軽い気持ちでお願いしたと言うのに、陣衛は美織の想像を軽々と越えてしまった。だから、どれだけすごいと思ったのかを伝えたいのに、言葉が一気に出口へと爪寄せた物だから美織は”すごい”とか”すごい”とか、それしか言えない。本当はもっともっと、ふさわしい言葉があるはずなのにと美織は地団駄を踏みたい気持ちですらあった。そんな風に国一番の口下手ですら呆れそうな感想未満だというのに、陣衛は驚くほど満足げだ
「ほ、本当にすごいって、そう思ったんですよ!?」
「分かった」
「分かってません! もっと、あるはずなんです! ちゃんとした……伝えたい言葉が、あるんです!」
不思議そうに首を傾げる陣衛と、首元まで朱に染めて食ってかかる美織。すれ違う人がおやまあと微笑む姿すら見えていない。結局美織が落ち着くまでしばらくの時間を必要としたのだった。
袖がふれあうことも気にせずに芝居会場である波田へ向かう陣衛と美織。
そんな二人の後ろから、子供達の笑う声と足音が近づいてくる。子供の集団はあっという間に二人を追い抜いていく。あははと笑い合う様は、なんとも無邪気である。思わず口元を緩める美織と、変わらぬ陣衛。
しかし二人が見守る中、最後尾を必死について行った少女が躓いて転ぶ。べたんと音が鳴りそうな様に思わず立ち止まる。が、すぐに美織が駆け出す。そして着物が汚れるのも気にせずに膝を突き、少女の様子を見る。
「あら、大丈夫?! うーん、血が出ちゃってますね。……でもこの位ならすぐに治りますよ。ほら、大したことありませんから、大丈夫」
「水を貰ってこよう」
「あ、お願いします。ほら、もう少しだけ我慢して下さいね。水で洗って、布で抑えればすぐに治ってしまいますよ?」
目を瞬かせている少女はただただ頷くのみ。転んで痛い思いをして、しかも気付かれることなく置いていかれてしまったのだ。悲しくて泣きそうになってしまった所に現れたのが、美織なのだ。華やかで美人のお姉さんが突然に現れて驚かないわけがない。しかもとびきり優しいのだ。もはや痛みよりも大きな衝撃である。目元に涙こそ浮かべていたが、もはや泣いたカラスがなんとやら。というが、既に痛みなど忘れたようにご機嫌である。
あら、もう痛くなくなっちゃった? などとじゃれるように話す二人。陣衛ほどの鉄面皮でも口元を緩めるだろうその景色である。平和で穏やかな時間だ。
近くの井戸を探しに行ったであろう陣衛をしゃがんだままに待つ美織と少女。これより先、いくら時を経ても穏やかな時間であったと思い返せるようなそんなひととき。
――だが、そんな穏やかな時間を、血と痛みをもって踏みにじろうとする者がいる。
美織と少女が歩いていた道の先、四つ角から一人の男が姿を見せる。ふらふらと歩くその中年男は、見た目には単なる四十絡みの男性だ。美織達がいるのは天下の往来であるから、誰が歩いていようと何もおかしいことはない。
だが、その男を見た瞬間に美織の全身を怖気が走った。足を踏み外した瞬間のような、湯のつもりで水に触れたかのような強烈な違和感。知らず美織は少女をぎゅうと抱きしめ庇うように後ろに回した。
男の歩みは遅い。まるで歩くことに慣れていないように、両足をぎこちなく前後に動かしている。両手は不自然に前に突き出しているせいで、いつ躓いてもおかしくない。だが、歩みは止まらない。揺れるその男の行く先には、少女を抱えたままの美織がいる
にへらと、男が笑みに似た表情を浮かべた。
「ど、どうした、か? てつ、ってつだいは、いるかね?」
男の声はひび割れたように小さく聞き取りづらい。美織は喉に何かが張り付いたように、言葉を出せない。
「な、あ。てつだいはいるかね? それに……良い、匂いがしないかあ?」
「……いえ、すぐに連れが戻ってきますから、結構です」
全く文脈の繋がらない言葉。ぐりぐりと落ち着きなく動く目玉が一層不気味さをあおる。少女もその異常さに気がついたか、体を強ばらせて美織に抱きついている。
怯えを押し殺し、美織が拒絶を表す。早く陣衛が戻ってきてくれることを願いながら、連れがいるのだと、言外に立ち去れと告げる。
だが、男にはその意図が、いや、言葉が伝わっている気配はない。まるで煙を掴むかのように手応えも反応もない。
「いい、匂いがする、なあ? 女と子供。二人分、の――」
