カグヤの細い肩を支え、アッシュは元来た道から旧ニューヨークの迷宮を避け、セントラルパークへと続く地下を進んでいた。ミハエルとの合流地点であるメトロポリタン美術館を意図的に無視し、あえて逆方向の古い排水ダクトを目指す。
錆びついた重い鉄扉をこじ開け、出口の光が視界を埋め尽くしたその瞬間――。
乾いた銃声が地下空気を切り裂いた。
―――パンッ!
腹部に鉄の衝撃が突き刺さる。肺の空気が強制的に絞り出され、喉の奥から汚れた空気がヒューと漏れた。声にならない喘ぎすら、焼けた鉛が体内で暴れる激痛にかき消される。
アッシュの視界は一瞬で白濁し、重力に逆らう術を失った身体はコンクリートへ叩きつけられた。腹部から溢れ出した熱い液体が、冷たい床を瞬く間に赤黒く汚していく。神経のすべてが痛みという信号で塗りつぶされ、指一本動かすことすら不可能だった。
立ち込める硝煙の向こう側、最新の光学迷彩を解き、静かにスマートガンを下ろしたのは――あの非の打ち所がない、自動人形のような薄笑いを浮かべたかつての親友だった。
「やあ、アッシュ、待っていたよ」
「アッシュ!」
カグヤの悲鳴にも似た叫び。
「……なぜ、だ……ミハエル……」
アッシュの問いは、腹部の激痛によってまともな形を成さず、血の混じったか細い呻きとなって喉の奥に消えた。
視界が明滅する。逆光の中に立つミハエルの影は、まるで地獄の門番のように巨大で、そしてあまりに遠い。
「やだ、離して! アッシュ……アッシュ!!」
トライクロン私設軍隊の容赦のない鋼鉄の腕に、カグヤの小さな身体が引きずられていく。
抵抗する拍子に、彼女の細い肩から、アッシュのあのバウンサー・ジャケットが力なく滑り落ち、泥に汚れた床へと転がった。
先ほどまでその上着を介して触れ合っていた彼女の瑞々しい体温が、アッシュの凍てつく視界から、急速に遠ざかっていく。
――救うと誓った。
――守ると誓った。
彼女の儚げな命の揺らめきがアッシュの眼の前で幻のように消えようとしている。
「カ……グヤ……」
アッシュは泥を噛み、這い蹲りながら手を伸ばすが、指先は空虚な闇を掴むだけだった。
「……キミなら、必ずやり遂げてくれると信じていたよ」
ミハエルの声は、アッパー・レイヤーのあの高度に濾過された空気のように澄んでいて、それゆえに反吐が出るほど軽薄で、冷たかった。
手入れされた最高級の革靴が、コンクリートに転がるアッシュの、まだ生々しい腹部の傷口を容赦なく踏み抜く。
「ぐあぁぁッ!!」
火を吹くような激痛が脳を突き抜ける。
ミハエルは、まるでお気に入りのチェスの駒の状態を確認するように、屈み込んでアッシュの顔を覗き込んだ。
「僕は完璧主義でね。どんなに信頼している『親友』が相手でも、予備の保険《プラン》に手を抜いたりはしない。僕は、キミは絶対に合流地点に来ないと読んでいた。だからクリフ君に女神に発信機をつけるよう指示していたんだよ」
(ミハエル……お前は…………)
カグヤを守ろうとした覚悟も。ノックスの仇を討った怒りも。
そのすべてが、目の前の男にとっては『女神』を傷一つなく地上へ運ばせるための、都合のいい使い捨てのコストに過ぎなかった。自分が今、流しているこの血すらも、彼の計算の範疇だったのだ。
ミハエルはアッシュの胸倉を乱暴に掴み上げると、その耳元で呪文のように、低く言葉を告げた。
「……それから、これは最高機密なんだが……」
そして、本当にささやきかけるような優しい口調で続けた。
