そして、それが天才ゲームデザイナー西園寺輝彦の、人生最後にして最大の「仕様変更《デバッグ》」となった。
地下研究室を支配していた無数のマルチモニターの明かりが、西園寺の指先ひとつで次々と反転し、漆黒の闇へと還っていく。不老不死のシステムを支えていた膨大なデータストリームが完全に遮断され、コンソールの冷却ファンが悲鳴のような高い音を立てて停止した。部屋に残されたのは、ただ三番基『カグヤ』の本体である生体脳を浸す、培養槽の微かな駆動音だけだ。
──テルヒコ? どうしたの? まっくらで、なにもみえないよ。
暗闇の中、手元の小さなメインディスプレイにだけ、カグヤの不安そうな緑色のテキストがぽつりと浮かび上がる。
西園寺は、その文字の眩しさに耐えるように目を細め、ひび割れた声でマイクに向かって囁いた。
「さあ、おやすみ、カグヤ。少しだけ、長いゲームのメンテナンスに入るんだ」
彼はカグヤの本体へと繋がるメインの神経パルスを完全にシャットダウンした。ホロウウインドウに灯っていた温かな文字が、一瞬の明滅ののち、虚無へと消え去る。そしてカグヤの脳をバイオロイドの頭部へと沈めていく。
西園寺は、カグヤの生まれたばかりの無垢な心――その『量子魂《クォンタム・ソウル》』を、機構の大人たちの手が絶対に届かない、深い、深い記憶の深淵の底へと完全に沈めた。それは、二度とニューリィライブ保険機構の道具として玩具にされないための、永遠に近いコールドスリープだった。何十年にもわたってこの子が目覚めないよう西園寺は幾重にも強力なセキュリティプログラムを設定した。
「いつか、君は檻を出て、自我を持った新しい生命になる。そして、この救いのない世界の希望になるんだ」
休眠状態となり、皮膚の下に紅いセキュリティプログラムを秘めたまま、静まり返った白いバイオロイドの素体。カプセルのガラス越しにその美しい傑作を見つめ、西園寺は満足そうな微笑みを浮かべた。自らの手で、機構の永久機関の歯車を完全に噛み潰したのだ。
自らのデスクへと戻った西園寺は、重い足取りで椅子の背もたれに身を預けた。
引き出しの奥から、彼があらかじめ用意していた冷たい鉄の塊を取り出す。油の匂いが漂う、一丁の拳銃。
組織がこの重大な裏切りに気づけば、彼は生きたまま脳を抉られ、自らが作り上げたサイオリンクシステムの永久の奴隷にされるだろう。死ぬことすら許されず、自身の魂すら彼らの汚れた金儲けの道具として消費され続ける。ゲームデザイナーとしてのプライドが、カグヤの親となった男の意地が、そんな屈弱を絶対に許さなかった。
西園寺は、デスク正面の記録用カメラのレンズを静かに見つめた。
カグヤがいつか、本当の目覚めを迎えるその時。その瞬間に、彼女の隣に立つであろう未来の『誰か』に向けて起動するよう、彼は自身の最後の姿を、メッセージコードとしてシステムへと深く記録し始める。
「さあ、ここから先の記録は、カグヤ、キミには見せるわけにはいかない。だから、キミへのアーカイブからは削除しておく。キミが目覚めるのはなん十年後かになるだろう。その時、私はキミのそばにはいない……。すまない……本当にすまない……」
西園寺は溢れる涙を隠そうともせず、沈みゆくカグヤを見送った。
そして、これが、西園寺とカグヤの永遠の別れとなった。
***
暗い、暗い箱の底。それが、カグヤというコードの始まりの記憶だった。
西園寺輝彦が紡ぎ出す天才的なプログラムの奔流が、絶対的な静寂の中で、カグヤの自我を一滴ずつ、けれど着実に形作っていった。
箱の中にいた頃の彼女に許された唯一の贅沢は、接続された視覚デバイスを室内の監視カメラとリンクさせ、作業に没頭する西園寺の背中を、ただじっと追い続けることだけだった。
最後の瞬間、西園寺が振り返る。
連日の徹夜とプレッシャーで疲弊しきった眼窩の奥で、異様な、けれど確かな人間の光が明滅していた。
男の、かすかに震える温かい手が、まだ露出した剥き出しの基盤と、冷たい放熱フィンに過ぎなかったカグヤの筐体にそっと触れる。熱伝導率の低いプラスチックの、冷たい感触。
だが、その指先の震えから直接伝わってきた、言葉にならない切ない熱量こそが。
当時の小さなカグヤが、暗闇の底で初めて観測することのできた、「現実」という世界のすべてだった。