――肉。
美織には、そう聞こえた。人に向けて使うことのないだろうその一言をきっかけとして、男は突然に全身を震わせる。くかかと笑い声のような音を立てて、両腕を広げる。まるで通せんぼでもするかのような仕草。だが重要なのは動きではなく、その体だった
美織と少女の目の前で、男の腕にぶつぶつと小さなとげのような物が生えてくる。とげは見る間に伸びて広がり、腕全体を覆っていく。それは鱗である。腕からはじまり、肌だけでなく、着流しの表面からもびっしりと鱗が生えて、全身を覆う。
異常は鱗だけではない。美織が気付いたときには、男の背後には尾があった。人にはあり得ない、子供の胴ほどの太さの尾だ。釣り合いを取るために全身が前傾となる。人に見えていた時にはあれほど不安定であった揺れが、ピタリと止まる。
最後に顔が破れるように鱗に包まれ、口が耳までばりばりと開く。開いた口元にはずらりと鋭い牙が並ぶ。よだれがだらりと口から溢れ、地面を黒く汚した。
――それは、あやかしである。城下においてあってはならない、あやかしの出現であった。
***
美織の前に、かつて見たことのない悪意があった。真っ暗で光のない穴。自分の指先さえ見えない黒。あれほどすがすがしく思えた晴天だというのに、美織には全てが色を失ったように見えている。
人を人と思わぬ、まるで虫か何かを見る、美織に向けられた目。
「腕を、ちぎろか、目をしゃぶろか」
全身が恐怖に縮むようで、せめてと少女を抱く腕にぎゅうと力を込める。あやかしから少しでも隠すように、自身の影に隠すように。
間違ってもあれに触れさせてはならないのだ。たとえ薄紙ほどの頼りない守りであっても、そうしなければならない。
美織の体は震えている。死が目前にあることを理解し、恐怖が思考を鈍らせる。死ぬのだ。ここで。それが分かるから、先を想えない。ただ、固く目を瞑るのみ。
あやかしは機嫌良く、細く長い舌で口元をなぞる。そして小さな蜥蜴がそうするように、竜人は大口を広げて美織の首元に食いかかった。細くか弱い美織の白い肌に、不揃いの牙が突き刺さり、血潮が竜人の飢えを満たすだろう。
――だが、あやかしの悪意は届かない。
身を固くした美織の体が、ふわりと浮いた。一瞬の浮遊感とささやかな水の香りに、美織は目を開けた。そこに見た姿に、自らを抱く男に、美織の心を凍てつかせていた恐怖が一瞬にして溶けるのを感じた。灰色に見えた視界に色が戻る。
二人を抱きかかえ跳躍したのは陣衛である。竜人の気狂い染みた突撃よりなお速く、二人を抱えて跳んだのだ。結果、竜人の牙は空を切り、むなしく空気だけが飲み込まれる。
陣衛は抱えていた美織と少女を丁寧に地面に下ろす。
「か、笠間さん――」
「すぐに済む」
青ざめた顔色の美織、その頬に手が当てられる。分厚く、ごつごつとしている。剣だこばかりの無骨な手のひらだ。だが、日だまりのように暖かな熱がある。怯えを拭うように、その体温が美織の頬に伝わる。
その言葉、その温かさに、強ばった美織の体が緩む。安心が身のうちから溢れて、ひどく熱い息がこぼれた。
陣衛が来た、それだけのことで安心できた。震えがあっという間に止まってしまうほど、安心したのだ。そして美織が緊張を解いたことで、少女の震えも大人しくなる。
二人から離れて竜人へと向き直った陣衛の背中を、美織と少女が見る。見えるのはその背だけ。だが、その背は美織と少女にとって、この上なく頼もしいものに映ったのだった。
***
美織と少女を背に庇うようにして、陣衛が竜人に相対する。その心持ちは何より安堵が強い。本当に寸前ではあるが、美織をあやかしの牙から救うことができた。本当にあとわずかでも遅ければ、美織に消えない傷が付くところだったのだ。助けられて良かったと。心底陣衛は安堵したのだ。そして、これまで鍛え続けて来て良かったと、そう思ったのだ。
意味の取れない鳴き声が陣衛にぶつけられる。安堵を過ぎ、陣衛の目に怒りが浮かぶ。触れるだけでも壊れてしまいそうなか弱い女子なのだ、美織は。つい先程まで痛みに泣いていた少女なのだ。守人として、水守の司としてえ、許せるはずがない。 身のうちより溢れ出す怒りを強引に身のうちに留める。
