撃ちきったスライドが後退位置で固定され、シグが乾いた停止音を立てる。アッシュは鉛のように重い指先でマガジンキャッチを押し込んだ。マガジンの硬質な金属音が、アブドゥルの巨大な残骸が転がる室内の淀んだ静寂に響き渡る。
アッシュは力なく膝をつき、肺の奥から激しくせり上がる呼吸を必死に堪えた。喉の奥が鉄錆びた味で満たされ、肺が破裂しそうなほどの痛みを訴えている。パージされたRバインドの拘束から解き放たれ、人間の限界を超えた出力を発揮した代償が、全身の筋肉と細い神経の隅々にまで、灼熱の電流のような激痛となって駆け巡っていた。
その時、背後の暗闇から、ためらうような、けれど必死な足音が近づいてくる。
「……アッシュ?」
消え入りそうな、震える声。
振り返るより先に、驚くほど柔らかな手のひらが、血とオイルに汚れたアッシュの背中に触れた。
「アッシュ、大丈夫……? 血が、こんなに……」
カグヤだった。絶対に中を見るなと言い含めたはずなのに、彼女はここにいる。カグヤはアッシュの腕を握りしめ、大きな瞳に涙を湛えて彼を見つめていた。
アッシュの頬にこびり付いたアブドゥルの「白い血」を、彼女は自分の細い指先で、まるでもろい硝子細工を扱うように、そっと拭った。指先が触れた部分から、彼女の瑞々しい温もりがアッシュの冷え切った皮膚へとじんわりと染み込んでいく。
「……大丈夫だ。触るな、汚れる」
「だめ。……あなたが、壊れちゃいそうだから」
カグヤの言葉に、アッシュの胸の奥が鋭く疼いた。心臓が不規則な乱高下を始め、強烈な目眩が脳の髄を揺さぶる。
アビスの泥の中で飢えた獣として這い回り、カミシロ家でただ敵を屠るためだけの死神の技を叩き込まれた。戦場とは命を奪い合う場所であり、自身の肉体などただの消費される道具に過ぎない。そんな自分に向かって、誰かに「壊れそう」だと心配されたことなんて、あのサクヤ以外になかった。
カグヤは周囲に充満する生臭い血の匂いと恐怖を必死に押し殺し、アッシュの傷ついた右拳を、祈るように両手でそっと包み込んだ。アブドゥルの装甲を骨に響く衝撃とともに叩き割ったことで、アッシュの拳の皮膚は裂け、鈍い痛みがズキズキと神経を灼いていたが、その痛みを消し去るような優しい柔らかさが拳を包み込む。
「温かい……。アッシュ、ちゃんと、生きてる」
彼女の掌から伝わってくるのは、皮膚の向こう側で、瑞々しく、確かに拍動する生命の鼓動だった。アッシュは一瞬、その純粋すぎる温もりを自分の汚れた手で汚してはならないと突き放そうとしたが、固く閉ざしていた心の鍵が、音を立てて緩むのを感じた。
「……ああ。まだ、生きてるよ」
アッシュの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
カグヤの掌から伝わる瑞々しい鼓動が、限界を超えて焼け付いていた脳の髄を、優しく包み込んでいくようだった。血と硝煙にまみれた地獄の底で、そのあまりに脆い温もりだけが、彼を「人間」の世界へとかろうじて繋ぎ止めていた。
アッシュは彼女の小さな手を握り直し、ミシリときしむ全身の肉体を叱咤してゆっくりと立ち上がった。
足元では、物言わぬ鉄屑と化したアブドゥルの骸《むくろ》から、淡い緑色の量子が揺らめき始めていた。魂のセーブポイントへの自動帰還——この時代の特権的な「死からの逃避」が始まろうとしている。
「逃がすかよ」
アッシュは、コンソールに突き刺さったままの量子メモリーキーを引き抜いた。クリフが己の命を懸けて『女神』のデータを吸い上げ、それをアブドゥルが横取りしようとした、あの因縁の銀色チップだ。
アッシュは息絶えたアブドゥルの骸を容赦なく蹴り飛ばし、強引にうつ伏せにひっくり返す。重い肉塊が床の血だまりに沈む。剥き出しになった首裏の量子回路へ、先ほど引き抜いたキーを乱暴に叩きつけた。
直後、回路から緑色の光を放つ量子魂が狂ったように溢れ出す。アブドゥルの凶暴な魂の残滓は、断末魔の悲鳴を上げる暇さえ与えられず、強引にメモリーキーの内部へと吸い込まれていった。チップが膨大なデータを引き受けて一瞬だけ熱を帯び、アッシュを汚した白い合成血液の焦げた刺激臭へと上書きされていく。
チップの狭い檻の中に閉じ込められたのは、裏切りの代償と、巨大企業の陰謀の欠片そのものだった。
「……ミハエル。お前が何を隠しているのか、このソウルからすべて引きずり出してやる」
アッシュは衣服のポケットから予備のマガジンを取り出し、シグへと鋭く叩き込んだ。ガチリ、とスライドが閉鎖される金属音。
「ここから出よう、カグヤ」
「うん」
カグヤを背に隠すようにして、彼は闇の先へと歩き出した。
建物の外へと続く、どこまでも長い通路。換気ダクトから吹き下ろす凍りついた空気がアッシュの首筋を撫で、傷口の痛みを冷酷に刺激してくる。だが、前を歩くアッシュの背中には、今その手をしっかりと繋いでいる少女の、確かな「体温」が伝わっていた。無骨なバウンサー・ジャケットの奥から伝わるその柔らかい熱だけが、彼の凍えそうな爪先を一歩ずつ前へと動かしていた。
――この子を守る。
その誓いは、もはや誰から下された命令《オーダー》でもない。
彼自身の意思として胸の奥に深く、熱く刻まれた、巨大な「企業への背信」の証だった。