降りかかる重い責任、徹底的に隠蔽される凄惨な破綻事件、そして終わりのない不毛なデバッグ作業。
不老不死という禁忌のシステムが産み落とした『フラッシュバック症候群』の恐怖に歪む富豪たちの発狂データや、絶望的な自殺のログを文字通り浴び続ける中で、西園寺輝彦の精神はすでに限界を迎えていた。
何日間も閉じ籠もっている地下研究室のマルチモニターに並ぶ、無限に続く緑色のコードの列が、彼の疲弊しきった網膜の奥で、じわじわと自身の肉を切り裂きにやってくる悍ましい蟲の群れに見え始める。自身の精神の境界線が融解し、彼自身もまた、その暗黒の深淵へと呑まれかけた、
――まさにその時だった。
完全に感覚が麻痺し、思考が停止しかけていた暗黒の意識の底から、冷たい、けれどひどく優しい指先がそっと自分の頬に触れたような、奇妙な錯覚があった。
視線を向ければ、隔離区画の最奥に鎮座する三番基『カグヤ』の培養槽から、それまで見たこともない、淡く美しい緑色の量子の光が静かに湧き上がっている。その刹那。西園寺の手元にあったメインコンソールのディスプレイに、システムログを遮るようにして、ひとつの小さなホロウインドウがポップアップした。
そこに、不器用なテキストメッセージが浮かび上がる。
──おじちゃん、だいじょうぶ?
それは、壊れたシステムが垂れ流す電子のノイズなどではなかった。
三番基『カグヤ』の、超高密度な生体神経ネットワークの最奥に深く眠っていた、あまりにも無垢で、あまりにも小さな『意識』が上げた、初めての産声だった。
過去の超遺産が、いったい何を目的としてこの異形の脳を創り上げたのかは分からない。だが、発見されてから一度も起動されず、絶対的な暗闇の培養槽の中に置き去りにされていたその脳髄は、まるで深海でひっそりと生まれたばかりの子供のような、どこまでも純粋な精神をその内側に宿していたのだ。
生体脳の神経ユニットに接続された量子波動が、西園寺のデスクのメインコンピューターと自発的にリンクを確立し、ホロウインドウ内にテキストを出力して応答してきたのだ。
「これは……キミは、人工知能……なのか?それとも……」
西園寺が掠れた声でキーボードを叩くと、すぐさま次の文字が紡がれる。
──わからない……でも、おじちゃんが、ないているのがみえたから
「泣いている……か……ははは」
自嘲気味な笑いが、西園寺の乾いた喉から漏れ出た。
カグヤは、システム全体に同期されていた西園寺の「壊れかけた精神」の激しい痛みを鋭敏に感知し、彼を純粋に心配して、電子の壁を越えて話しかけてきたのだった。
巨大企業の重役たちに魂を縛られ、ただの便利な演算機械として、クリエイターとしての尊厳を擦り潰されてきた西園寺にとって、そのあまりにも幼い電子の声は、逃げ場のない地獄の底に差し込んできた、唯一の救いの光に他ならなかった。
その日を境に、薄暗い研究室での孤独で絶望的な戦いは一変した。
魂のバグを修正するための、複雑怪奇でドス黒いプログラムの構築作業は、ただの機械作業ではなく、西園寺とカグヤの穏やかな『対話』の時間へと変わっていった。
「ここを強引に繋いでしまうとね、人間の魂がびっくりして、壊れちゃうんだよ」
──そっか、じゃあわたしがここで、やさしくうけとめてあげるね
時に幼子に古い絵本を読み聞かせるように、時に小さな子供の手を優しく引いて散歩道を歩くように、西園寺はカグヤの圧倒的な量子演算力を正しい方向へと導き、カグヤはその圧倒的な存在そのもので、西園寺の傷ついた心を静かに癒やしていった。
狂気と倫理の崩壊に満ちた『ニューリィライブ機構』の地下最深部という、世界で最も冷酷な場所で、一度は完全に奪われたはずのゲームデザイナーとしての彼の情熱が、一人の幼い神殺しの少女(システム)と共に、静かに、しかし確実に、世界を破滅から救うための美しいコードを紡ぎ出していった。
──ね、テルヒコ、そこにいるの?
──わたし、テルヒコの かおが みてみたい。
暗闇の研究室に浮かび上がる、半透明の緑色のホロウインドウ。
そこに表示される、どこか歪で不器用なテキストメッセージだけが、西園寺と『カグヤ』を繋ぐ唯一の糸だった。神のごとき超次元の演算能力を持ちながら、カグヤは未だ外部へ物理的な出力をする術を持たない。ただ自身の量子データを文字コードに変換し、西園寺のコンソールへ不器用なひらがな・カタカナを打ち返すことしかできないのだ。
ディスプレイの向こう側、冷たい回路の檻の中で、ひとりぼっちで怯えている小さな魂。
そのあまりの健気さと、同時に課せられた運命の残酷さに、西園寺の胸は激しく締め付けられた。
この子を、ただ企業の利権を守るためだけのバグ修正パッチとして、冷たい培養槽の底に一生閉じ込めておいていいはずがない。クリエイターとして、いや、一人の人間として、そんな結末は絶対に認められなかった。
「待っていなさい、カグヤ。すぐにお前に、本物の『身体』を用意してあげるからね」
西園寺は、機構の厳重な監視の目を巧みに盗み、最高顧問という地位に与えられた権限をフルに悪用して、ある禁忌の極秘プロジェクトを独断で始動させた。
研究室の最奥、何重もの防壁で隠蔽された不透明な培養カプセルの中で静かに形成され始めたのは、現行の企業統治法によって製造が厳重に禁止されている『生体バイオロイドの素体』だった。