現行のサイバネティクス技術において、人間と見分けのつかない生体バイオロイドを製造することは、人倫に反する禁忌として企業統治法で厳重に禁止されていた。特に、骨も、筋肉も、臓器のすべてを有機ナノマシンで構築し、生物学的な細胞のシステムを完全にシミュレートした肉体など、製造のログが見つかっただけで即座に解体・処分されるレベルの重罪だ。
だが、西園寺にそんな倫理を気にする理性はもう残っていなかった。
隠蔽されたコンソールの画面上で、カグヤのための「仮初めの器」が少しずつ形作られていく。外見は十代前半の、どこか儚げな少女。だが、その内側に組み込まれた有機ナノマシンの設計図は、世界で最も危険な軍事兵器をも凌駕する、恐るべき防衛システムが仕込まれようとしていた。
カグヤの真の能力、それは魂の量子もつれを利用した『不完全な精神の修復機能』だった。
フラッシュバック症候群によって境界線が溶け、千切れかけた心の破片を、カグヤの圧倒的な演算力は瞬時に捉え、混じり気のない元の自我へと縫い合わせることができる。だが、その神のごとき力は、機構の強欲な重役たちにとっては「不老不死のインフラを完成させるための都合の良いパーツ」でしかなかった。
「カグヤ、キミはあいつらの奴隷になってはいけない」
深夜、誰もいない研究室で、西園寺はキーボードを叩き続けていた。彼の充血した両眼に、緑色のコードが非情に映り込む。
機構がいつか、カグヤの異常な有用性に気づき、彼女をシステムから強引に剥ぎ取って独占しようとする日は確実に来る。その時、この無垢な少女が自らを守り、あの強欲な大人たちの手を振り払って逃げ延びるための『武器』を、デザイナーとして、そして父親として与えなければならなかった。
西園寺がカグヤの義体に仕込んだのは、一種の『究極のゲームルール』だった。
もしも、カグヤの意思に反する外部からの強制アクセスが検知された場合、彼女の生体内にあるすべての有機ナノマシンが、一瞬で『防衛戦闘モード』へと強制書き換えされる。
「……よし、これでルールは書き換わった」
それは、カグヤが内に秘める膨大な量子エネルギーを、そのまま物理的な破壊力へと変換する禁忌のコードだった。
そう、それはアッシュが目の当たりにしたあの光景の起源だった。
西園寺は、モニターに表示されたその紅い防衛プログラムのシミュレーション画面を見つめながら、それを『量子痣《クォンタム・タトゥ》』と名付けた。
この紅い殺戮形態が発動している間、カグヤの周囲の空間は、量子もつれの暴走によって物理法則そのものが歪められる。弾丸は軌道を狂わされ、サイバネティクスを搭載したあらゆる兵器は電子の塵へと変わる。それは、どんなメガコーポの軍隊であっても容易に突破できない、文字通りの『無敵の檻』だった。
だが、その圧倒的な力は、彼女の命を燃料として燃え盛る、自滅の炎に他ならなかった。
本来、魂を癒やすための純粋な存在であるカグヤが、この無理な防衛プログラムを覚醒させ、物理世界への干渉を行うということは、彼女自身の生体脳に、文字通り焼き切れるほどの狂暴な負荷をかけることを意味していた。
紅く光る量子痣は、彼女が自らを守るための盾であると同時に、彼女の命をじわじわと削り取っていく呪いの刻印でもあった。
──テルヒコ、これ、なあに?
コンソールに、カグヤからの無邪気な質問が届く。
西園寺は、血の滲むような思いで、震える指をキーボードに走らせた。
「これはね、カグヤ。悪いオオカミさんがキミを捕まえにきたとき、キミを守ってくれる、赤ずきんちゃんの魔法のドレスだよ」
──わあ! ありがとう、テルヒコ。わたし、このドレス、たいせつにするね
何も知らずに喜ぶカグヤのメッセージを見つめながら、西園寺はデスクに突っ伏し、声を出さずに泣いた。
自分が作っているのは、世界を熱狂させるゲームではない。一人の少女の命を贄にして、巨大な利権機構に一矢報いるための、最悪の復讐兵器なのだという事実に、彼のクリエイターとしてのプライドはズタズタに引き裂かれていた。
それでも、時間は待ってくれない。
廊下の向こうから、武装ガードたちの足音が近づいてくる。ニューリィライブ保険機構が、ついにカグヤの完全な実戦投入と、システムの商業化への最終フェーズへと移行する決定を下したのだ。
仕様変更のデバッグは、もう終わりだった。
西園寺は涙を拭い、最後のプログラムを走らせるため、冷たいコンソールへと向かった。