街中に突然竜人が現れた。この事実は城主を含め、城下に暮らすもの全てに衝撃を与えた。万全の守りを誇る東松原の城。その屋台骨が揺らいだのだ。人に化ける力を持つあやかしに入り込まれた。ただ一体が必死で紛れ込んだのか、群れが入り込んだのか。ただでさえ慰霊の流しを直前に控えている。かつての惨劇を彷彿とさせる出来事なのだ。不安が城下に溢れるのも仕方がないことだと言える。
そしてそれは町人だけに限った話ではない。
この町の中央、象徴たる質実剛健を形にしたような城の中ではこの問題について頭を悩ませるものがいる。上質な裃を身に纏い、周囲より一段高い上座に座る老人。肘置きに腕を置き、身動き一つしない。その向かいには、すらっと背筋を伸ばして礼を示す中年男性。必要なもの以外の全てを取り除いた、ただ執務を行うためだけの間。いっそ殺風景なその部屋に、二人の人物が膝を向かい合わせている。城下に現れたあやかしについて事の次第が老人へと報告されていく。一通りの報告を聞き終えたところで老人が口を開く。禿頭には青筋が浮かび、目は昏くぎらついている。
「その糞蜥蜴が、どこから入り込んだかは目星を付けられそうかの?」
びりびりと空気を震わすような怒りが、静謐な部屋に通る。
「……現時点では断定できかねます。少なくとも、水堀や城壁、結界にほころびはないことは確認してございますが」
「不備がない、であれば穴が開けられたと?」
「全ての可能性を含め、調べを進めております。関所に務めるものについては既に洗い出しを行っておりますが、もうしばらく時をいただきたく」
老人の怒気にも、男は平静である。
「また、一つ関係を懸念する事柄があります」
「言え」
「道連の者どもが言うには、二月ほど前に繰り返し結界が揺らされていたことがあると。しかしながら、その位置を特定することができなかったとも」
「であれば、調査を続けよ。儂の命として、多少の横紙破りも構わぬ」
厳に引き締めよと老人が告げれば、男は深く頭を下げる。
「……しかし、その場で糞蜥蜴の首を討ち取れたとは僥倖であったの」
「遭遇したのが水守の司だったのは不幸中の幸いでありましょう。笠間家の次男で、若いながらも腕は随一であると」
「笠間の――であれば、地蔵殿の孫であるか。……なるほど。さぞかし堅物であろうな」
陣衛の鉄面皮は父譲りではあるが、その祖父も非常に表情を変えない男であった。しかし陣衛とは異なり、常に微笑みを絶やさなかった。そして付けられた渾名が笠間の地蔵殿、なのである。老人にとって色あせぬ友でもあったのだ。
「しかし、地蔵殿の血筋となれば。まこと奇縁かもしれぬな」
「縁、にございますか」
「五十年前の大崩しよ。儂と共にかの竜人を退けたのも地蔵殿であった」
「……なるほど奇縁でありますな」
であれば。男が続ける言葉に老人が眉を上げる。
「殿より横紙破りをお許しいただけるとのことでありますので、まずは関所を当たります。加えて、あやかし討伐に水守の司に人を出させることを考えております。あやかしへの嗅覚が鋭く、斬り続けているものどもであります故」
「目星を付けていたと。よいよい。高塚、ヌシの思うようにせよ。ただし、ことは早急に治めよ。良いな?」
「ただちに」
言うやいなや頭を垂れ、早々に退出していく高塚と呼ばれた男。この城下の最高戦力の一つ、近衛衆を束ねる一族の長である。そして高塚道全が頭を垂れるその人こそ、この地方一帯を治める東松原が城主――斯波戒鍊であった。
***
そんな天上人の考えなど知るよしもなく。陣衛や朝芳、水守の司が果たす務めは変わることがない。ただし、彼らを取り巻く状況はいつも通りとは行かない。あやかしの侵入が確認された以上、その阻止を担う関所に厳しい目が向けられるのは当然だからである。
未だ侵入経路が判然としないこともあり、上役の更に上、普段は関所に寄りつかないような、城勤めの高位守人が指揮を執っての調査が進められている。守人の一人一人についても当日の行動確認や不審な行為がないか厳しい取り調べが行われている。それは水守の司においても例外ではない。
だが実のところ、陣衛当人に限って言えばそこまで悪い対応をされてはいない。なにせ竜人打倒の張本人である。わざわざあやかし侵入を明らかにする理由は何一つない以上、陣衛以上に白が明らかな人間はいないのだ。当然調査自体は行われこそしたが、元々寡黙で友人の少ない男である。調べること自体が少ないうえ、勤勉で腕も確か。
そんな人間があやかしを招き入れるような真似をすることはない。そう思われるだけの信用があったのである。