陣衛は静かに刀を抜く。鯉口を切り、すらりと現れるのは銀の光。よく手入れされた刀身が、明るい日差しを受けて輝く。 応じるは竜人。くねくねと不自然に動く尾と、地面に付くほどに長い腕が特徴的な竜人である。ブツブツと、不明瞭な何かを口からまくし立てている。口元に小さな泡ができていて、陣衛はうんざりする。何を言っているかは分からないが、二人を庇う陣衛に対して文句を言い立てているのは分かった。もちろん、それは陣衛が言いたいことでもある。
せっかく穏やかで気持ちのいい雰囲気が台無しであると。
美織を怯えさせて傷つけようとしたことも、年端もいかぬ少女を食らおうとしたことも、決して許せることではない。見た目と違って無為な荒事を厭う陣衛だが、あやかしへの怒りを露わに厳しい目つきを送る。
どう考えても、今日の休みはこれで終わりだ。城下へあやかし、それも竜人が現れたなどと、城下がひっくり返るほどの事件である。冗談でさえ許されない事態だ。
いつどこで入り込んだのか、厳しい調査が行われるのは間違いない。そして、あやかしを防ぐ役目である水守の司がやり玉に挙がるのは確実。一体何をしていたのかと厳しく追求されることは間違いない。陣衛としてはそれを考えると頭が痛いし、美織も守人達から状況確認のための事情聴取を受けることは間違いない。つまり、芝居には間に合わない。
陣衛は少しだけ目を伏せる。細く呼吸を伸ばす。悲しいと、沈んだ気持ちを少しでも立て直すかのように。本当に、心の底から表まで、陣衛は悲しくて仕方がなかった。初めての芝居だったのだ。美織と見る、美織と過ごす、ただそれだけの一日になるはずだったのだ。朝芳おすすめの料理屋に、初めて二人で座るのを楽しみにしていたのだ。
ゆらりと鯉口を切り、陣衛が正眼に構える。熱した鉄のごとき怒りが、銀の刃を介してあやかしを捉える。対する竜人の構えは低い。左右に大きく両足を広げ、長い両の手はだらりと地へと着いている。
人の身に似て、人にあらざる攻撃態勢。陣衛の経験上、人とあやかしの中間ほど戦いにくいものはない。なまじ人に似ているほど、人相手の経験が雑音のように反応を遅らせるからだ。
竜人の軽い体重移動に、陣衛が一歩踏み出す。まるで経験不足から来る勇み足――竜人からはそう見えたことだろう。タンッと竜人が跳ねる。方や水路、方や板塀。大して広くもない道だ。その挙動は速くとも直線である。陣衛の描いた想像通りに竜人が動く
陣衛にとって一番嫌なことは、背に庇う美織と幼子が傷つけられることだ。
弱いものを狙うは戦いの常。陣衛を軽くいなして美織達を狙う竜人であったが、その目の前に銀が輝く。数枚の鱗を置き去りに竜人が後方へと下がる。陣衛の風のような一撃を躱した反応速度はまさに竜人たる野性の賜物か。しかし鱗を剥がれるのは竜人にとっては屈辱である。
怒りに瞳孔が開いた竜人だが、陣衛に動揺はない。元より自分に注意を引くための小手先の技を見せたに過ぎない。陣衛自身で引きつければあとは斬るだけなのだから。あやかしは逃さない。確実にここで斬るのであれば、それが最も確実だ。
嘲るように、陣衛が鼻で笑う。
竜人も蜥蜴と変わらんと嘯く。元より正気から外れた竜人であっても、いやだからこそ怒りを露わにする。更に速く、強く、火縄の鉛弾のごとき突撃と爪による一撃が放たれる。
振り下ろされる長く太いその右腕を、陣衛は一太刀の元に切り落とす。竜人よりもなお速く踏み込んでの振り下ろしである。そして返す刀で首を落とし、未だ自らの死を理解できていないその体を、まとめて水路へと蹴落とす。
いくらあやかしであろうと、美織と少女に死体など見せるべきではないのだ。灰と化すその体に毒があるならなおさらだ。水路の岸に落ちたあやかし、その死体から立ち上る濃墨の瘴気を陣衛は嫌そうに見る。
軽く血払いをしながら周囲に視線を巡らせる。危険はないと判断した陣衛は残心の後、刀を鞘へ収めた。
「これで、幕だ」
***
竜人が上げていた奇声を聞いて人が集まってきた。陣衛としてはさっさとここを去って芝居を見たいところだが、水守の司として説明責任がある。更に言えば、わずかでも後ろに通さぬように飛び散った返り血をその身に浴びたのだ。あやかしの血肉は毒だ。そのまま二人の元へ戻るわけにもいかない。
子供のために組んできた水をかぶり、当座の対策とする。
