていた。背筋を駆け上がる冷たい戦慄。数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼自身の嗅覚が、この空間がすでに致命的な「死地」に変わっていることを告げていた。
一瞬にして場の空気が凍りつき、アッシュはいつでも動けるよう身構えながら、全身の神経を限界まで研ぎ澄ませた。カスタム・シグのグリップを握る手のひらに、ねっとりとした冷たい汗が滲む。
「……二人はどうした?」
「さあ、どうしたでしょうねぇ? ……ぶはああああああああ!」
アブドゥルが下卑た笑いと共に、血とオイルに濡れた舌を突き出した。
その上に転がっているのは、無残に噛み砕かれ、もはや銀色のゴミと化した二つの量子メモリーキーの残骸だ。
アッシュの表情が、驚愕に激しく歪んだ。
そのチップの片割れには、つい先ほど自分のシグを受け取り、その重みを鋼鉄の掌で確かめてくれた老兵の記憶が――ノックスの量子メモリーキーだった。それが文字通り粉々に破砕され、アブドゥルの口腔で弄ばれている。
この肌を刺すような、あの悍《おぞ》ましい悪寒。間違いない。アッシュの記憶の底にある、最悪の戦いの記憶が鮮明に蘇る。アブドゥルの膨張した首筋から立ち上る、ナノマシンと量子の暴走が放つ歪な熱気。あの不快なオゾンの焦げる匂いだ。生命の根源たる量子魂《クォンタム・ソウル》を強引に取り込み、莫大なエネルギーへと変換する悪魔の技術――。
生死の境界線が曖昧になる地獄のような戦場で、兵士たちはそれを恐怖と共にこう呼んでいた。
――――ソウル・イーター(魂食い)。
目の前の男がその禁忌の力をその身に宿しているという事実に、アッシュは激しい戦慄を覚えながらも、アブドゥルを鋭く睨みつけた。
溢れ出る怒りと嫌悪感に耐えるように、アッシュの喉の奥から、地を這うような歪んだ低音が漏れ出す。歯が軋むほどの強い力が顎に加わり、奥歯の奥で血の味が微かに広がった。
「……貴様、ソウルイーターか……二人の魂を喰ったな」
「ああ、喰ってやったよ! 不味い魂だったがな! お前がその小娘とお楽しみの間によぉ!」
アブドゥルが咆哮すると同時、彼の血管を流れる「赤い光」が激しく明滅し、周囲の空気が焦げ付くような異臭を放った。
アッシュの中で、何かが音を立てて崩れ去る。
それは、サクヤが守りたかった「命の尊厳」を土足で踏みにじられた怒り。
少し言葉を交わしただけだが、人間味のあるあの老兵の、優しいまなざしをこの世から永遠に消し去られた怒り。
「……そうか」
アッシュの言葉から、一切の感情が消えた。
代わりに、全身を縛り付けるリストバンドが、アッシュの急激な心拍数の跳ね上がりに過剰反応し、限界を超えた熱を発し、バチバチと火花を散らし始める。制御回路が悲鳴を上げ、手首の皮膚を直接灼くような凄まじい熱量がアッシュの肉体を支配していったが、今の彼はその痛覚すら完全に無視していた。
「カグヤ、後ろのドアの向こう、安全な場所に下がっていてくれ。……絶対に、中を見るな」
「……うん、気を付けて……アッシュ」
カグヤはその真っ直ぐな瞳を一度激しく揺らしたが、やがて小走りに後方へ駆け出す。
アブドゥルはにやにやとしながらその光景を見ていたが、ふいに、噛み砕いた鉄くずの残骸を床へと無造作に吐き出した。金属片が乾いたコンクリートに落ちて、冷酷な音を立てる。
「おじょうちゃんは生きたまま持っていかなきゃならないんでなぁ。隅っこで待っててくれや。こいつを殺ったら、迎えにいくぜぇ!」
アブドゥルが巨体を弾ませ、アサルトライフルを構え乱射するが、アッシュの姿はすでにそこにはない。放たれた高初速の弾丸が、激しい銃声とともに狭いコントロールルームのアッシュがいた後ろの壁を引き裂いた。
「おらあ! ミンチにしてやるぜ、Bランク!」
鼓膜を震わせる連続した爆音。無数のマズルフラッシュが、薄暗い部屋を一瞬で白光の地獄へと変える。跳弾がコンクリートの壁を削り、火花と細かな粉塵がアッシュの顔を容赦なく叩いた。
だが、アッシュの肉体は、トリガーが引かれるそのコンマ数秒前の「殺気」を完全に捉えていた。神代心眼流の歩法が、弾道の予測線をあざ笑うように床を滑る。頭をかすめる死の衝撃波を肌で感じながら、彼はカスタム・シグの冷たいグリップに指をかけた。