カグヤの記憶の深淵の中にある西園寺の悲劇。
カグヤが知る由もない、その西園寺の過去の記憶がいま、消えゆく彼女の中で蘇る。
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西園寺輝彦は、会社から支給された新しい三つのおもちゃを前にして、文字通り狂喜していた。 開発室の防音壁に囲まれたデスクの上、特殊な電磁シールドで守られたクリーンカプセルが三つ、かすかな冷却ファン音を立てて並んでいる。その内部に満たされた不透明な培養液の底で、アウトランド――かつての大戦で人が住めない不毛の環境と化したメガシティの外の世界――の崩壊した遺跡から発掘された、第三次世界大戦の遺産《オーパーツ》が息づいていた。
そのオーパーツは「生体脳」。現行のシリコンや量子チップの限界を遥かに超越した、未知の有機バイオコンピュータ。 そして信じがたいことに、それらの脳髄は、発見から数十年が経過した今なお、生命維持溶液の循環システムに繋がれ、”生きて”稼働を続けていた。
三基のバイオコンピュータには、それぞれ識別コードの代わりに、古い神話や寓話に登場するキャラクターの名が冠されていた。
『HIMIKO(ヒミコ)』
『IYO(イヨ)』
『KAGUYA(カグヤ)』
西園寺が極東の旧日本に伝わる古い名前を付けたのは、特に深い意味などない。ただゲームデザイナーである彼が、仕様書に記載する際の気まぐれな思いつきで名付けたに過ぎなかった。
西園寺はまず、一番基である『ヒミコ』の端末接続を開始した。
カプセルのチューブから絶え間なく供給される微弱な電流と栄養液の中で、その遺産は静かに、しかし力強く脈動している。
表面に刻まれた脳回は、現行のレプリカントのそれとは比較にならないほど細かく、まるで無数の半透明な蟲が身を寄せ合ってうごめいているかのように見えた。異常なまでの神経密度。いったいどれだけの情報質量を圧縮すれば、これほど密度の高いウェットウェアが形成されるのか、現在のテクノロジーでは全くの謎だった。
グリア細胞のわずかな隙間を埋め尽くすようにして形成された未知の生体ネットワークは、生物的な限界を遥かに超えた超並列情報処理を可能にしていた。
西園寺は、この異形のガジェットに光ファイバーの束を直接接続し、その命令セットのデコンパイル(解読)を試みる。 マルチモニターに表示されたのは、既存のデジタル言語や二進法のコードでは記述不可能な、混沌とした『意識の波形』の乱舞だった。緑色の走査線が、ディスプレイの上で幾何学的な模様を描きながら激しく明滅する。
西園寺はこの意識の波形を、自身が開発したエミュレーターを用いて、現在のOSが理解できる論理形式へと変換していった。その解析の過程で、彼は一つの驚くべき特性を発見する。この生体脳が放つ独自のパルスは、物質的な脳の神経ネットワークを完全に掌握《しょうあく》し、その電気信号を100%同調させる性質を持っていたのだ。
どれほど精緻に構築された機械のコードであっても、精神の深淵を完全に再現することはできない。だが、この血の通ったバイオコンピュータなら話は別だ。この脳が演算によって構築するシミュレーション空間は、物質的な脳が知覚する現実の世界と、1千億分の1パーセントの誤差もなく100%の互換性を持っていた。
つまり、物質的な脳と、このバイオコンピュータの脳波形を、完全に同期させたらどうなるか? 答えは一つ。意識を丸ごと、純粋な仮想空間へとダイブさせることが可能になる。
西園寺はこの仮説を元に、提携企業が実験体として提供してくれた、回復の見込みのない植物状態の被験者たちを使い、意識の反転転送実験を開始した。
やがて、彼の立てたロジックが正しいことが証明される。
ベッドの上でピクリとも動かない植物状態の被験者の意識が、生体脳の構築した電脳世界へと確実に転送され、西園寺が開発中のゲーム空間の中に、明確な人格と自立した挙動を持ったキャラクターとして登場したのだ。
これこそが、西園寺輝彦が世界に生み出した、歴史上最初のVRMMO-RPG『リバース・クエスト』の真の誕生の瞬間だった。
その一番基である『ヒミコ』こそが、この巨大な仮想世界の心臓だった。
数百万人のプレイヤーの意識を肉体の束縛から引き剥がし、生々しい五感のフィードバックと、感情のすべての起伏を瞬時に情報空間へと変換する――その絶望的なまでの質量を持つ大規模演算処理は、すべて『ヒミコ』の異常に発達した生体ネットワークが、ただ一基で引き受けていた。
だが、意識をバラバラの量子データにしてネットワークへ転送するだけでは、受容体である精神は一瞬で負荷に耐えかね、発狂と崩壊を起こしてしまう。
そこで機能するのが、二番基『イヨ』だった。
『イヨ』に与えられた役割は、厳格な統括と管理。 転送された数百万の意識の波形を一瞬で識別し、ゲームのルールという、何者も破壊できない強固な檻に閉じ込めることで、プレイヤーの精神の形を強制的に維持し続ける。いわば、ゲーム世界の秩序《システム》そのものを司る、仮想の母胎。
プレイヤーたちは『ヒミコ』にその根源を吸い上げられ、『イヨ』が編み上げた一抹の曇りもない美しき夢の檻の中で、ただ踊らされているに過ぎないのだ。
『リバース・クエスト』のプレイヤーたちが、電子の海の底へと預けているもの――。
それは、単なるディスプレイの電気信号の束でも、数値化された簡易的な記憶データなどでもなかった。 それは、目に見えない人間の『魂』そのものだった。