そもそも陣衛がこの店に顔を出すようになったのは、季節にして二回りほど前のこと。初めて陣衛を見た時、美織は少しだけ期待をしたのだ。実のところ花千里のお代は相場よりやや高い。腕のいい料理人である美織の父と義兄あってのことであるが、必然的に客の年齢層も高くなる。幼い頃から店の手伝いを苦にもせずくるくると働き続けてきた美織であるから、歳の近い友人は数えるほど。
陣衛がもし通ってきてくれるなら、友人となれるかも知れない。陣衛は美織の願いの半分を叶え、常連となった。あとの半分は全くである。
なにせ陣衛は鉄面皮で、美織の自慢である父と義兄が手塩にかけた料理を表情一つ変えずに食べていたからである。おいしいご飯ならば、ふさわしい顔をするのが当然。そう考えていた美織にとっては、涼しい顔で口だけを動かす陣衛の姿は、腹の立つ客そのものであった。
おいしくないのならば来なければ良い。もう来ることはないだろう。そう考えた美織の予想は大いに外れ、陣衛は常連の座を得た。
父の渾身の焼き豆腐にも、義兄お得意の桜鯛の煮付けにも、はたまた美那の朗らかな愛想にも無反応。何を食べようと顔色一つ変わらない。その姿に、内心美織は腹を立てていた。おいしくないと思うなら、他の大衆食堂にでも行けば良い、そう思っていたのだ。理不尽極まりない一方的な怒りであるが、当時の美織にはそれが正当な怒りだと思えてならなかった。
美織の認識が変わったのは、陣衛が花千里に通い出して三ヶ月ほど経ったある日の夕暮れだった。
その時も、陣衛は日替わり定食と、一杯の茶を頼んでいた。三月の間、ほぼ同じ注文しかしていない陣衛である。
いつものですか、その一言で済む程度には陣衛は店に通っている。それでも陣衛に良い印象のない美織は、毎度毎度必ず注文を聞いた。私は常連だと認めていないぞと、初見のように扱ってきた。
肝心の陣衛からすれば毎回丁寧な接客であると高評価であり、味の良さと相まって花千里に通う理由となっていたのだからままならぬ話である。
毎度現れるたびに同じ品を頼む陣衛であったが、飲み物だけは時々酒が茶になっていた。月に一度か二度。陣衛に色眼鏡をかけている美織からすると、酒を飲まない理由など大して興味もなく。単なる気まぐれか、前日に飲み過ぎでもしたか。そんなものである。
その日、美織の心に魔が差した。普段は決してすることはないし、今でもなぜそんなことをしたのかは分からない。ただ、それが美織を決定的に変えることになったのは間違いがなかった。
いつもの緑茶の代わりに、美織が個人的に好きな、とても苦いお茶を出したのである。姉も両親も、苦くて飲めないと言うから美織一人で楽しんでいるセンブリ茶である。陣衛が苦さに驚き吹き出したら面白かろうと、怒られたら謝るつもりで出したのだ。もとより茶は代金に含まれる訳でもないから、まあ良いだろうという浅い考えであった。
しかし、陣衛はセンブリ茶を一口含むと、この店は茶まで美味いのだな、とぽつりこぼしたのだ。
茶を出した後、反応を見るためにそばを離れなかった美織に、その言葉がするりと届いた。予想すらしなかったその独白に、心底驚いたのだ。
”茶までうまい”
陣衛はそう言った。美織はそう聞いた。一言一句違えることなく、聞き間違えなどあり得ないほどはっきりと。
裏を読むまでもなく、茶以外の全てもおいしいと、そう陣衛は言ったのだ。
陣衛というお客さん相手にセンブリ茶を出したことは当然露見し、美織は美那に思い切り叱られることになった。しかしそのしょげる姿を逆に心配されてしまうほどに、美織は衝撃を受けていた。
自分が見ていた姿は何だったのか。うがった偏見で人を馬鹿にしていた。先入観にとらわれ勝手に想像した陣衛の気持ちにケチを付けていたのだ。どう言い繕うとも、それが事実であった。
美織ははっきりと自分の浅慮を自覚した。そして陣衛のありのままを見た。この人は、陣衛ははじめから正直に食事を楽しんでいたのだと。そして自分は愚かにもそのことに全く気がついていなかったのだと。
