これではないと僕は泣いた -二度目の人生で、ゲームと一杯のラーメンを完成させるまで- 作:朝凪小夜
〔以下は事典的記録からの抜粋である。〕
ブロス
ブロス(Bros.)は、日本のゲーム制作会社。一九八一年、二川徹と木戸実によって西日本の商業都市に設立された。家庭向けの遊びを中心に数多くの作品を発表し、同時代の他社にはない滑らかな画面挙動で知られた。ゲーム制作のかたわら、社内で長年にわたって鶏を用いた汁物の研究が続けられたことでも知られ、当時からしばしば「異様な会社」と評された。創業から数十年を経た現在も存続しており、初期作品の多くは今日なお古典として遊ばれている。
概要
ブロスは、計算機技術者であった二川徹の設計思想を核として発展した。徹はあらゆる制作を「単純な基底から圧倒的な派生を引く」という一つの構造として捉えており、その思想は同社のゲームにも、後年の料理研究にも一貫して流れている。少人数の工房として出発し、代表作の商業的成功を経て中堅企業へと成長したが、規模の拡大の後も「粗いものを世に出さない」という創業期の方針を保ち続けた。この姿勢が、二度にわたる市場の崩落を生き延びる要因になったとされる。
同社の制作物は、遊戯と料理という二つの領域にまたがるが、その根底には常に「遊ぶ者・味わう者を、我を忘れさせるほどに夢中にさせる」という一貫した目的があった。作り手の技巧を誇示するためではなく、受け手の没入を守るために技術を尽くす、という姿勢は、同社のあらゆる制作物に共通している。
同社の作品世界には「切れたものは、いずれまた繋がる」という主題が繰り返し現れる。これは創業者二川徹の一貫した関心であったとされ、ゲームの物語だけでなく、同社そのものの成り立ち――一度は別々の道を歩んだ人々が、時を経て一つの工房に集っていった経緯――にも、同じ形が認められる。
沿革
設立と初期
同社は、大手計算機メーカーの計算機部門に勤めていた二川徹が独立し、旧知の技術者木戸実と二人で興した会社を起源とする。設立当初は集合住宅の一室に机を二つ置いただけの規模で、資金も人手も乏しかった。社名の「ブロス」は、二人の兄弟のような間柄に由来するとされるが、徹は後年、この名に汁の意味を重ねていたことを認めている。
設立は、好景気に沸く世相の中で、大企業の安定した職を捨てての船出であった。周囲はこれを無謀と評したが、徹は「作りたいものが、ここでは作れない」として独立を決めたとされる。当時、遊戯を制作して生計を立てるという発想そのものが世間には理解されず、同社の出発は極めて心細いものであった。
一九八〇年代前半、家庭用のパーソナルコンピュータの普及を背景に、同社は第一作となる射撃遊戯「光雨」を発表した。画面を覆うほどの弾を滑らかに動かす技術が評判を呼び、小さな市場の中で確かな地歩を築いた。「光雨」の販路開拓は難航したが、一度実際に遊んだ問屋主人がその挙動の滑らかさに驚嘆し、取り扱いを決めたことが転機となったと伝えられる。作品そのものの質が販路を開いたこの経緯は、以後の同社の姿勢を象徴する挿話としてしばしば引かれる。作品を遊んだ見知らぬ人々からの反響が制作者のもとに届くようになり、小さな工房は次第に会社としての体裁を整えていった。ほどなく元漫画家志望の冬野澪が物語制作者として加わり、それまで機械技術に偏っていた同社の制作に、物語と絵という新たな軸が加わった。
市場の崩落を越えて
一九八〇年代半ば、海外に端を発する遊戯市場の崩落が国内にも波及し、粗製濫造によって消費者の信用を失った多くの制作会社が姿を消した。ブロスは品質本位の姿勢を崩さなかったことで顧客の信用を保ち、この淘汰を生き延びた。同社はこの時期に、旗艦作となる長編物語遊戯「連環」の制作を水面下で進めていた。
崩落による淘汰は苛烈で、同社と同時期に出発した小規模な制作会社の多くが姿を消した。同社が生き延びたのは、抜きん出た才能によるというより、粗いものを出さずに信用を積んでいたことと、わずかな時の運によるものだったと、後年、創業者自身が述懐している。市場が縮小し注文が細る困難な時期にあって、同社はあえて大作の制作に着手した。嵐の去った後に本物を求める顧客の前へ、生き延びた本物を差し出す、という判断であったとされる。この逆張りの戦略は、後の経済の崩壊期にも繰り返され、同社の一貫した経営姿勢となった。
