上層階《アッパー・レイヤー》の空気は、下層《アビス》のそれとは根本的に違っていた。
高度なフィルターによって幾重にも濾過され、微かに人工的なシトラスの香料が混じった無菌の空気は、煤とオイルの匂いで満ちた下層の泥を吸い続けてきたアッシュの肺には、あまりに軽すぎて酷く不味かった。酸素濃度すら企業のアルゴリズムで最適化されたその空間は、アッシュにとって呼吸をするだけで喉が乾くような、奇妙な拒絶感を孕んでいる。
この先に、すべての糸を引く男――ミハエルが待っている。
重厚な意匠が施された玉座の間。その堅牢な入り口には、まるで直立する影のような黒服の私兵が二人、微動だにせず立ちはだかっていた。
彼らの耳裏には、感情を強制的にフラットにする戦闘用ナノマシンのインジェクターが埋め込まれており、微細なサーボノイズと共に、その網膜ディスプレイがアッシュの生体データをスキャンしていく。
「お待ちしておりました、アッシュ様。失礼ですが、安全確保のため武器はお持ちでしょうか。お入りになる前に一度、お預かりさせていただきます」
アッシュは背中の生体認証デバイス付きホルスターからシグを抜き、黒服の手元へと差し出した。
大戦後のこの時代、旧式の鉄塊は、電子ロックでがんじがらめになった企業のセキュリティ網において、逆に最も警戒すべき「制御不能なオーパーツ」だった。黒服は、重い金属の質量を持つシグを恭《うやうや》しく受け取ると、それを防磁仕様のケースへと収めた。
「ありがとうございます。では、中へお入りください」
静かにスライドした防音扉の向こう、通されたのは壁から天井に至るまで、すべてが微細な鏡面装甲で埋め尽くされた歪《いびつ》なVIPルームだった。
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頭上のミラーボールが放つ無数のレーザー光の粒が、金色のソファとガラスのテーブルの上を、まるで光の生き物のように這い回っている。壁一面の大型モニターに映し出された、AICの都市機能を一元管理するホログラフィックな夜景の青。そのサイバーブルーが、悪趣味な鏡の乱反射によって部屋全体を凍りつかせるように染め上げていた。
どこを見ても自分自身の姿が映り込む万華鏡のような空間。それはこれから始まる「仕事」の昏《くら》さを隠蔽するための、豪奢な檻そのものだった。
その部屋の最奥、最高級の炭素繊維スーツを纏い、まるで玉座に座る王のように黄金色のソファに深く腰かけていたのが、ミハエル=シュトックハウゼンだった。
資産家の血筋、明晰な頭脳、そして遺伝子レベルでデザインされた恵まれた体格。
生まれながらの絶対的な勝者。メガコーポの特権階級であるミハエルにとって、周囲の人間は自分を輝かせるための背景、あるいは消費されるだけのデータに過ぎない。その隠そうともしない特権意識と、徹底して下層の穢れを拒絶する佇まいは、まさに彼という男の支配権を象徴していた。
ミハエルとアッシュは、トライクロンが運営するコーポレートスクールの同級生だ。
サクヤもそこにいた。
ミハエルは、サクヤのことが気になり、気を挽こうとするが、いつもアッシュが彼女のそばにいたのだ。
そんな彼は、アッシュに何かと絡み、競い合おうとした。しかし、その傲慢は、アビスから這い上がったアッシュに完膚なきまでに叩きのめされることになる。
企業の最新教育プログラムを直接脳のニューロンへと流し込んでも、アッシュにはどうしても届かなかった。
どれほどの富とテクノロジーを注ぎ込んでも、アッシュに敗北し続けたという狂おしい事実。それは、敗北という概念すら知らなかったミハエルの魂に深く刻み込まれた、生涯消えない唯一の挫折の傷痕だった。
黄金のソファに深く背を預けたまま、ミハエルはゆっくりと顔を上げた。
黒い右目と、戒めの赤を宿した左目。その非対称なオッドアイで自分を見据えるアッシュの姿を鏡の群れ越しに網膜へ捉え、ミハエルは、まるですべてを許された親愛の情を込めるように、優雅に微笑んだ。