鉛のように重い腕をなんとか動かし、左腕へと触れる。
指先が触れたのは、手首に巻き付けられた小型端末《リスト・コンソール》の冷たい感触。起動のパルスとともにホロウィンドウが立ち上がり、青白い「量子回線《クオンタム・リンク》」の接続ログが暗い水面を照らし出した。第三者の介入を絶対に許さない暗黒のセキュリティ回線が、電磁遮蔽《ジャミング》を突き破って瞬時に同期を完了していく。
アッシュが接続したその先には、深淵が広がっていた。
電子の海をただ漂うだけの幻のようなコードではない。そこには、意思と呼ぶにはあまりに巨大で、神と呼ぶにはあまりに希薄な「観測者」がいた。
アマテラス。――肉体を捨て、ネットワークの最奥を漂う「電脳神」。
西園寺輝彦が五十年前に産み落とした仮想現実への転送技術は、いまや人類の文明そのものとなっていた。かつてのVRMMOという名の遊び場は、巨大な電脳コミューンへと変貌し、世界中の全ユーザーの思考、情動、そしてあらゆる秘匿情報のアーカイブと化している。膨大なデータが交差するその空間こそが、現代社会の情報の墓標であり、揺りかごだった。
しかし、この「魂の転送」には、神の理《ことわり》とも言うべき絶対の制約が存在した。
転送された意識データ――量子化した魂は、その大元である「肉体」が発する微弱な固有電気信号と、不可視の糸で密接にリンクしている。この電気信号との断絶は、即座にこの魂との断絶を意味し、電脳空間上に漂う意識は、錨を失った小舟のように虚無へと霧散する。ニューリィライブ保険機構は、この「固有電気信号」をアーカイブしている。
そして、この絶対的なルールには例外が存在した。
数億分の一、あるいはそれ以下の、観測史上極めて稀な確率で発生する「特異点」。
肉体が滅び去ってもなお、電脳空間という名の神殿にその自我を定着させ、完全なる電子の存在へと昇華した者たち。彼らを電脳のギークたちは畏怖を込めて「電脳神」と呼んだ。
アマテラスはその一人だった。
西園寺の遺産を網の目として利用し、クリフやハッカーたちの背後でカグヤの情報を流し続けた
『あら……お久しぶりね、アッシュ? この回線を開くってことは、かなり不味い状況かしら?』
「
『あらあら……どうしてあなたがその情報を?』
アッシュは、震える指先で量子メモリーキーを取り出した。
「時間がない。細かい話は後だ。今から送る量子魂《クォンタム・ソウル》を……解析してくれ」
『ふふ、あなたの頼みじゃ断れないわね』
アブドゥルの死体から引き抜いたメモリーキーを、リストコンソールに近づける。すると内部の量子データが、光速を超越する波に乗り、電脳の海へと転送される。
『……同期、完了。データ、受理したわ』
直後、空間にアマテラスのアバターが立ち上がった。
恐ろしいほど鮮明な
だが、スピーカーから響くのは、耳元で吐息を感じるほど艶やかな
『……ひどいデータね、これ。吐き気がするわ』
その声の裏にある、アマテラスの隠しきれない「嫌悪」が、アッシュの脳を直接叩いた。
『このデータの核《コア》にあるのは、7年前に死んだ男の魂。記録によると、彼は当時「トライクロン」の兵士リストラ対象者。解雇通知を受けたその足で、公式記録から消されている。「
――
アッシュの脳裏に、安アパートのテレビから流れていたキャスターの声がフラッシュバックする。
『当局は「
あの日、ノイズ混じりの画面の向こうで片付けられた「数百名の行方不明者」のひとりが、目の前で怪物と化したあの狂犬だったのだ。
「……アブドゥル。あいつも、企業の犠牲者だったのか」
アッシュの目が、底知れない憎悪を孕んで細まる。
企業の利益のために生を搾り取られ、解雇されれば魂を剥ぎ取られて、死なない兵隊として
『さらに最悪な情報よ、アッシュ。このアブドゥルの内部ログに、ミハエルから直接発行された「優先命令」が残っている。――内容は、【女神の回収、ソウル・イーターを投入してのチーム全員のソウルの「廃棄」】。……あなたも最初から、この屠殺場《スクラップ・ヤード》に放り込まれる予定だったのよ』
「最初から、あいつの絵図だったのか……」
アッシュは口から流れる血を手で拭い、脇腹を強く圧迫した。痛覚が、自分がまだ血の通った人間として、この過酷な現実にとどまっていることを証明していた。
「アマテラス。もう一つ、調べてほしい。……サクヤ=カミシロの量子魂《クォンタム・ソウル》だ。トライクロンの極秘サーバーにあるはずだ。そこに『西園寺の忘れ形見』もいる」
『……アッシュ、それは死神の喉元を覗くようなものよ?』
「構わない。やってくれ」
筋肉質な男のホログラムが、艶やかな女の声でくすくすと笑い、大袈裟に肩をすくめてみせる。
この世界の法が届かないネットワークの深淵から、その亡霊《ファントム》は、一人の人間が自ら地獄の門をこじ開けようとする姿を、どこか愉しげに、そして深く憐れむように見つめていた。
『彼女の量子魂《クォンタム・ソウル》はトライクロンビルの最上階のサーバーにあるわ」
「……そうか」
『……あ、それと。さっきのアブドゥルの量子魂に、ちょっとした「ご馳走《ウイルス》」を混ぜておいたわ。トライクロンの管理サーバーに接続された瞬間に発動する、最悪の論理爆弾《ロジックボム》よ。あらゆるデータを侵食して
アマテラスの声に、初めて実利的な容赦のなさが混じる。
手首の端末が淡く明滅し、転送完了を告げた。このキーはもはや、ただのデータ記憶媒体ではない。ミハエルの喉元を焼き切るための、電子の毒刃だ。
「助かる……」
回線が切れると同時に、筋肉質の虚像が霧のように霧散した。
アッシュは泥濘の中から、軋む骨を意志の力だけで組み上げるようにして立ち上がり、血とヘドロに汚れた銃を拾い上げた。
状態を確認した後、金属音を響かせてスライドを引き、薬室にAP弾を送り込む。
胸の奥に開いた虚無の穴を、暗い復讐心だけで満たしながら、アッシュは闇の奥へと歩き出した。