円熟
嵐の去った澄んだ市場に投入された「連環」は、同社最大の成功作となった。裂かれた国を巡って人と土地の絆を結び直していくその物語は、遊び手の心を強く捉え、遊戯が単なる娯楽を超えた表現たりうることを示したと評価される。続いて発表された静かな読み物遊戯「灯」は商業的な規模こそ小さかったものの、孤独な遊び手に深く愛され、長く語り継がれる作品となった。
一九九〇年前後、投機を主因とする好景気の崩壊が国内経済を襲い、堅実とされた多くの企業が沈む中で、同社は家庭用の遊びという実需に支えられてむしろ業績を伸ばした。この頃、かつて徹と学生時代に袂を分かった理論家・遠山慧が同社に合流している。遠山の理論的貢献により、初期作に残されていた技術的な制約が解消され、同社の表現は飛躍的に深化した。
遠山の合流は、同社にとって単なる人材の補充にとどまらなかった。それまで創業者の直観と実装の工夫によって回避されていた根本的な技術課題――膨大な要素を小さな規則から生成し、また元の規則へ遡って再構成する計算の問題――に、遠山の理論が正面から解を与えたのである。この解決により、同社の作品はかつて制作者自身が想定していた完成度をも超え、当時の技術水準では説明の難しい複雑な挙動を示すに至ったとされる。学生時代に一度は別々の道を選んだ二人の技術者が、数十年を経て同じ工房で協働したこの経緯は、同社の歴史における象徴的な出来事として語られる。
世代交代と現在
一九九〇年代以降、創業世代は次第に一線を退き、彼らの技術と設計思想は若い制作者たちへと受け継がれていった。ブロスは特定の傑作に安住せず、自社の過去作を自ら更新し続ける社風で知られ、その姿勢は世代を越えて維持された。創業者らの没後も同社は存続し、現在は創業家の次世代を含む後継者たちによって運営されている。初期三作は復刻を重ね、今日も新たな遊び手を得ている。
創業者らが一線を退いた後も、同社は「自社の最高傑作を、自社の手で過去にし続ける」という気風を保ったとされる。過去の栄光に安住せず更新を続けたこの姿勢が、世代交代を経ても同社が活力を失わなかった一因と評価されている。二川徹の長男をはじめとする創業家の次世代が経営と制作に関わり、また創業世代に育てられた制作者たちがそれぞれに独立して新たな作品を生むなど、同社の技術と思想は複数の系統に枝分かれして受け継がれた。
主な作品
光雨(こうう)
一九八〇年代前半に発表された同社のデビュー作。降り注ぐ弾を避けながら撃ち返す射撃遊戯で、当時の乏しい機械では不可能とされた大量の弾の滑らかな描画を実現した。冬野澪による表題画も評価が高い。
同作は、遊び手の技量に応じて弾の降り方が変化し、単純な規則の上に際限のない駆け引きが生まれる設計で知られる。この「単純な基底から派生を引く」構造は、以後の同社作品すべてに通底する設計思想の原型となった。
連環(れんかん)
同社の代表作とされる長編物語遊戯。大いなる災いによって幾つにも裂けた国を、主人公が一つずつ巡って絆を結び直していく。緻密な世界設計と物語性で高く評価され、後の同種の遊戯に大きな影響を与えた。
広大な世界を限られた機械で表現するために、同作では世界そのものを保持せず、単純な規則から必要に応じて生成する手法が採られた。発表当初、この生成には技術的な限界に由来するわずかな粗さが残されていたが、制作者はそれを物語の演出や画面表現によって巧みに覆い隠していた。後年、遠山慧の理論によってこの粗さは解消され、復刻版では当初構想された完全な形に近づいたとされる。
灯(ともしび)
言葉と選択を主体とした静かな読み物遊戯。派手な演出を排し、暗がりの中で読み進める体裁をとる。孤独な読み手に寄り添う作品として、発表から長い年月を経てなお熱心な支持を集めている。
技術的特徴
同社の作品は、同一の機械を用いた他社作品と比べて画面の動きが際立って滑らかであることで知られた。その原因は長く不明とされ、後年の技術者による解析で、桁の反転や図形の重ね合わせを用いた低水準の独自技法が多用されていたことが明らかになった。これらの技法は当時ほとんど知られておらず、同社の作品に「原因の説明できない好い挙動」という評をもたらした。