そんな陣衛とは違って痛くもない腹を探られ続ける他の人間は不満を隠そうともしない。顔の広い朝芳など取り調べの合間に務めを果たしていると思えるほど、詰め所の自席に現れることが少ない。
だから二人が落ち着いて話をできるのも、あやかし討滅後の水垢離くらいであった。
その日も閉門近くになってやってきた一団に山犬の獣人が紛れていた。陣衛と朝芳の目をごまかせるはずもなく、ひゅるりと斬ってそれで終わり。あやかしの毒を浄化するために水を浴びている中、朝芳が言う。
「実のところ、だ。お前の相手したっていう竜人はどうだった? 即殺だったらしいが」
「大したことはなかった。あまり変化も上手くなかったようだ」
「そうか……。そうなるとますます道理が分からんな。その程度のあやかしが、城下に入り込むなどと。しかし竜人と言えば嫌でも大崩しを連想してしまって良くない。状況が似過ぎていて、それがどうにも何者かの絵図があるように思える……。いや、止めておくか。嘘が誠になってもいかんものな」
二人の間に水の揺れる音だけがある。日暮れの朱と濃紺が水に映る。
「なかなか難しい状況だな」
相変わらず減ることのない水調べでのあやかし討滅。
厳しいでも辛いでもなく、難しい。その言葉に陣衛が興味を持って朝芳に視線をやる。
「俺たちは役目を果たしている。他の司もだが、少なくとも俺とお前の組では一匹たりとも見逃したことはないと胸を張れる。厳しい目で監視されようと、何も問題はない。見逃しが許されないのなんてはじめからだからな」
確かにその通りだと陣衛も頷く。なら何が難しいのか。それは問題そのもの、どこからあやかしが入り込んだかの特定であろう。
「ここだけで言うが、結界に揺らぎが起きてたという話もある。今回侵入してきた竜人はもういないが、まだ潜んでいる可能性ってのは消えたわけじゃない。城下じゃ疑心暗鬼で出歩く人間が激減してる。無理もないけどな」
それは陣衛も感じていたことである。外出制限がかかっているとしても、関所と家の間に何もないわけがない。串焼きを売る店もあれば、卵売りや魚売りが声を上げて道を練り歩いていた。今となっては陽気な呼び込みの声すらろくに聞かなくなっている。
「これ、どう考えても穴だよな」
「……うかつだぞ」
「言いたくもなる。それにここだけの話だ。痛くない腹を探られてるんだ、このぐらいは許されるさ」
穴。それはつまり、内通者、手引きをしたものがいることを示す。水守の役目が増えたことは仕方のないことだ。だが、その内容があまりにもおかしい。ここまで執拗に何度も取り調べを行う理由がどこにあるのか。外出制限にしても意味があるとは陣衛は思えない。足を引こうとしているとしか思えないのだ。
そして一つ疑念が浮かべば浮かぶ問いも増える。年始の無用な配置換えである。元々水調べの組は腕と経験を勘案して決定されていた。それが、突如として歳や実力の近いもの同士として組み替えられたのだ。陣衛と朝芳の二人についても、関所で最上位の腕を持つ二人をまとめる必要など無いのだ。本来であれば腕の代わりに経験を持つものを付けるのが定石。年かさの二人を組ませて何の意味があるというのか。ほぼ全員の司と上役までもが異を唱え、黙殺されたのだ。
それまでの安定した役目の順番変更や、無意味に増えた報告書類の増加、手続きの複雑化。結果的に年かさの水守の司が隠居を決めるなど、現状を鑑みれば関係がないとは言えないだろう。
実際、役目のお目付役が増えて、一つ一つの仕事について口出しされている。水調べの間にさえ、ろくに刀を振ったことのないような事務方が入ってくるのである。あやかしの見極めに足手まといが入り込んでくるのだからたまったものではない。
さらに水調べの役目が終われば、これまでの対応について細かく問われるのだ。毎日遅くまで引き留められて不満がたまらないはずがない。
そしてそんな穴を作ることができる人間は限られる。下働きの人間できることではない。実務に携わる陣衛達水守の司やその上司程度では不可能だ。となれば、当然その上が怪しくなるのは道理だ。
「……まあ、それは俺たちの仕事ではない、か」
どうしてもできることは限られる。水守の司が城内政治にうつつを抜かしては本末転倒である。更に言えば、城下の不安を取り去ることだって禄にできやしない。
「あやかしの変化が、厄介であるよな。疑心暗鬼が沸く。隣の人間すらあやかしではと距離を取る。知り合い同士をだませるほどの変化などまずないのにな」
「俺たちが知らぬままで良しとしてきた」