美織は自分を恥じた。陣衛に謝るべきとも思ったが、それこそ非礼を重ねる自己満足になる。どうしたらいいか、美織は一人悩み続けるのだった。
以来、美織は陣衛が来るたびにその姿を観察した。陣衛の言葉が本当であるかを知りたかった。実のところ、誰に聞かせるわけでもない独白には本音しかない。それを分かっていてなお、事実であると、自分が間違っていたことをはっきりさせたかったのだ。
だから美織は陣衛をよく見た。陣衛が本当に食事をおいしいと思っているのなら、楽しんでいるならば、どこかしらその反応が見えるはずだと考えたのだ。
そして、あるとき唐突にそれが分かった。小茄子の漬物や赤魚の煮付け。そういったものを食べるときに、見間違えかと思うくらい小さく、目が細められていた。わずかでも確かに心が、気持ちが表に出ていた。美織は確かに間違っていたのだ。それが分かって、美織は本当にホッとしたのだ。どうして心が温かくなったのか、自覚することもないままに
陣衛の小さな変化は、一度気付けばあとは芋づる式だ。頬が緩む。満足げに深呼吸をするし、もう少し食べたそうに空いた皿を見つめる。
食事ほど顕著ではなくとも、店に現れたときの表情にも違いが見えてくる。日替わりの主菜を気にしている時もあれば、嫌なことでもあったのか気難しげに眉を潜めている時もある。むしろそういうときの方が多くて、でも、店を出るときには何の憂いもない穏やかな顔になっている。
花千里の自慢の料理がそれを成している。美織は誇らしく思う。そして、気がつけば少しだけ、陣衛との距離が小さくなったことを嬉しく思っている。そう自覚したのだ。
***
「もうドツボですよね」
全く難儀な人に懸想した妹だと、美那は優しく微笑む。きっとその姿をやきもきしながら見守ってきたのだろう。ただの一言だけを聞いた朝芳にもそれが分かった。
言葉と、何よりその表情が妹への気持ちを表していた。
朝芳は兄弟がいないから、それをうらやましく思う。
姉と朝芳からなんとも言えぬ視線を向けられていることも気付かず、美織は人差し指をくるくる回しながら陣衛に話をしている。朝芳のいる場所からでは声は届かないが、その空気は穏やかなものだ。
それにしても、と朝芳は苦笑いをする。見る限り、陣衛の態度が明らかに柔らかい。関所の食堂で昼飯を食べているとき、朝芳が話しかけようものならとあからさまに嫌な顔をするくせに、美織相手には嫌な顔一つしない。美織も美織で、陣衛が箸を止めないですむように、適度な間隔で話しかけているようだった。
少しして、陣衛が食事を終えたようで箸が置かれた。そして少し身じろぎしたあとに、何かを美織へ差し出した。美織は少しだけ戸惑ったように何かを受け取っている。
朝芳達のいる場所まで、いいのですか? と戸惑うような、それでいて喜びが溢れるそんな声が聞こえてきた。
そしてトトトと美織は厨房へ駆けていく。いつもは美那へ走るなとお説教をしている美織が、何を気にすることなく店内を小走りで走り抜ける。その横顔は、その耳は赤く染まっていた。
にっこりと美那が笑い、休憩は終わりですと言って立ち上がった。
「お話ありがとうございます。もしよければ、お礼にお酒を一杯お出しさせていただいても?」
「いや、それはまたの機会にさせていただこうかな。でもありがとう」
「いえ、とてもいい話を聞かせていただきましたから。……私はあの子から話を聞かないといけませんので。失礼します」
美那が足早に厨房へ戻っていく。美那の夫らしき男性は、まだまだ給仕役は止められそうにないと肩を落としていた。
朝芳はといえば、立ち上がり陣衛の正面へと移る。どっかり座り、奇遇だなと嘯く。
「ずっと付けてきたのにか?」
「気付いていたのか。勘のいいやつ。にしても、隅に置けないじゃないか、逢瀬の約束でもしたか? まあ逢瀬というよりは逢歩きだろうが」
「言っておくが――」
「おっと、言っておくのは俺の方だ。お前さんがどう考えていようと、二人で出かけるというならそういうことになる。分からんわけでもないだろう?」
「……そういうものか」
「呆れた奴だな、全く。そういうものだ。……あまり女子に恥をかかせるものではないぞ」
