空中へ投射されたのは、厳重な暗号化を告げる赤いホロ・ウィンドウ。
『ミハエル=シュトックハウゼン / トライクロン支部(AIC統治企業)重役 / コーポレートオーダー:女神の獲得』
――――ミハエル=シュトックハウゼン
かつてアッシュがカミシロのお嬢様であるサクヤの学園生活の護衛として通ったコーポレートスクール時代の、数少ない「友人」だった。そんな彼は今は、四大経済ブロックの一つ『北米・南米複合(AIC)』を統治する巨大メガコーポ「トライクロン支部」の若き重役であった。
世界の秩序を飼い慣らす企業の最上階へ駆け上がったエリートと、死んだ女の影を追い、薄汚れた路地裏で牙を研ぐバウンサー。
完全に袂《たもと》を分かったはずの男からの拒絶を許さない短い一文だけが踊っていた。
『久しぶりだね、親友。例の“コーポレートオーダー”について相談したい。指定の座標《ポイント》で待っている。キミを探すのは苦労したんだ。断らないでくれよ。では、楽しみにしているよ』
「……相変わらず、勝手な男だ」
アッシュは口角を上げ、指先でウィンドウを弾いてマップを開いた。
そこには、ミハエルが送りつけてきた指定座標のナビゲーションだけが、赤く明滅し続けていた。
―――
簡単に準備を済ませ、部屋を出る間際、出口の脇にあるひび割れた鏡に、自分の顔が映る。
若さに似合わぬ光を宿した右目と、冷たいレンズが埋め込まれた赤い左目。
この左目を失った日のことは、今も鮮明に覚えている。
世界の下水道、最下層の暗黒街『アビス』の孤児だったあの日。生きるために盗んだバッグの代償は、一流の暗殺者による容赦のない制裁だった。潰された左目、溢れる鮮血。
だが、死の淵で少年が選んだのは絶望ではない。
視界を失った闇の中で、少年が唯一掴み取ったのは、死神『リュウ=カミシロ』の腕だった。
理性を捨て、ただ生きるためだけにリュウの腕へ顎《あぎと》を突き立て、その肉を喰いちぎった。あの日、少年は人間であることを辞め、アビスの獣に成り果てたのだ。血塗れの顎で世界を睨みつける――その狂気じみた生への執念だけが、伝説の暗殺者の心を動かした。
拾われ、鍛えられ、カミシロの家でリュウから『神代心眼流・銃術《ガン・ジュツ》』を叩き込まれた日々。
そして、そこで出会ったかけがえのない少女、サクヤ。
思い出の一部が、不意にフラッシュバックする。
『まーた、怖い顔してる。綺麗な顔してるんだから、もう少し柔らかい顔しなさいっつーの!』
サクヤはアッシュの頬をつねる。
指先で自分の頬をなぞれば、今も彼女の悪戯っぽい指の温もりが蘇る気がした。
『アハハハ! まあ、キミは優しい人なんだから。困っている人がいたら助けてあげること。いい? 約束だよ』
かつて彼女が触れたその頬を、今は冷たい電子負荷バンド『Rバンド』が締め付けている。
彼女が遺した呪いのような「優しさ」は、彼女を失った今、鋭利な刃となってアッシュの胸の奥に深く突き刺さっていた。
「……優しいはずがないだろう、サクヤ。俺は今も、泥の中だ」
自嘲気味につぶやき、量子メモリーキーのペンダントを首にかける。
その首裏には、この地の住人なら誰もが持つはずのポート――『量子回路《クオンタム・サーキット》』の突起は存在しない。首裏にプラグを持たないアッシュは、魂のバックアップがない『一度きりの命』という名の欠陥品のままだ。
だが彼にとって、このポートのない滑らかな肌こそが、サクヤと同じ世界――一人の人間として自然に死にゆく世界へ繋がる唯一の、そして最後の絆だった。
重い鉄扉のロックを解除し、アッシュは部屋の外へと踏み出した。
薄暗い安アパートの廊下は、カビの臭いと酸性雨の湿気に満ちている。鉄格子の嵌まった共用窓の向こうには、かつてアメリカと呼ばれた地の、退廃した夜の残骸が広がっていた。
大戦の爪痕を覆い隠すようにそびえ立つ、トライクロン社をはじめとした複合企業の巨大な摩天楼群。その窓から漏れるホログラム広告の光が、網膜を焼くような極彩色で、下層の薄汚れた路地裏を惨めに照らし出している。
リストバンドの負荷による痛みを呼吸で御しながら、アッシュ――“名無し”の影が、日の当たらない廊下の闇へと消えていった。