「ああ。それが俺たち水守の司、その役目であるものな。ここに至ってはどうにも裏目なのが口惜しい」
人に化けるあやかし。想像であるからこそ不安を払うことは難しい。枯れ花ですら見方によっては恐ろしい影になる。正面からずずいと真偽を確かめられる肝のある人間ばかりではないのだ。解決だと言える明確な何かがなければ延々と気鬱な日々が続くことになる。だからこそ、朝芳は難しいと言ったのだ。
「……判ずるだけであれば、水打ちが効くという話だ」
水打ち? 朝芳の怪訝な顔に、陣衛は先日読むことになった氷雨の報告書をかいつまんで話す。曰く、簡単な変化程度であれば水で揺らぐ。水をかけるだけで髪や睫毛、細かい部分に違和感を感じ取れるというのだ。
元々あやかしは清められた水を苦手としている。変化を身に付けたあやかしともなれば、その程度で姿を現すことはないが、過敏な反応を隠すことはできない。
清められた水であれば有効であることは知られていたが、白峰から大河となって清水が注ぎ込むこの城下においては、単なる井戸水でもある程度の効果が見込める。
「それはなかなか良いな」
しかしながらと陣衛は続ける。効果はある。ただし、弱い相手に限る。だから限定的な効果であると言っておく。実際に変化を使いこなすあやかしには大した効果は見込めないだろうと。
「いや、それでいいんだ」
例え正体を暴く力はなくとも、疑心暗鬼の解決という意味であれば十全に効果がある。安心を得られるなら悪くないと朝芳が言う。
陣衛としては半信半疑だ。陣衛には力なき者の気持ちが分からない。腕を磨き、剣を振るために生きてきた。だから本当の意味であやかしを恐れる人に沿うことはできない。代わりにあやかしを斬る。それが唯一陣衛にできることだ。それ以外の解決法を陣衛は知らない。
誰より速く、あやかしを斬る。そうすれば人は心安らぐはずであると。そう信じてきた。
だがここのところ、どうもそれだけでは足りないような気がしているのだ。陣衛からすれば、水打ち一つで不安が晴れるとは思えない。しかし、自分よりよほど世慣れた朝芳は良い考えと言う。市井をよく知るはずの友坂も、実際に反応を試してきた氷雨も、それを良いと考えているのだ。
「……俺たちが励めばいいだけ、とはならないのか?」
「最終的にはな。だが、それまでのつなぎはいるだろう。俺たちのように戦える人間ばかりではないからな。俺たちがいる限り、あやかしは入り込まないんだ。水を掛け合って人は安心するなら悪いことではないさ」
「そういうものか……」
「そういうものだ。しかし――なんだな」
なんだ。そう目で続きを促せば、朝芳が喉を鳴らすように笑う。
「気遣いを覚えたようで、大変結構」
「……あやかしは斬る。変わりは無い。それに――」
待たせているのだ、彼女を。花に溢れたあの店に、かならず行くと。
「飯くらい、好きな店で取りたいからな」
「好きな女の店に行きたいと素直に言え」
朝芳の指摘を無視して水から上がる。第一、好きな女などと、美織に失礼な話である。陣衛としては心のどこにどう置いたものか悩みの途上である。軽々しく決めつけられては困るのだ。
黙って体をぐいぐいと布で拭く陣衛に、呆れたように朝芳は水に潜る。同僚の初心な熱から逃げたかったのである。
そしてざばりと水から上がった朝芳が声を潜める。
「先に出るぞ」
これ以上どうにもならない話を聞いていても仕方がない。もとより愚痴など聞いていて楽しいものではないと陣衛は考えている。無用な出歩きまで禁止されているから、家までの帰り道で惣菜でも買うしかないのが悲しいところである。
が、朝芳はそれを許さない。むしろ嬉々として陣衛の後を追う。表情の明るさはそれまでの比ではなく、愉快でたまらぬとばかりに白い歯をみせる。
「で、花千里の子とはどうだったんだ?」
それが本題か。陣衛は内心ごちる。散々引き留めておいて出てきたのがこれである。陣衛と朝芳はここのところまともに話す機会もなかったし、大体の場合調査の守人がつきまとっていた。だから聞く暇が無かったのだろう。朝芳の爛々と光る目は、陣衛の話を娯楽として期待していることをありありと告げている。
まともに取り合う必要はないが――ないのだが。いかんせん朝芳の助言に助けられた身でもある。芝居を見たあとの段取りすらああだこうだと陣衛に講釈を垂れ続けたのだ。陣衛には陣衛なりの考えがあったが、実際その講釈がある程度信じるべきだとも思ってはいた。
もし竜人と遭遇しなければ、大いに参考になったことは間違いない。
