ヘドロの混じった冷たい水が、アッシュの体温を容赦なく奪っていく。
重油と腐臭が漂う濁流が顔を打ち、肺が泥水を拒絶して激しく咳き込んだ。
暗濁した地下河川の岸辺。アッシュは爪の隙間に泥をめり込ませ、死に体を引きずるようにして陸へと這い上がった。指先の感覚はすでに麻痺しかけており、濡れたコンクリートを掴むたびに、指関節がミシリと悲痛な悲鳴を上げる。
アッシュの命をこの世に留めたのは、神代心眼流の自営術《セルフディフェンス》の賜物だった。
弾丸がアッシュの死線に触れた瞬間、彼の肉体は思考を介さず、自動的に駆動していた。
まずは「柳《やなぎ》」――柳の如き身体の“揺れ”が、ミハエルの放った弾丸の軌道をコンマ数ミリ、皮膚の直前で逸らす。次いで、衝撃が肌を叩いた刹那に発動する「鎧《よろい》」。圧倒的な質量を纏うかのような瞬間的な筋弛緩が、死に至る運動エネルギーを強制的に無力化し、内臓への致命傷を最小限に留めていた。
骨の髄まで叩き込まれた神代心眼流の二段構えの自衛術がなければ、今ごろ彼は、あの排水ダクトの底でただの物言わぬ肉塊へと成り果てていたはずだった。
ミハエルから受けた執拗な暴力の嵐と、脇腹を焼く銃創。冷たい泥に腹ばいになるたび、傷口からどくどくと止めどない血が溢れ出し、一呼吸置くたびに意識の端が暗闇に溶けていきそうになる。
『やだ、離して! アッシュ……アッシュ!!』
頭に木霊するカグヤの悲痛な叫び。
『アハハハ! まあ、キミは優しい人なんだから。困っている人がいたら助けてあげること。いい? 約束だよ』
あの日のサクヤの太陽のような笑顔。
2人の顔がちぎれそうな意識をこの世につなぎとめている。
「……くっ、あ……まだ、だ……」
感覚の失せかけた指先で、ジャケットから防水仕様のメディカルキットをこじ開けた。
取り出したのは、戦場用のナノマシン緊急自動外科ユニット。アッシュは迷わず、抉《えぐ》れた腹部の生傷へ太い針を突き立てた。
「……っ! ぐ、ああああああああッ!!」
声にならない絶叫を喉の奥で押し殺し、背中を弓なりに反らせる。冷たいコンクリートに額を擦り付け、歯が砕けんばかりに噛み締めた。
注入されたミリタリー・グレードのナノマシンが、傷口に食い込んだ異物を特定。強制的な排除シーケンスを開始する。微小な分子カッターが肉の中で弾丸を容赦なく粉砕し、沸き立つどす黒い血とともに、微細な金属粉末として傷口から一気に噴出させた。神経を直接刃物で切り刻まれるような凄絶な痛みが、アッシュの脳髄を何度も引き裂く。
間発入れず、ユニットが次のプロセスへ移行する。超高速の分子結合が引き起こす強烈な代謝熱により、アッシュの脇腹からシュウシュウと白い蒸気が立ち上った。肉が焼けるような熱量の中、ナノマシンは周囲の血液からアミノ酸を強引に巻き込み、人工皮膚と血管を超高速で3Dプリントしていく。ちぎれた組織が物理的に接合され、仮初の肉壁となって傷口を強引に塞いだ。
「はっ、あ、がは……ッ!」
体温の急上昇で脳が焼けつくような錯覚に襲われながら、役目を終えた医療用の微小機械が、アッシュ自身の免疫によって機能停止していく。やがてそれらは塵《ちり》となり、血痕とともに体外へ排出された。それを見届け、彼は泥の上へと力なく倒れ込んだ。重油が薄く膜を張った地下河川の水面が、アッシュの荒い呼吸に合わせて不規則な波紋を広げている。
震える手でキットに残った高濃度栄養剤と痛み止めを口に放り込み、奥歯で噛み砕く。脳を突き刺すような強烈な化学味と不快な苦味が喉の奥へと広がり、胃壁を内側から灼くような熱量が立ち上った。強制的に代謝が跳ね上がり、感覚を失いかけていた凍てついた四肢の隅々にまで、濁った熱が戻り始める。
「動け。動け……」
自分を呪うように呟き、アッシュは泥濘《ぬかるみ》の中で拳を握った。
指先に食い込む冷たい泥の感触、融着剤が裂けた皮膚と本物の肉組織を繋ぎ合わせる激しい拒絶反応、そして肺を突き刺す地下通路の極寒の空気。
そのすべてが、五寸釘のように脳を刺す。
――心地よい痛みだ。この消えない激痛こそが、自分が今、ミハエルの描いた死のプロットを外れ、この現世《うつしよ》にしぶとく踏み止まっている何よりの証明だった。
出来立ての仮初の肉壁がズキズキと熱を持ち、心臓の鼓動が一定のテンポを取り戻すとともに、痛み止めの効果が徐々に表れ始める。
「……ミハエル。お前が、カグヤを使ってサクヤの『死の尊厳』を汚すというのなら――」
アッシュは震える腕で泥まみれの大地を押し、ゆっくりと、だが確実に上体を起こした。引き千切られそうだった脇腹の筋肉がミシリと軋んだが、強引に接合された組織はかろうじてアッシュの体重を支えていた。
歪な狂気に身を委ねた哀れな怪物。
「……俺が、お前を止めてやる」
その誓いは、誰に聞かせるためでもない。
アビスの底で飢えた獣として生まれ、サクヤに「心」を教わり、今またカグヤという少女に「温もり」を託された男の、胸の奥で静かに、けれど狂おしく燃え盛る絶対の意志だった。
手に取ったジャケットを介して確かに感じていたカグヤの鼓動が、冷え切ったアッシュの胸を内側から熱く突き動かしている。
アッシュは手の甲で顔の泥を乱暴に拭い、闇の中に消えたカグヤの微かな残像を見据える。
ミハエル、お前はどこにも綻《ほころ》びのない絵図を描いたつもりだろう。
だが、お前がその浅薄《せんぱく》な計算から除外したものが、一つだけある。
それは――泥を啜ってでも生き延び、地獄の底からお前の喉元を食いちぎりに来る、この『名無し』の執念だ。
アッシュはポケットの中で、アブドゥルの骸から引き抜いたあの量子メモリーキーの冷たい質量を指先で確かめた。ここには、狂ったアブドゥルの魂だけでなく、彼が喰らったノックスとクリフのデータも眠っているはずだ。この銀色の鍵こそが、ミハエルを追うための、唯一の武器だった。
アッシュは軋む体に鞭を打ち、完全な復讐の死神となって、地下の暗黒から地上へと向かって静かに歩き出した。