人物
二川徹(ふたかわ とおる、一九五四年–二〇二九年)
同社創業者。西日本の下町に生まれ、幼少期から機械や遊びの制作に没頭した。近所の中華そば店で理想の味を求めて泣いたという幼時の逸話が伝わる。西日本の大学で計算機に触れ、メーカー勤務を経て独立した。生涯を通じて「作る側の人間」を自認し、遊戯の設計と、後年の汁物の研究に情熱を注いだ。妻は物語制作者の冬野澪で、二人の間には一男一女があった。長男は後にブロスの制作に携わり、長女は父の始めた食の事業を継いだとされる。家庭を顧みる余裕のなかった多忙な時期もあったが、晩年の徹は、妻や子、弟の一家、そして長年の協働者たちに囲まれて、穏やかな日々を過ごしたと伝えられる。若き日に独りで多くを抱えていた人物が、晩年には数えきれない縁に支えられていたことは、彼を知る者がしばしば語るところである。
徹の人物像については、寡黙で、世間の評価や流行に流されない独立した判断で知られたと伝えられる。周囲が堅実とみなす選択をあえて避け、玩具と侮られていた遊戯に将来を賭けた若き日の決断は、後年ことごとく正しかったことが証明された。もっとも本人は、自らの先見を誇ることをせず、むしろ「作りたいものを作りきるには、独りの才ではなく、人との縁が要る」としばしば語ったとされる。徹は晩年、理想の一杯の完成に多くの時間を費やした。二〇二九年に没。
冬野澪(ふゆの みお、一九五八年–二〇三五年)
物語制作者。当初は漫画家を志したが、その繊細な画風と正統な物語が当時のいずれの潮流にも合わず、世に容れられなかった。ブロスに加わって以降、その資質は遊戯という器を得て開花し、「連環」「灯」をはじめ同社の物語の多くを手がけた。二川徹の妻。夫の没後も数年を生き、晩年まで後進の育成にあたった。
澪の描いた物語には、失われた絆や忘れられた者への眼差しが繰り返し現れる。世に容れられなかった長い雌伏の時期の経験が、その作風に深く影を落としているとされる。当時のいずれの潮流にも合わなかった彼女の資質は、遊戯という重層的な器を得て初めて本領を発揮した。時代に早すぎた才能が、別の器を得て時代を越えて届いた例として、しばしば言及される。
木戸実(きど みのる、一九五四年–二〇二八年)
技術者。徹の学生時代からの友人で、同社の共同創業者。機械の実装を一貫して担い、徹の設計を形にし続けた。純粋に機械を愛する人物として知られ、生涯を通じて徹の最も古い協働者であった。家庭を持ち、その技術は社の若手へと受け継がれた。
徹と木戸は、両者がまだ別々の勤め先にいた時代から書簡を交わし、いつか共に遊戯を作る構想を紙上で温め続けていた。この文通が、後のブロス設立の萌芽となったと伝えられる。木戸は生涯を通じて、徹の構想を現実の機械の上に形づくる役割を担い続けた。
遠山慧(とおやま けい、一九五三年–二〇一八年)
理論家。徹の一年上にあたり、学生時代に才を認め合いながらも、遊戯の将来性をめぐって袂を分かった。長く堅実とされる研究の道を歩んだが時代の転換に取り残され、不遇の時期を経てブロスに合流した。合流後は同社の作品に理論的な深みをもたらし、晩年には徹の汁物研究にも協力した。情報を凝縮し展開する彼の理論は、遊戯にも料理にも同じ形で通用したと伝えられる。創業世代の中で最も早く、二〇一八年に没した。
遠山の理論が、遊戯の内部処理と、後年の汁物の味の展開という、まったく異なる対象に同じ形で適用できたことは、同社の思想を象徴する事実としてしばしば挙げられる。徹はこれを「世界は、案外どこも同じ骨でできている」という遠山の言葉とともに記憶していたという。
二川健(ふたかわ けん、一九六一年–二〇三九年)
二川徹の実弟。物流業を営み、堅実な仕事で知られた。兄が汁物の研究を本格化させて以降、良質な鶏の安定供給を担い、その完成を支えた。長く別々の道を歩んだ兄弟が晩年に再び手を携えた経緯は、同社の逸話としてしばしば語られる。健の家系は現在も物流業を続けており、その子は徹の甥にあたる。
兄が夢を追って郷里を離れた後、両親の晩年を支えたのも健であった。地道に物を運ぶ仕事に生涯を捧げた弟の存在が、華やかな兄の事業を目立たぬところで支えていた、と評されることがある。
