そこは、お世辞にも綺麗とは言えない、冷たいコンクリートに囲まれた安家賃のアパートメントの一室だった。
剥き出しの壁を這うように赤錆びた太い配管が走り、時折、古い機械が不穏な駆動音を立てる。鉄格子のついた小さな窓からは澱んだ外光がわずかに差し込むだけで、部屋の大半は昼なお暗い。
企業の最先端テクノロジーから見捨てられた、旧アメリカの煤《すす》けたスラム街。
過去の亡霊であるカミシロの手から仲間を遠ざけるため、故郷である日本の『失楽園《エデン》』を捨てたアッシュにとって、この異国の冷たい部屋だけが、死んだように息を潜められる唯一の殻だった。
――ピ、ピ、ピ。安物の電子アラーム音が、無慈悲に意識を現実へと引き戻す。
重い瞼を持ち上げる。
軋む四肢を強引に動かし、アッシュはベッドから身を引き剥がした。
彼の両手足には特殊な駆動負荷バンドが巻かれ、筋肉に高周波の電気的な負荷を叩き込み続けている。神代心眼流の『鎧稽古』を再現したその重圧が肉を焼き、関節をきしませる。
長身の体躯は余分な肉が一切削ぎ落とされ、整った顔立ちには、彼が歩んできた修羅の道を物語る無数の細かい傷が刻まれていた。
指先で無造作に書き上げた髪は、燃え尽きた後の灰――グレイアッシュ。
サクヤという光に焼かれたあの日から、この髪の煤《すす》が落ちたことはない。
前髪の隙間から覗くのは、黒い右目と、血の色を湛えた光学式の赤い左目。
目覚めと共に小さく駆動音を上げた赤い左目が、右目の映すくすんだ日常を同期《キャリブレーション》していく。
アッシュは古びた木製デスクへ向かい、手動のミルで安物のコーヒー豆を挽き始めた。摩擦熱で焦げた豆の匂いが、狭い部屋に重く沈む。
『あ、また砂糖入れようとしたでしょ! コーヒーはブラックが一番おいしいんだからね』
伊達メガネを押し上げ、得意げに笑うサクヤの顔が脳裏を過る。
本当は少し苦そうに細い眉を寄せながら「これが大人の味だよ」と言い張る彼女の横顔を、ただ眺めているのが好きだった。
サクヤが逝ってから彼が自ら淹れる一杯は、彼女のものよりずっと苦くて、ひどく不味い。
それでもアッシュは、その濁った黒い液体を一気に喉へ流し込む。
胃を焼くような泥の苦味が、自分の心臓がまだ動いているという唯一の証明だった。過剰なカフェインが血流を巡り、脳のニューロンを無理やり加速させていく。
やがて、壁の薄い旧式モニターが、勝手にノイズ混じりのニュースを吐き出し始めた。
『……メガコーポ各社による構造改革の影響で、今月も数百名の行方不明者が報告されています。当局は「自発的な失踪」との見解を強めており――』
キャスターの淡々とした声に、アッシュはわずかに目を細めた。巨大資本が動くとき、その裏で切り捨てられるのは常に現場で命を張っていた人間たちだ。
だが、今の彼には関係のない、遠い海の向こうの出来事のはずだった。
――この乾いた日常に、最初の亀裂が入るまでは。