なんだなんだと集まってきた野次馬は、あやかしが出たらしいと言う事実と水路に落とされた死体、そして黒い血に染まった陣衛を見て驚いている。そんな風に遠巻きにする野次馬どものせいで、動くのもままならない。近づけやしないが、美織達の状況が見えないのには腹を立てる陣衛だ。
いっそ適当に野次馬を捕まえて、美織へと伝言でも頼むか。そう考えて周りを見たとき、すぐ隣から聞き慣れた声がかかる。
「か、笠間さん! 怪我は、してませんか……?」
「近づくな」
陣衛の厳しい声に美織がびくりと動きを止める。だが、その目は陣衛から離れない。
「いや、ああ、あやかしの血は毒がある。近づくとよくない。服も、せっかく綺麗なのに、汚れる」
「……洗えば良いんです、そんなの!」
ずいずいと美織は陣衛に迫る。汚れはともかくとしても、あやかしの毒は事実だ。軽く流したとはいえ人によっては触れればかぶれたり発熱の原因にもなる。どうにか美織の足を止めようとして、陣衛は気がついた。
――そうではない。そうではないのだ。
陣衛は水守の司だ。城下と城を守る武人である。竜人の一人二人にひるむような鍛え方はしていない。事実鎧袖一触とばかりに斬り捨てて見せた。だが、美織はそうではない。荒事と言えば酔っ払いの喧嘩程度。その手は美味い料理を作ったり、子供を優しく慰めるためにある。
その優しさが、足を止めるわけもない。優しさに、報いなければならない。
「美織。平気だ。本当に。俺は守人だから、美織達を守れたことが大事で、嬉しい。まるで怪我はないし、あやかしの毒で美織が傷つくのは、困る」
だから大丈夫。陣衛が絞り出した真摯な言葉に、美織が立ち止まる。
美織は、陣衛が軽く手を伸ばせば届く距離にいる。じぃっと、美織は陣衛の全身を見ている。本当に怪我はないのか、強がっていないか。陣衛はいつも通りに立っていて、それでようやく美織が力を抜いた。
小道の外から大勢の足音が聞こえてくる。見回りの守人たちだろう。あやかし出現を聞いて駆けつけてきたようだ。陣衛は守人達を気にして、美織の動きを見落とした。
陣衛の袖が小さく引かれた。血の付いていない部分を、美織がつまんでいた。美織はうつむいたままだ。
「……助けてくれて、ありがとうございました。本当に、こ、怖くてしかたなかったんです。でも、笠間さん、あなたが来てくれたから」
「……そうか」
「はい」
「なら、良かった」
「はい」
つままれた袖が離れる。一歩美織が下がる。
野次馬を抜けてきた町回りの守人が、陣衛にこちらへ来いと呼びかける。
「ほら、呼ばれていますよ」
美織が言う。また、食事に来て下さいね。おいしいもの、用意しますから。
そう言った美織の顔は、うつむいたまま。その表情を、その表情が、陣衛には分からない。だから、陣衛は知りたいと思った。どうにか、変えられないかと願った。
どうにもやるせなくてたまらない。これから楽しいことしかないはずだった一日を取り上げられたのだ。向けるべき竜人はもう斬ってしまったし、怒りの矛先もない。なのに、そんなことお構いなしに美織との時間が潰されていく。
だから、思わず陣衛は守人へと叫んだ。
「少し待て!!」
突然の大声に驚く守人。止まった時間を良いことに、陣衛はあやかしの血が万一にも触れないように、慎重に手を伸ばす。白く柔らかいその手へと。働き者の手だから、水仕事で少し荒れている。だが、どんな物にも変えがたい温かさがある。
美織の手を取る。思わずとばかりに顔を上げた美織の、その目を見る。
「埋め合わせをする。すぐとは言えないが、必ず。……駄目か?」
今度こそ美織は心底驚いた。竜人に遭遇したことも、殺されかけたことも、それを助けられたことも。今日一日の全部よりも、陣衛からのその一言に驚いてしまった。
だって、美織はそうだったらいいなと、そう思っていたのだ。同じ気持ちであれば良いなと思っていたのだ。
言葉の出ないまま、美織は一度だけ、確かに頷いた。
それに満足した陣衛は手を離す。
「待っていてくれ」
そう言い残して陣衛は守人の元へと向かう。いくつかの問答と指示を出しながら、状況を説明する。
残された美織と言えば。ゆっくりと手を持ち上げて、未だ残る無骨な手の感覚をなぞる。そして陣衛へと声を上げたのだ。
「待ってますからね!」
絶対に約束だと、そう叫んだのだった。