最上階を支配する静寂を切り裂き、曇ったモニターの画面に、ノイズ混じりの一文が浮かび上がった。
『……私を、消して。……あなたは、サクヤに会いたいんでしょう?』
それはシステムが弾き出したエラーログなどではなかった。カグヤという一人の少女が、電脳の檻の底で震えながら、自らの存在のすべてを賭して差し出した、あまりに無垢な願いだった。画面の奥で激しく明滅する緑のインジケーターが、彼女の消滅への猶予がゼロに近づいていることを非情に示している。
その瞬間、アッシュの脳裏に、遠い日の陽だまりの中で穏やかに微笑むサクヤの面影が鮮烈にフラッシュバックした。耳の奥で、あの日、彼女が最期に遺した掠れた声が、確かな熱量を持って木霊する。
『――私の魂は自然に還るだけだよ。だから悲しまないで、アッシュ。わたしは、あなたの心の中で……』
「……ああ。そうだな、サクヤ」
アッシュは自嘲気味に、けれど胸の突っかかりが綺麗に消え去ったような晴れやかな微笑みを浮かべた。そして、迷うことなくサクヤの転送シーケンスを「強制停止」するキーを深く叩き込んだ。コンソールを押し込む指先には、一切の躊躇も迷いもない、強固な意志が乗っていた。
直後、逆流した膨大な電気信号が激しい火花を散らしながら演算ユニットを駆け抜け、消えかけていたカグヤの量子魂《クォンタム・ソウル》が、元の器へと急速に引き戻されていく。過負荷に陥ったコンソールが甲高い駆動音を上げ、システム全体が大きな震動を繰り返した。
重厚な排気音とともに、中央のカプセルのハッチが左右へとスライドして開いた。内部に満ちていた乳白色の冷却液が波となって床へと勢いよく溢れ出し、冷たいコンクリートの上を広がっていく。その中央で、無数のナノ細胞マシンが淡い緑の光の粒を放ちながら、カグヤの輪郭を足元から順に、鮮明に再構築していった。
濡れた鴉の羽のような美しい黒髪が、溢れる溶液の波に揺れながらしなやかに伸びていく。それまで光沢のあるプラスチックのようだった肌へ、刻一刻と血色が差していき、胸元が小さく、規則正しく上下を始めた。途切れていた呼吸が、再びこの世界へと繋ぎ止められた瞬間だった。
ゆっくりと開かれたその瞳は、濁りのない、深い、深い黒。それは失われかけていた個性が、再び確かな重みを持ってこの肉体に定着した証だった。彼女は信じられないものを見るように、潤んだ瞳でアッシュの姿をまっすぐに見つめた。
「……どうして!? わたしは……消えるはずだったのに。あなたは、サクヤを……」
アッシュは力なくその場に膝をついた。引き裂かれた脇腹からの痛みが全身を襲ったが、表情ひとつ変えず、血と硝煙の匂いが染みついた自分の上着をカグヤの細い肩へと優しく掛け直した。衣服の生地に残っていた己の確かな体温が、彼女の冷え切った身体へとじわりと伝わっていった。
「……あいつの魂は、あるべき場所へ還っただけだ。でも、俺の中であいつは生きている。……ずっとな」
カグヤの黒い瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。それは彼女の頬を伝い、アッシュの上着の襟元に小さな染みを作って、冷たい床へといくつも滴り落ちていく。
「どうして……! こんなにボロボロになって、こんなに自分の心を傷つけてまで……どうして、偽物のわたしなんかのために……っ!」
アッシュの手は、これまでの激闘で浴びた硝煙と自らの血でひどく汚れていた。けれど、カグヤの震える頬を包み込むその仕草は、驚くほど静かで、優しかった。ゴツゴツとした掌の確かな皮膚の感触が、彼女の柔らかい肌の熱を捉える。
「……俺の知っているサクヤは、他人の命を奪ってまで生きるようなヒトじゃない。死んだ人間を無理やり引きずり戻すなんて、あいつが一番嫌うことだ。それにカグヤ、君は偽物なんかじゃない。……その肌の温かさも、いま流している涙も、プログラムなんかじゃないだろう?」
アッシュはカグヤの頬を伝う雫を、そっと親指の先で拭った。
そして虚空を見上げ、もう二度と手が届かないはずの、けれどすぐ近くに気配を感じる誰かへと、祈るように静かに語りかける。
「……いつでも会える。そうだろ、サクヤ」
その問いに応えるように、最上階の広間に漂う緑の量子が一瞬だけ収束し、光の粒子で透き通った一人の女性の形を空中へと編み上げた。かつて誰もが愛し、アッシュが追い求め続けた、あの懐かしいシルエットだった。
『そうだよ、アッシュ。あなたがわたしを思い出してくれるなら、わたしはいつでも、あなたのそばにいるよ……』
アッシュはその柔らかな光の残滓に向けて、思わず手を伸ばした。触れる前に消えゆく温かな光の粒を、それでもそっと両手で掬い取るようにして、己の胸へと強く押し当てる。アッシュの左目からも、一筋の熱い涙が頬を伝い、床へと落ちて消えた。
ビルを吹き抜ける冷たい夜風が、最上階を満たしていた戦いの激しい熱を、穏やかに、少しずつ奪っていく。
ミハエルが求めた歪んだ永遠のシステムは霧散し、アッシュの手元には、新しく芽生えたカグヤという名の確かな命の鼓動だけが残されていた。サクヤの魂は、今度こそ静かに世界の理の中へと還っていったのだ。アッシュの胸の奥、決して消えることのない不滅の記憶として根を下ろして。
「……行こう、カグヤ。夜が明ける前に。君はもう、どこにも行くあてのない迷子じゃない」
アッシュの声は、静かに、けれど揺るぎない強さを持って、冷え切った儀式の間を満たした。
カグヤは一瞬だけ戸惑うような仕草を見せたあと、アッシュの差し出された大きな掌を見上げ、涙を滲ませたまま、静かに微笑みを返した。
「……うん……ありがとう。アッシュ……サクヤ……」
アッシュはカグヤの小さな、けれど確かな体温を持つ手をしっかりと握りしめた。
そして、崩れかけた最上階の床を蹴り、遠くの地平線から朝日が昇り始めた、白み始める世界へと静かに一歩を踏み出した。
――月下の迷子(カグヤ) 完