「サクヤは、生き返るよ」
その囁きは、いかなる重徹弾よりも深くアッシュの核を撃ち抜いた。
思考が、完全に凍結する。耳の奥で平衡感覚が狂い、心臓が早鐘を打って胸の内でけたたましく鳴り響いた。
「正確には……彼女の魂《ソウル》を復活させることができる。わが社の持つ『デッドマンズリライズ計画』の技術があれば、灰からでもデータの残滓をくみ取ることができる。あとはあの「サイオリンクの結晶」があれば不完全なソウルをこの世界に再構築できるんだ」
さきほどまで複雑な渦を巻いていた思考の本流が、すさまじい憤怒へと集約する。
「まさか……貴様、まさか!サクヤの墓を荒らしたのか!」
アッシュは怒りに身を任せ、ミハエルの襟につかみかかって起き上がる。傷口が引き裂かれ、腹部の内側を灼鉄で抉られるような激痛が走ったが、それを超える怒りが彼を突き動かしていた。
ミハエルはそんなアッシュの手を取り、少しだけ悲しそうな顔をした。
「ボクはね、アッシュ。一度死んでいるんだよ」
ミハエルの形相が、突如として鬼のように醜く歪んだ。
「保存した魂を仮初めの器に移した時、ボクは別人になった。ボクの中の『ミハエル』が、絶えずボクに命じるんだ。……サクヤを愛している。彼女に会いたい! ってねぇッ!!」
ミハエルは怒りに任せ、アッシュの顔面を拳で殴り飛ばした。
「このクソッタレの記憶《アタマ》の中は、お前とサクヤのことばかりだ! おかげで俺は夜も眠れねえんだよ! だから会わせてやるのさ、本物のサクヤにな!」
ミハエルのガラス細工めいた無垢の美貌が、内側から噴き出す狂気によって、ひび割れた仮面のように醜く歪む。
狂った咆哮とともに、執拗な暴力の雨がアッシュに降り注いだ。鈍い打撃音が暗い地下通路に何度も反響する。
「あの女神の身体を器にして、サクヤを復活させる。彼女は純潔な存在として蘇り、今度こそ俺のモノになるんだよ! お前のようなアビスのドブネズミの手の届かない場所でな!」
痛烈な衝撃。骨が軋む音。
アッシュは床に叩きつけられながらも、泥にまみれた視界の中で、連れ去られていくカグヤの姿を見た。
サクヤの死を冒涜し、カグヤという新しい命を器として使い潰そうとする、底なしの欲望。
血反吐を吐き捨て、アッシュは、ジャケットを掴み、震える足で再び大地を踏みしめた。
「……貴様に……カグヤも……サクヤの魂も、好きにはさせない……!」
だが、包囲網は厚い。重傷を負った今の身体で、軍隊を相手に一人でカグヤを奪還するのは不可能だ。
カグヤは黒い影たちに引き連れられ、闇の奥へと消えていく。
彼女との距離が十分に離れたことを確認したアッシュは、密かにジャケット裏から手榴弾を引き抜いた。
「……すぐにお前の所へいく。地獄で待ってろ、ミハエル」
アッシュの指先が、信管のピンを容赦なく引き抜いた。
カラン、と硬質な金属音を立てて、手榴弾がコンクリートの上を冷たく転がっていく。
その信管の「赤」が網膜に映った瞬間、ミハエルは驚愕に目を見開いた。
「伏せろッ!!」
ゴォォォォォン!!
爆炎がすべてを白く塗り潰し、凄まじい衝撃波が通路を駆け抜け、鉄と肉を等しくなぎ倒していった。
やがて黒煙が晴れたあとに残されていたのは、崩落した天井の瓦礫と、暗闇の奥へと点々と続く、生々しい黒い血の跡だけだった。
ミハエルが手中に収めたはずの「親友」は、夜の霧よりも深い闇の中へと、その復讐の牙を隠して消え失せていた。