その日はいやにあやかしが現れる日であった。
「いやはや、三日に一度どころではないな。日に三度では髪の乾く暇もない! 次出てきたら濡れたままの水干で水調べすることになるぞ」
「髪を切りに行っておけば良かった」
陣衛の髪は無駄に長い。切りに行くのが手間で放置していたツケが回ってきたのである。じっとりと水気を含んで、なかなか乾かない。
いつもの通りに髪を結わえれば、濡れたままの長い総髪が背中を濡らすことになるだろう。伸ばし髪も考え物だなぁと呟く朝芳をよそに、ひたすら髪に布を当てていく。
軽口を叩く二人(ほぼほぼ朝芳だが)ではあるが、かなり本気で辟易している。
水調べはとかく集中の連続である。人とあやかしとを確実に見極めることが求められる。そしてあやかしであれば最速での討伐となるから、ゆったりと座している、とはいかない。常に腰を効かせて即応できる体勢をとり続ける。
ただでさえ神経を使うのに、何度もあやかしとの斬り合いが挟まれるとなると疲労のたまり具合が違う。控えこそいるが、水守の司は定められた順で当番を繰り返す。少し疲れた程度でその順を乱す訳にもいかない。
まして、腕をかわれて水守の司へと選ばれたのだ。関所の最高戦力がうかつに弱音を言えるはずもなく。
しかしそんな一日にも終わりは来る。暮れ六つの鐘と共に城下への門は閉められるから、水守の役目もそこで終了となる。もっとも、日報と斬ったあやかしの個別報告が残っているのだから簡単に帰れる訳でもないが。
あやかし一体ごとの特徴や変化前後の見た目、判断に至った理由と知見を書き連ねる。水守それぞれの判断を併せた上で、門士との内容合わせを行う。そこでようやく上役の目が入る。
資料を基に口頭での説明を重ね、上役が確認の署名をすれば報告は終了だ。いそいそと帰り支度を始める陣衛に、珍しく朝芳が絡む。
「笠間よぅ、たまにはどうだ? さすがに今日は疲れたし、酒でも飲みながらさぁ」
「愚痴に付き合うつもりはない」
陣衛からすれば、美味い飯と酒に愚痴を並べたくない。それに、今日は酒はお預けである。陣衛はあやかしを斬った後には茶と決めているのだ。残念ながらただの緑茶になるが、美味いことには変わりない。
だらだらと着替えようとしない朝芳を放置し、陣衛はさっさと門を出て行く。
すると朝芳はそれまでの鈍重さをかなぐり捨て、さっと着替えて門を飛び出す。辺りを見回し、陣衛の後ろ姿を見つけるとにんまりと笑う。
「たまにはこんなお遊びもいいだろ」
陣衛が聞けば眉をきつくするだろう独り言と共に、陣衛の後をつける。朝芳からすれば単なる暇つぶしだが、それは思いのほか愉快な時間になった。なにせ陣衛ときたら、ただ歩いているだけなのに、やたらと屋台の男衆に絡まれているのだ。
はちまきを首にぶら下げた天ぷら売りが陣衛の肩を小突く。そっぽを向く陣衛に何やらまくし立てているが、その雰囲気は穏やかだ。例えるなら、寺子屋の子らにも近い稚気がある。
一人寄ってくれば、二人三人と集まってくる。時間が時間だから後は片付けくらいしかすることもないのだろう。普段関所の中で仏頂面だけを見ている朝芳からすれば、陣衛がそんな風に雑に扱われているのを見るのは新鮮極まりない。口数の少なさと鉄面皮に近寄りがたいと思われているのを知っている。
例外は笠間塾、などと友坂揶揄する訓練好きが集まった会合の連中位。その彼らであっても踏み越えられない距離が陣衛にはある。だと言うのに、この距離の近さはどうしたことか。予想外の慕われっぷりに朝芳も目を丸くするばかりだ。
「何やったんだ、あいつは?」
なお、ここまで気安く接されるようになったきっかけは美織である。関所近辺の食堂や屋台は、概ね近隣で働く守人や業者ばかりを相手にする。
おじさんかおじいさんか若い男、いても飯炊きや洗濯をする年かさの女性くらい。彼らに言わせれば、ここには花がない。だから男連れであろうと、美少女を拝めるならそれで構わないというなんとも情けない話であった。
そして、盛大に陣衛が美織を怒らせたことも彼らは聞いていた。若者同士の情報網は密で早い。すでに仲直りをしているというのならからかうことに躊躇する必要もないのだ。
しかし、あまりに違う周囲の態度。それに応対する陣衛のツンとした態度。朝芳からすれば面白くて仕方がない。関所では四角四面に役目を果たし、禄に口すら開かない堅物男。それが、年相応にからかわれているのだ。面白くないはずがない。