仕方なしにその日の顛末をぼそぼそと端的に話す陣衛に、朝芳は大層楽しげで、長い髪が乾くまで水場を離れられなかった陣衛なのであった。
***
陣衛が果たすべき務めは水調べだけではない。水守の司という関所での最高戦力の役を任じられているのだ。対あやかしの専門家として、遭遇したあやかしについての見識をまとめたり、水調べの間を良好な状態に維持するための手配など、筆仕事も多い。時には関所の内部を東へ西へと駆け回ることもある。
陣衛が上役に掴まったのはそんな雑務に追われているときのことであった。
「ん、笠間か。よしよし、良いものをみせてやろう。付いてこい」
ようやく面倒な書類が片付いたと思えば、さらに面倒な上役の相手である。できる限りの嫌な顔をした陣衛だが、上役である今寺は鷹揚に笑う。どうせ着物の類いであろうと。陣衛はそう判じるし、事実その通りである。城下に出現した竜人の件からこのかた、忙しいのは陣衛達だけではない。むしろ陣衛達をまとめる今寺こそ内外からの苦情や疑念を一手に引き受けているのだ。たまった鬱憤を趣味の話で発散する。当たり散らされるよりは良いが、付き合わされる陣衛としてはたまったものではない。しかし断ろうにも今寺の背後で陣衛を拝むようにする補佐の憔悴した顔を見れば、口をひん曲げる位しか抵抗する術はないのだった。
陣衛を従え今寺が向かうのは、上役用の執務部屋である。陽の入らない奥まった場所に位置するためか、はたまた訪れる人の少なさか、足下の畳は綺麗なものだ。足下を気にしたのは正面を見たくないから。六畳ほどの部屋、その壁壁には派手な色合いの着物が乱立している。衣桁に掛けられているからこそ、その奇抜とも言える柄がよく見える。
「南方ならではの色味であろう?」
赤と青と黄が麻の葉模様を作り上げている。確かにそこらでは見ることがないほどにその色は鮮やかだ。しかし鮮やかすぎる。守人の装いとしては完全に失敗である。治安を守るどころかみだしているようにしか見えないのだ。見慣れない色合いに陣衛の目は落ち着かない。できるだけ視線を逸らす。しかしそんな反応をどこ吹く風と、今寺の口上は止まらない。
「確かに昨今の流行とは真逆であろう。だが目を見張るこの発色、もはや見事としか言えまい」
「こちらはいささか珍しい趣向でな。長月に、落ちる黄金の、慶びを。良いだろう? 儂の作だ」
今寺が詠んだ通りの文言が斜め縞のあちらこちらに散らされている。陣衛にはその句の善し悪しは分からないが、自身の着物とするくらいだから渾身の出来なのだろう。比較的落ち着いた色合いであるから、陣衛の視線は自然そちらに向かう。今寺はその視線に満足げである。
「家内も娘もこの良さがわからんでな。こっちのを見てみよ。どうにもこういった獣の絵が良いというのだ。笠間、お主はどう思う?」
全体が落ち着いた枇杷色。そして襟下から足下付近には白やぶちのある子犬がレンゲやタンポポと一緒に描かれている。ちらりと文字入れのされた着物を見てから、再び子犬の柄を見る。少なくとも、子犬の方がまとまって見える。
「ふぅむ……。笠間も存外にかわいらしい感性であるのだな……」
その物言いには語弊がある。そう思う陣衛だが、かといって奇抜な模様が好きだと思われるのはもっと困る。陣衛の分も仕立ててきたぞと、言いかねない行動力がこの上役にはあるのだ。
今寺は一頻り見せたいものを見せ、語りたいだけ語った。陣衛の目に光はない。
「時に笠間。お主、ここにきてそれなりに経つ。随分務めも上手くこなすようになったし、近頃は門士どもからの評判も良い。でだ。そろそろ足下を固めてもよい頃ではないか?」
来た。陣衛の眉にこれでもかとしわが寄る。つまりは縁談である。陣衛とて武門に名を連ねるものとして血を繋ぐ必要性は重々承知している。が、どうにも気乗りがしないのだ。そのあたり、今ひとつ陣衛にはまだ難しい感覚である。すでに後継としては兄がいると言うのもあるが、そもそもとして夫婦という関係も分かっていないのだ。
「どうだ? それか誰ぞよい人でもいるか?」
そんな相手がいるわけもない。しかしなぜか、花の香りを想起する。
ふむ、と上役が目を細める。
「先日の竜人退治でお主の名も売れ初めておってな。多少の無理でも効こうというものだ。もしこれは、と思うおなごの一人でもいれば言うが良い。悪いことにはせんからな」
着道楽の話し好きともなれば、見合いの斡旋まで身に付けるものか。
しばらくは必要が無いことをどうにかこうにか押し通し、ようやくの解放である。
げんなりと自席に腰を下ろす陣衛に、不思議そうに片眉を上げる朝芳なのであった。