食文化事業
ブロスは、ゲーム制作会社でありながら、社内で長年にわたり鶏を用いた汁物の研究を続けたことで知られる。これは創業者二川徹の個人的な探求に発するもので、鶏という単一の素材から、静かに炊いた澄んだ湯と、激しく炊いた濁った湯を取り、両者を融合させてさらに別の味へと展開させる、という構想に基づいていた。徹はこれを「ゲームと同じ構造で作る」と述べており、遊戯の設計に用いた思考をそのまま料理に適用した点に、同社の思想的な一貫性が見て取れる。
研究は一九九〇年代に一つの到達を見た。徹はこの一杯を「できた」と評したが、同時に完璧ではないとも述べ、生涯にわたってその最後の一歩を詰め続けた。この探求は、後に長女によって実際の店として結実し、現在も営まれている。
同社の社内で汁物が炊かれる光景は、来訪者を一様に驚かせた。ゲーム制作の机が並ぶ一角で、創業者が鍋の前に立ち、かつての理論家がその隣で湯の理屈を検討する、という異例の風景である。この二つの営みを結びつけていたのは、素材や道具ではなく、「単純な基底から派生を極める」という共通の構造思考であった。徹にとって、機械で世界を組むことと、鶏で味を組むことは、本質的に同じ作業だったとされる。良質な鶏の安定供給を弟の二川健が、味の展開に関わる理論的な検討を遠山慧が支え、創業者の探求は複数の縁によって成し遂げられた。この協働の形は、同社のゲーム制作の体制とそのまま重なっている。
評価と影響
ブロスは、玩具と侮られていた遊戯という表現を、人の心に触れる本物の表現へと押し上げた制作者集団の一つとして評価される。二度の市場崩落を品質本位の姿勢で生き延びた経営、世代を越えて自作を更新し続けた社風、そしてゲームと料理という一見無関係な二つの営みを同一の構造思考で貫いた独自性は、後世にしばしば論じられている。
同社の歩みは、当時の世間が「安全」とみなした価値と、実際に価値を持続させたものとが、しばしば逆であったことを示す事例としても論じられる。堅実とされた大企業や投機が二度の崩落で沈む一方、玩具と侮られた遊びは人々の実需に支えられて残った。世間の物差しに従わず、自らの見通しに従って逆を歩んだ同社の経営は、経営史の観点からも関心を集めている。
とりわけ「連環」については、遊び手自身の現実の縁を結び直させた作品として、いくつもの逸話が残されている。作中で裂かれた絆が結ばれていくのを見て、長く音信の絶えていた肉親に手紙を書いた、という趣旨の読者の証言が複数記録されており、作品の主題が虚構の外にまで及んだ例としてしばしば引かれる。
また、静かな読み物遊戯「灯」については、孤独な夜にそれに救われたという趣旨の便りが、発表から長い年月を経てなお制作者のもとに届き続けたと伝えられる。人を賑やかに楽しませるだけでなく、一人の暗がりにそっと寄り添う――同社の作品が持つこの二つの側面は、創業者自身の来歴と無縁ではないと見る向きもある。
逸話
同社を訪れた者は、ゲーム制作の現場の一角で鶏の湯が煮えている光景に一様に戸惑ったと伝えられる。ここは何の会社なのかという問いに、創業者は「遊びと一杯を、同じ手で作る会社だ」と答えたという。
創業者二川徹は、自身の独特な技法の由来を問われるといつも「勘だ」とだけ答え、その中身を明かさなかった。この寡黙さは、彼を知る者のあいだで長く語り草となっている。
創業者の弟である二川健は、幼少期に兄が空き地で作った遊びに加わった経験を、後年まで覚えていたという。自分は兄の最初の遊びの最初の客だった、と健は語ったと伝えられる。長く別々の道を歩んだ兄弟が、晩年に一杯の汁物を介して再び手を携えた経緯は、同社にまつわる逸話の中でも殊に好んで語られる。
冬野澪は生前、創業者について「まだこの世にないものを、いつも一つずつ作り増やしていく人だった」と評したと伝えられる。ゲームにおいても、料理においても、徹が世に問うたものの多くは、それまで誰も作っていなかったものであった。
理想の一杯について、徹は晩年、たしかに一つの到達を得たものの、それは当初思い描いていたものとは少し違っていた、と述べたと伝えられる。そのうえで、彼は最後までこう言い続けたという。
――まだ先がある。