若い衆を振りほどき、次に陣衛が足を止めたのは何があるわけでもない道の途中。ただし、その視線の先には食事処がある。花千里、陣衛ごひいきの料理屋であるが、朝芳にとっては初めて見る店だ。
陣衛が中に入り、奥へと案内されたのを確認して、朝芳も入る。いらっしゃいの挨拶と共にやってきた店員が美人で朝芳は機嫌をますます良くする。席は陣衛の背中が見える位置を選ばせて貰う。そして注文を取りに来た店員――美那へと陣衛のことを尋ねてみる。
「あっちの奥に座ってる仏頂面はさ、俺の相棒なんだよね。いや、こんなに良い店を隠しているなんて罪な男だと思わない?」
美那はその言葉に少し驚いたようで、朝芳へと少し待つように告げる。その反応こそ朝芳にとっては思いも寄らない物だ。本当にあいつは何をしているんだと一人ごちる。
美那はすぐに戻ってきた。前掛けを脱いで、休憩時間であるという体である。なお、美那のすぐ後に厨房からは若い男性が出てきて、慣れない手つきで配膳を始めていた。
「ええと、良かったのかな?」
「普段は料理人なんですけど、時々は店に出て貰うんです」
看板娘たる美那や美織ではなく、普段厨房に引っ込んでいる男が人気なわけもない。美人と接する機会をふいにされて、客からぶつくさと文句を言わている。ただ、本当に嫌がられているわけでもなさそうではあった。美那はその姿を楽しげに眺めている。
「それで、笠間さんの同僚の方でよろしいんですよね? お話を聞かせていただいても良いですか?」
思った以上に食いつかれて朝芳はうろんに眉を寄せる。だが別の男が理由とは言え、女性に迫られるのは悪い気もしない。同時に確信する。いつぞや陣衛が悩みを吐露した女性はここにいると。
「では、質問ですけれど、笠間さんはご結婚されているのでしょうか?」
「笠間が? いや、やつは独り身だよ。俺と同じでね。俺のことは聞いてない? まあそうだろうけどね」
美那は髪を上に結っていて、髪をまとめるのは黒くつやのある簪だ。黒の簪は既婚女性に許された装飾である。美那が柔らかな視線で見守る男性が旦那なのだろう。美那はにっこりとしている。
「ちなみに許嫁の類いもいないね」
結婚有無はともかく、許嫁の有無をなぜ分かるのか。美那の疑問に朝芳は胸元から小さな袋のお守りを出す。いわゆる名字付き、武門に連なる家では許嫁が送るのが習わしだ。家同士の付き合いを考えるなら、付けないで良い理由はない。逆に言えば、ないならいないのである。
「あいつは何にも付けていないからね」
その言葉に美那はよしよしと笑みを深める。
「一応、理由を聞いても良いかな? 勝手にあいつの話をしてからだけども」
「ふふ、そうですね。――ああ、ちょうどその理由が」
見れば陣衛の隣に小柄な女性が立っているのが見えた。手を取るには遠く、他人と言うには近く。向き合うでもなく、ただ陣衛の隣に立っている。時々何かを話しかけていて、都度陣衛の箸が少しの間止まる。
「妹です。笠間さんのことが気になって気になって、気になって仕方ないんですよ」
「……なんていうか、変わった趣味の妹さんだ」
「でしょう?」
ふふふと笑う美那はそんなことをまるで思っていなそうであったが。
まさか姉と陣衛の同僚に見守られているとはつゆ知らず、美織と陣衛の会話は間が空こうとも途切れることもない。
美織自身、歳の近い男性という存在には縁がなかった。幼少の寺子屋では騒ぐ男子を脅しつける気の強さを見せていたし、長じてからは店の手伝いに精を出してきた。時折買い付けの際に話しかけてくる知り合いもいたが、不思議とすぐに別の知り合いが間に入ってくるから縁の遠いままであった。
だから、陣衛が通ってくるようになって、美織は内心緊張していたのだ。
今でこそ縮まりつつある距離は、当初は線を引いたかのようにきっちりと別れていたのだ。更に言えば、陣衛への印象は良いものにはなっていなかった。むしろ不満を持って陣衛に応対していたと言っていい。良くも悪くも緊張などしないほどに。陣衛が顔を出す度に、口を引き結んでいた。つっけんどんな態度をとっていた自覚が美織にはあった。生真面目な性格故に、実際に態度には出てはいなかったのだが、美織は厳しい態度を取っていたという自認があった。
それが、いつから変わったのかを美織ははっきりと自覚している。