硝煙の匂いを引いたアッシュが、最上階の静寂を切り裂いた。
「……ミハエル」
硝煙と、先ほどまで潜り抜けてきた死線で浴びた返り血の生臭さを全身に纏い、アッシュが青白い電子の光の中に姿を現す。右手に握られたシグの銃口は、重力に逆らうことなく、床を指していた。すぐにでも跳ね上げ、火を噴かせられるだけの緊迫感を指先に宿したままで。
「やあ、親友。また会ったね。……全く、キミのその執念深さだけは、アカデミーの頃から変わらず『優秀』だよ」
ミハエルは振り返りもせず、ピアノの旋律を奏でるような流麗な手つきでコンソールを叩き続けている。その視界の先には、先ほどまでカグヤが宿していた温かみを失い、虚ろな人形へと変貌しつつある有機ボディが横たわっていた。
自我データが引き抜かれたことで、個性を形作っていた有機ナノマシンの結合がリセットされ、それは滑らかで、あまりに空虚な「人形」へと退行している。さっきまでアッシュの上着の重みを感じていたはずの少女の身体は、今や光沢のあるプラスチックのような冷たさで横たわっていた。
「……二人を、どうするつもりだ」
アッシュの低い声が、広間の冷え切った壁に反響する。
「カグヤの自我は削除する。そして、サクヤの魂をこの有機ボディに転送《ダイブ》させるのさ。……見てごらん、アッシュ。彼女に相応しい、誰にも汚されていない、真っ白な『器』だ」
ミハエルが指し示した先で、カグヤの抜け殻だった肉体が、新たな幽霊《ファントム》を迎え入れるための準備として、静かに、規則正しく脈動を始める。
「貴様……ッ!」
「無駄だよ、アッシュ。もうサクヤのデータのインストールは最終フェーズに入っている。……それと同時に、このカグヤという人格データも、完全削除のシーケンスに移行中だ」
コンソールのプログレスバーが、心拍音のような電子音を伴いながら、非情な速度で上昇していく。カグヤの魂を幽閉している演算ユニットの冷却ファンが限界を超えた高音を上げ、モニターには『Erase: 99%... 98%...』という、データ消去のカウントダウンが刻まれていた。
「さあ、決着の時間だ。ボクとキミの長かったあの黄金の時は、終わりを告げる。キミという存在が消えることでね」
ミハエルは、舞台上の主役がアンコールに応えるかのような優雅な所作で、仕立ての良いジャケットを脱ぎ捨てた。ネクタイの紐を緩めながら、壇上のコンソールから一段、また一段と降りてくるその足取りは、極めて軽やかだ。
その瞳には、かつてアカデミーの光の中で競い合った眩い日々を慈しむような、ひどく歪んだ、狂気じみた情愛が宿っていた。
「懐かしいな、アッシュ……。まるで、あの黄金の日々に時計の針を戻したみたいじゃないか。学問も、スポーツも。……そして、サクヤという唯一の太陽を巡る、あの残酷な恋もね」
「……ふざけるなッ!」
アッシュの咆哮が、広間の空気を爆ぜさせた。
床のコンクリートを力任せに削り取るような、凄まじい踏み込み。爆発的な推進力で一きわ大きく地を蹴り、一瞬で間合いを盗み取ると、アッシュは古流武術の理を乗せた鋭利な一撃――全身の捻りを一点に集中させた鋼のごとき肘を、ミハエルの胸板へと容赦なく叩き込んだ。
神代心眼流《かみしろしんがんりゅう》が誇る、肉体の芯まで衝撃を浸透させる「鎧通し」の肘打ち。
鈍い破壊音が鼓膜を震わせる。だが、ミハエルは避けようとも、防御しようともしなかった。
衝撃をその身に直撃させた瞬間、ミハエルの身体は物理法則を嘲笑うかのように不自然な角度で後方へ折れ曲がり、次の瞬間には見えないバネに弾かれたように、元の姿勢へと平然と跳ね起きた。
その、歪んだ口角から滴り落ちたのは、赤ではない。
アブドゥルと同じ――粘り気のある「白い血」だった。
「……一つ、良いことを教えてやろう、アッシュ」
不自然な角度から跳ね起きたミハエルの顔には、痛みへの恐怖など微塵もなかった。
口角から滴る白い血が、仕立ての良いシャツを汚していく。それは、彼がもはや心拍や体温に支配された「生物」ではなく、企業の論理《ロジック》で駆動する「最高級の精密機械」へと成り果てた証だった。
「ボクのこの仮初めの心臓の鼓動は、あの二人のデータと完全に同期している。……わかるかい?ボクの心音が停止したその刹那、インストールも削除も、一斉に強制終了される。……彼女たちは、永遠に電子の闇へと放逐されるのさ」
ミハエルは自身の胸を愛おしげに、あるいは勝利を確信したように指し示した。
皮膚の下で青白く明滅する絶望的な光。それは、アッシュに向けられた「死の起爆装置」のカウントダウンそのものだった。
ミハエルの心臓が止まる。そのコンマ数秒後、カグヤの自我は消失し、サクヤの魂は再構築の途中で永遠に霧散する。アッシュがミハエルへの憎しみを晴らせば、愛する者も、守るべき者も、すべて道連れに消える。
「……どこまでも、周到なヤツだな!」
アッシュの喉から、血の味のする呻きが漏れた。
激しい呼吸のたびに、地下河川で自ら縫合した脇腹の傷が引き裂かれるように痛み、じわりと熱い血液が衣服を濡らす。この生々しい痛覚のすべてが、ミハエルの不滅の肉体と不条理なまでに対比されていた。
コーポレートスクール時代、ミハエルは常にアッシュの「一手先」に保険をかけ、その埋めがたい実力差をシステムという名の暴力で埋めようとしてきた。その醜悪な完璧主義が、今、最悪の形で結実している。
アッシュの奥歯を噛み締める音が、軋むように響く。ミハエルはそれを、この上ない賛辞として受け取った。
「合理的、と言ってほしいな。……さあ、始めようか。ボクを殺せば、キミの愛した女も可哀そうな月の姫様も消える。ボクを殺さなければ、キミの命が消える。……キミにとって、最高にエキサイティングな詰みだろ?」
ミハエルは優雅に、自由な手で、かつての親愛を模した冷たい手つきでアッシュへと手を差し伸べた。
まるで、二度と戻れないあの黄金の日々の、終わりを告げるかのように。