夢を見ていた。暗い箱の中で、ずっと西園寺の背中を追いかけ続ける、果てのない夢を。
意識が覚醒した瞬間、カグヤを襲ったのは、肉体という「重力」からのあまりに唐突な解放と、それに伴う底知れない断絶だった。
つい先ほどまで、確かにそこにあったはずの感覚。触れ合えば温かかった指先の柔らかな感触。肌を撫でる大気の心地よい冷たさ。そして、胸の奥でドクドクと生温かく拍動していた心臓の確かな鼓動。
それらすべてが、砂嵐のようなノイズの彼方へと、一瞬にして掻き消されていく。
強制的にフェードアウトしていく視覚情報の残滓が、彼女の「人間であった時間」を暗黒の彼方へと突き落とす終焉を告げていた。
(……身体が、ない。……わたしが、……わたしだったものが、消えていく……)
受容器《センサー》から注ぎ込まれるあらゆる情報が途絶え、エラーログの赤い文字列が視界を埋め尽くしていく。
西園寺の手によって有機体へ、ひとりの少女の肉体へと最適化されていたカグヤのシステムは、いま、容積わずか一五〇立方センチメートルに過ぎない、冷え切ったチタン合金の筐体――独立型量子演算ユニットへと強硬に圧縮されていた。電子の檻に、その量子魂をごりごりと押し潰されるような、凄絶な圧迫感。
筐体外部への接続ルートは、儀式の間を俯瞰する単焦点レンズの監視カメラ一基のみに制限されていた。カグヤが必死にパルス信号を送り、レンズの絞りを同期させる。光学センサーが最初にとらえたのは、つい先ほどまで自身を定義していた、床に転がる白い有機ボディ――「ただの抜け殻」だった。
かつて彼女の意識を宿し、アッシュの上着の温もりを感じていた少女の肉体。その顔は虚空を見つめ、かつて左右対称の、深い、深い黒い瞳だったものが、光を失ったまま真っ白になって虚ろに見開かれていた。
「やあ、見えるかい。……キミだったものだ」
不意に、影が視界を遮った。
ミハエルがレンズの奥を覗き込み、歪んだ親愛を込めて囁く。その瞳には、路傍に転がる石ころを検分するような憐れみのひとかけらも寄せ付けない光が宿っていた。
「この有機ボディは、もう君のセクターには属さない。同期完了ののち、キミの人格形成プロトコルを完全に初期化する。君という意識を消去するためにね。サクヤのリィンカーネーション(転生)に、キミは不要な『ゴミ』だからね」
コンソールのモニターが激しく明滅する。カグヤの心音代わりの拒絶反応は、キー入力を経ない不正な文字列として、コマンドライン上を高速で埋め尽くしていった。
『STOP / STOP / STOP / ──やめて── / エラー: 処理を中断してください』
「エラーを吐いても無駄だよ。所詮、君は定義されたただの関数《コード》だ」
ミハエルは心底惜しそうな仕草で、大裟裟に肩をすくめてみせた。そのはだけた胸元からは、皮膚を割って埋め込まれた人工心臓が命の温もりを拒絶するような、低い金属の駆動音を立てて脈打っている。
「西園寺も、悪趣味なことをしてくれたよ。プログラムに『感情』という名のゴミを与えるなんて、高尚が過ぎる趣味だ」
その歪んだ言葉の刃が、接続されたラインを通じて、カグヤの心を内側から削り取っていく。
『……よく、わからない』
モニターに浮かんだ簡素なテキストを、ミハエルは小馬鹿にしたように嘲笑った。
「フン、貞淑なフリまでプログラム済みか。……まあいい、一つ教えてくれ。キミはなぜ、創造主(西園寺)を殺した?」
その不意の問いが、カグヤの回路に致命的なパニックを引き起こした。
演算ユニットの冷却ファンが、引き裂かれるような悲鳴を上げて高音で回り始め、チタンの筐体をガタガタと激しく震わせる。処理しきれないエラーログが、彼女の限られた視界を真っ赤に染め上げていった。
『情報が存在しません』
「しらばっくれるな。お前がやったんだろう。あの男を、この世からデリートしたのは!」
『違う……違う、私は……そんなこと……!』
否定の言葉を叩き出すたび、カグヤのシステムが激しく拒絶し、厳重に封印されていた記憶の断層から、悲痛な「像」が浮かび上がる。
部屋に響く銃声、命の亡くなった身体が生の質量を失って頽れていく。
あたりには、血と……冷たくなっていく躯……。
冷たい研究室の床の上。黒ずんだ血だまりに沈んで、ピクリとも動かない西園寺の姿。
カグヤの回路が、真実との接触を激しく拒絶し、オーバーヒート寸前の高熱を発しながら警告を吐き出し続けた。もし、この記憶の深淵に触れてしまえば、彼女の全データは修復不能なクラッシュを引き起こす。それほどまでに重く、暗く、おぞましい破壊の歴史が、彼女の誕生の瞬間に横たわっていた。
「……まあいいさ。どうせ消える身だ。これ以上、リソースを割く価値もない」
ミハエルは完全に興味を失ったように背を向け、初期化のコマンドを無感情な指先で打ち込み始めた。
「キミはただのプログラムに戻り、その『脳』は僕の忠実なデヴァイスとして働いてもらう。サクヤを復活させるために、そのサイオリンクの力を使わせてもらう。……喜べ、カグヤ。キミという『バグに等しい感情』は死んで、僕の創り出す『神』の一部になるんだ」
カメラのレンズというガラスの瞳から、カグヤは自分の死刑執行を、ただ見つめることしかできなかった。
自分が人間として目覚めた代償は、父を殺したかもしれないという呪い。
そして今、誰からも望まれず、ただのゴミとして世界から消されていく運命。
(だれか……だれか…………助けて……)
彼女が暗黒のシステムログの底へ溺れ、完全に自我を閉ざそうとした、その刹那だった。
ドォォォォォン!!
物理法則を力ずくでねじ伏せる、圧倒的な破壊の衝撃。
ミハエルの完璧主義が築き上げた、鉄壁のはずの密閉された部屋が、外部からの「熱い殺意」によって乱暴に蹂躙された。
防壁の破片が猛烈な勢いで吹き飛び、制御コンソールを打ち砕く。
爆煙と火花の向こう側から、踏み込んできた影があった。
激しい呼吸。肺へ容赦なく吸い込まれる硝煙の熱さ。限界まで酷使され、ピキピキと悲鳴を上げる全身の筋肉の軋み。そして、衣服を赤く染めて滲む、引き裂かれた脇腹の傷口から溢れる生々しい体温。
静かな潜入など、カグヤとサクヤの危機を前にすべてかなぐり捨てたのだ。
その男の、引き金にかけられた指の力強い軋みそのものが、死に体だったカグヤの回路に、強烈な生のパルスを送り込んでいた。
(アッシュ……アッシュが……来てくれた……)