そう言って勝手に陣衛の前に置かれた茶を勝手にすする。と、同時に酷い顔をする。センブリ茶の代わりに陣衛好みの苦めに煎れられた緑茶である。
「苦すぎないか?」
「……俺も苦いものは嫌いだった。しかし、ここの苦瓜や秋刀魚のワタを食っていたらいつの間にか苦みを美味く感じるようになった。年月が俺の苦手を消してくれたらしい」
「…………お前、それを俺に聞かせてどうしようってんだ?」
もっともである。どうにも浮かれている自覚がないようで、普段なら言わぬことをつい口にしてしまっている。膝をつき合わせたまま、二人はしばし沈黙する。
「で、どこに誘ったんだ?」
「波田で芝居をやっているだろう」
「……笠間、お前芝居になんぞ興味があったのか?」
「券を貰った。興味はなかったから姉妹で行けばと渡したら、本人が行かずどうすると怒られた」
「へぇ。で、誘ったのか」
「……ああ」
朴念仁であっても女子を誘ったことで気が高ぶっているようである。陣衛はいつになく饒舌だった。が、いい加減会話の恥ずかしさに気付いて元の寡黙さを取り戻した。あとは朝芳がいくら突こうともろくに返事を返さない。
陣衛が水守の司として任じられたばかりの頃はこんな風だったなと、朝芳は苦笑いをする。そして、その無表情さがほぐれて来たのは、もしや。そう考える。
楽しげな足音が戻ってくる。美織は陣衛の前に座る朝芳に気がついたようで、スッと看板娘の顔に戻る。
「ああ、悪いね、勝手に席を移してしまって。知った顔がいたもんだからさ」
「いえ、いらっしゃいませ。…………笠間様の、――ご友人でしょうか?」
口ごもる気持ちは分かる、と朝芳は思った。なにせこの男は世間話すらろくにしようとしない木石男だ。業務や務めにおいてはよく気を回すというのに、それが日常生活になればまるで役に立たない男だ。有り体に言って、共に過ごして楽しい男だとは思わない。 朝芳は問いに答えずに、逆に問い返すことで場を流すことにした。
「もしや君が笠間のお相手かな? 笠間が珍しく浮かれているからなにかと思ったんだけれど、なるほど隅に置けないな」
いきなりぶしつけに陣衛との関係を口にされて美織は眉を潜める。笠間とこの男性がどのような関係であれ、勝手な想像で話をされて嬉しいはずもない。が、少し気になる内容に意識が向いてしまう。
――そんな風に、見えるのだろうか? 浮かれている? この無表情男が? それは――本当だろうか? 次々浮かぶ考えが、その丸く大きな目に浮かんでいる。
美織の興味は完全に陣衛に向けられて、その表情のかけらたりとも見落とすまいと栗色の目が陣衛を捉える。強い視線に居心地が悪いのか、陣衛は手元をジッと見たまま動かない。
「あー、と。少し勘ぐりすぎたようだ。実はそこで君のお姉さんと話をしててね。思ったよりも悪くない雰囲気に見えたもんだからさ。こいつがそんな風に話をしているのなんて見たことがないからそう言ったまでで」
「……そうですか」
気まずさに耐えかねて弁解する朝芳と、意に介さず視線を動かさない美織。場の空気が緩むどころか、得体の知れない緊張感すら漂う始末。
「えっと、芝居に行くんだって? なら昼過ぎからだろうし、芝居のあとゆっくり食事でもしたらいい。俺のおすすめのお店を紹介するから」
「……そこは美味いのか?」
「保証する。ここに負けず劣らず、だ」
「美織。それで構わないか?」
突然名前を呼ばれて美織は声も出ない。代わりにこくこくと頷いて了承とする。
朝芳は店の名前と場所を陣衛に伝えて、さっさと立ち上がる。人の恋路に首を突っ込んで得られる物など惚気話くらいだ。互いに自覚もない朴念仁どもであればなおさらだ。胸焼け必死である。
さっさと会計を済ませた朝芳は、店を出て少し歩いてからため息をつく。なぜかとてつもなく疲れた気持ちである。軽い気持ちで始めた尾行が、こんな気持ちで終わることになるとは思っておらず、やや後悔をしていた。が、それでも同僚、相棒の素の姿に近づけたのは良いことだった。そう思い込むことでむなしさを鎮めるのだった。