ファントムコード 月下の迷子(カグヤ)   作:ふゆのねつ

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第41話:亡霊の逆流

 青白いモニターの光が激しく明滅する中、二人の影が嵐のような速度で交錯する。

 アッシュの心は、ジリジリとした焦燥に焼かれていた。この絶望的な袋小路をどう打破すべきか、脳裏を掠める思考の迷いが、彼の誇る銃術《ガン・ジュツ》の鋭いキレを確実に奪っていく。鎧どおしの懐刀である「シグ」を完全に封印された形となった。

 

 渾身の力を込めた肘撃ちを叩き込んでも、企業の最新技術で完全に機械化されたミハエルの肉体は、強固な岩のように揺るがない。逆に、敵の容赦ない打撃を腕でガードするたび、アッシュの腕の骨がミシリと不快な音を立てて軋み、肉を透過した凄まじい衝撃が芯にまで響いた。生身の防壁が、じわじわと内側から破壊されていく感覚。

 

「……ごふッ……!」

 

 間髪入れずに放たれた、脇腹を抉るような強烈な回し蹴り。その蹴りは応急処置を施しただけの部位に直撃した。縫合部分が弾け飛ぶような激痛と共に、アッシュの身体は数メートルも吹き飛び、冷たい床の上を無様に転がった。口内に溢れた鉄の味――血の混じった熱い唾を、彼は床に吐き捨てた。

 

「……人間も、とうに捨てたんだな」

 

 アッシュは千切れそうな呼吸を繋ぎながら、鋭い視線で元親友を睨みつける。

 

「肉体なんて、データを宿すためのただの器に過ぎないだろう? なら、より強固な、決して壊れない器を求めるのは生命としての正しい生存本能だよ」

 

 ミハエルは一歩、また一歩と、ミリ単位の狂いもない正確な足取りで歩み寄ってくる。

 

「サクヤも、カグヤも、そしてボクも。……この新しい世界では、誰もが羨む不滅の福音を手に入れる。アッシュ、キミだけが置いていかれるのさ。その脆くて、不自由で、常に痛みに怯えなければならない『人間』という名の監獄に、一人で取り残されたままでね」

 

 額から流れ落ちる流血が、視界を赤へと染めていく。

 ミハエルの心臓を撃てば、かつて愛したサクヤも、いま守るべき少女カグヤの存在も、すべてが電子の塵となって消える。だが、このまま撃たなければ自分が殺され、全てはミハエルの歪んだ情愛のままに蹂躙される。

 

 絶望的な攻防の最中、アッシュの脳裏に、ふいにネットライナー・アマテラスの悪戯っぽい言葉が蘇っていた。

 

『了解。……あ、それと。さっきのアブドゥルの量子魂に、ちょっとした「ご馳走《ウイルス》」を混ぜておいたわ』

 

(……ご馳走《ウイルス》、か)

 

 一つの閃きが、アッシュの思考を覆っていた絶望の霧を瞬時に晴らした。

 彼はすべての命運をかけた賭けに出るため、ミハエルの電子の波形が刻む一糸乱れぬリズムがほんの一瞬だけ崩れる、針の穴のような「隙」をじっと待った。全身の筋肉から無駄な強張りを消し去り、大気から酸素を深く吸い込み、すべての重心を足裏の一点へと凝縮していく。

 

 その時だった。

 消去の最終段階に達していたカグヤの演算ユニットから、突如として一筋の美しい緑の量子光が迸った。それと同調するように、サクヤのデータを転送している量子装置のコアからも、激しい緑の光が溢れ出す。鼓膜を狂わせるような電子の悲鳴が、物理的な衝撃波となって、最上階の広間に吹き荒れた。

 

「……っ!? ……な、んだ……これは……っ!」

 

 サクヤとカグヤの魂を強引に同期させていたミハエルの身体が、システムエラーを起こしたかのように、一瞬だけ不自然に硬直した。

 

 アッシュはこの千載一遇の好機を、見逃さなかった。

 床のコンクリートを爆ぜさせる、渾身の「爆脚《ばっきゃく》」。アッシュは網膜に残像すら置き去りにする神速の踏み込みでミハエルの側をすり抜け、流れるような転身でその背後へと滑り込む。蛇のようにしなやか、かつ鋼のように強靭に鍛え上げられた腕が、ミハエルの首を完全にロックした。アッシュは全身の体重と、引き絞った背筋の力を爆発させ、抵抗する巨体を無理やり床へと引き倒す。

 

「……おい、おい……聞こえなかったのか? ボクの心臓が止まれば、あの二人も……ッ!」

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 アッシュは懐から、鈍い銀光を放つ量子メモリキーを迷いなく抜き放った。

 

「おい……何をする気だ……やめろ、アーーーーッシュ!!」

 

 ミハエルの取り乱した絶叫を、沈黙で塗り潰す。

 

 アッシュはそのメモリキーを、ミハエルの首筋にある、剥き出しになったチタン製のインターフェースへと深く、骨を穿つほどの勢いで容赦なく突き刺した。

 

 中に入っているのは、アマテラスが裏で改造を施していた「ロジックボム」だ。

 企業の廃棄物として無残に改造され、最期を遂げた男の、行き場のないドス黒い怨念。その呪詛に等しいバグ・プログラムが、逆流する泥流となって、ミハエルの洗練された脳内の電脳ネットワークへと一気に流れ込んでいく。

 

 高潔さを気取っていたエリートの思考回路が、アブドゥルの荒々しいソウルの嵐に一瞬で飲み込まれ、ドロドロとした白濁に塗り潰されていった。

 

「あ、が……あ……あああああッ!!」

 

 ミハエルの瞳から知性の光が完全に掻き消え、言葉にならない獣のような叫びが広間に木霊した。

 数秒の激しい痙攣。そして、パツンと糸の切れた人形のように、ミハエルの全身から全ての力が抜けた。

 

 人工心臓は、一定のリズムでドクン、ドクンと機械的な脈動を刻み続けている。

 だが、その内側にあった「ミハエル」という傲慢な人格、その自我は、もはやこの世界のどこにも存在しなかった。アマテラスが仕込んだ最悪の電子の毒によって、彼の精神は二度と修復できない永遠の暗闇へと沈められたのだ。

 

「……おやすみ、親友。これで、誰にも邪魔されずにぐっすり眠れるだろ」

 

 アッシュは完全に力なく崩れ落ちたミハエルの身体を、冷たいコンクリートの床に横たえた。

 

 植物状態。心音を刻み、排熱だけを繰り返す、文字通りの「空っぽの器」としての余生。

 

 皮肉にも彼は、あれほど自ら望んでいた「決して壊れない器」そのものへと成り果てたのだった。

 

 アッシュはふらつく足取りで、激痛が走る脇腹を押さえながら、カグヤ……そして、サクヤの量子魂が光の渦となって漂う中央コンソールへと向かった。

 

 ミハエルとの因縁は、ここに終わった。

 だが、まだ救い出さなければならないものが、この激しく明滅する光の中に残っている。

 

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