アッシュは鉛のように重い足取りで、カグヤとサクヤ、二つの意識が幽閉された中央の演算ユニットへと歩み寄った。
激闘の代償として、全身の筋肉が千切れんばかりに軋み、引き裂かれた脇腹からは絶え間なく熱い血液が滴り落ちている。乱れる呼吸を必死に整えながら、血と硝煙に汚れた指先で、ネットライナー・アマテラスとのラインを強制的に接続した。
コンソールの裏側で、ミハエルが遺した幾重もの強固な防壁と戦い続けていた彼女の暗号ログが、アッシュの眼の前のホロウインドウと同期される。立ち上がったアマテラスの虚像は、かつてないほど苦渋に満ちた表情を浮かべていた。
『アッシュ……状況は、こちらの回線からも見ていたわ』
「アマテラス……二人とも救う方法は、本当に、ないのか?」
『……私にそんな残酷なことを聞かないで、アッシュ。魂の領域にまで昇華されたデータなんて、私の専門外よ……』
アマテラスの震える声が、逃げ場のない冷酷な二者択一をアッシュに突きつける。
『カグヤのパーソナルデータの30%は、既にこのシステムに消失させられたわ。あと数十秒で、彼女の自我を形成する最も深いコアまで侵食が始まる。……そして最悪なことに、この消失速度はサクヤのデータ転送率と完全に同期しているの。……意味は、わかるわね?』
カグヤの消去シーケンスを止めれば、サクヤの転生への道は永遠に断たれる。
逆にサクヤをこの有機の器に呼び戻せば、カグヤという少女の魂は二度と復元できない領域へと変わり、冷たい電子の塵となって消え去る。
『……多少は、私の方でサーバーに負荷をかけて時間を遅らせることができるかもしれない。だけど……それでも、もう本当に時間がないわ。アッシュ、選びなさい。あなたの、その手で』
アッシュの指が、明滅するコンソールの前で激しく震えた。
かつて、スラムの最底辺で飢えと寒さに震えていた自分を拾い、戦い方を教え、生きるための居場所を与えてくれたカミシロ家。そして、己の荒みきった心を融かすように優しく微笑んでくれた、サクヤのあの暖かな面影。
いま、この指先一つで、彼女をこの世界に呼び戻すことができる。
だが、その代償として支払われるのは、先ほどまで自分の背中に滲む血を懸命に拭ってくれた、あの生温かい体温を持った少女の「死」だった。
「サクヤ。俺は……」
演算ユニットの冷却ファンが悲鳴のような高音を上げて激しく回転し、非情なカウントダウンを刻んでいく。
***
暗く、静かな電子の領域。
デリートの波に洗われ、自らの形を急速に失いかけていたカグヤの意識は、その深淵の果てで、クラゲのように儚く漂う「何か」を見つけた。
淡い光を放つそれは、情報の奔流を美しく編み上げ、やがて一人の女性の形を結んでいく。
「あれ……? わたし、とうに死んだはずなのにな。……変なところ」
その影は、自身の透き通った掌を不思議そうに眺め、小さく首を傾げた。
「……あなたは?」
カグヤの微かな問いかけに、その影が優しく振り返る。
「ああ、はじめまして……かな。わたしはサクヤ。あなたは?」
「わたしは……カグヤ……」
初めて交わす言葉のはずなのに、なぜかずっと昔から知っているような、胸が締め付けられるほどに愛おしい既視感が満ちていく。カグヤの中に移植されようとしていたサクヤの記憶の断片が、オリジナルの魂と共鳴し、電子の海の底で熱を帯びていくのが分かった。
「そっか。はじめまして、カグヤさん。……さてと。アッシュとミハエル、またバカみたいに喧嘩してたみたいだね」
「喧嘩……というか、あれは……」
「アハハ、わかってるよ。なんとなく、あっちの感覚が伝わってきてたから。……もう、わたしはあそこに行って、止めてあげることができないんだなーって」
サクヤは寂しげに微笑み、遠い空を見上げるような顔をした。その表情は、アッシュが暗い記憶の中で、ただ一度の救いとして大切に守り続けてきたあの「太陽」そのものだった。
「サクヤ。……アッシュが、ずっとあなたを探している。あなたに、どうしても会いたいって、命を懸けてここまで……」
カグヤの切実な訴え。自分の存在をすべて否定してでも、目の前の愛する人を救いたいという純粋な願い。
サクヤは、自分よりもずっと幼く、脆く見えるその新しい命を慈しむように見つめ、優しく微笑んだ。
「……ありがとう、カグヤさん。本当に優しいんだね、あなたは」
サクヤの放つ言葉は、周囲のシステムノイズをすべて消し去るほどに澄み渡っていた。カグヤの論理回路《ロジック》は、その言葉に含まれた圧倒的な慈愛の深さを解析しようとするが、どうしても測りきれずに、ただ温かな涙のようなパルスを刻み続けることしかできない。
二人の魂が触れ合う境界線。そこでは、ミハエルが企てた「上書き」という名の傲慢な侵略が、奇跡的な「調和」へと姿を変えていた。サクヤの幸福な記憶がカグヤの心に静かに染み渡り、同時にカグヤが現実世界で肌に感じたアッシュの生々しい温もりが、サクヤの意識へと伝わっていく。
(……サクヤ。あなたは、こんなにもアッシュを……大切に想っていたんだね)
カグヤは、サクヤの想いに触れながら、自分自身の中に眠っていた西園寺との幸福の断片を思い出し、胸の奥が切なく締め付けられるのを感じた。
対するサクヤの影は、カグヤの首筋にある、まだ何者にも染まっていない真っ白な肌をそっとなぞる。それは彼女が、何よりも大切に守りたかった、現世にたった一度きりしか与えられない「命」の形そのものだった。
「カグヤさん……。あなたは私の代わりに作られた人形なんかじゃない。アッシュがその手で、ボロボロになりながら救い出した、新しい未来。……あなたは彼と一緒に、これからたくさんのことを肌で感じて、生きていかなきゃダメだよ」
サクヤの輪郭が、少しずつ、けれど確実にまばゆい光の中へと溶け出していく。
インストール・シーケンスの逆流。サクヤは自らの確かな意思で、この有機の器から離れ、電子の深淵へと還ろうとしていた。
「だめ……! サクヤ、あなたがいなきゃ、アッシュは……!」
「いいの。……だってわたしは、あの人の中で、もうずっと生きているから」
サクヤは最後に、かつて我儘なアッシュを叱った時のように、悪戯っぽく、けれど世界で一番美しい微笑みを浮かべた。
「さようなら、カグヤさん。……アッシュを、よろしくね」