朝、陣衛が着替えを終えて詰め所に入ると、珍しい男が話しかけてきた。
無精髭に若白髪の交じった髪。しわの残る袴姿。何もかもが雑な男、友坂半重郎である。隣には朝芳と、水打ちの報告書をまとめた時以来の相馬氷雨もいる。
「よぉ笠間、悪いんだけどよぉ、今日からしばらくはこいつと組んでくれねぇか?」
「例の件でな、組み替えしろとのお達しなんだわ。俺も別の組に変わるから今日は予備役だとさ。全く、昨日のうちに言っておいて貰いたいもんだよな」
疑念に目を細める陣衛だが、どうも否応無しの横紙破りで決まったことらしい。今寺も抵抗はしたらしいが、所詮は中間管理職。上の上からお達しと言われれば抵抗もたかが知れている。
今日の当番である水守の司はまだこの場にいない一人と合わせて四人。朝芳含め残りの六人も同じように組み替えとなるらしい。実力に関しては水守の司として任じられたからには保証されている。だが、剣には相性というものがある。剛剣を二人重ねても得られる結果はたかが知れている。剛軟織り交ぜるからこその連携だ。そして氷雨と友坂のように、経験を継承することも重要である。
若いながらも十二分に経験を積んでいる陣衛ではあるが、それでも友坂の知見に及ぶところではない。剣の相性はともかく、教育という点では不適切だと陣衛は考える。
「朝芳――」
「お前を指定したのは俺だ、笠間。こないだの一件、悪くなかったからな。それに組み替えが認められるなら変えるわけないだろうが」
道理である。せめて新人くらいは相手を決められるように今寺が粘ったという。そして友坂は氷雨の教育係として陣衛を選んだのだ。ちらと氷雨を見やれば、頼もしげに陣衛を見返す瞳と目が合う。言い方、言葉に気をつけてみた結果が出たようである。
「お前も口下手を矯正する良い機会だろ。精々学ばせて貰え」
からかうような朝芳の背後では、友坂が似たようなことを氷雨に訓示している。
「笠間の地蔵っぷりはともかく、腕は随一だ。よく見て技の一つでも盗んでこい」
「はいっ!」
なんとも気の抜けるひとときであった。ともあれ、陣衛はしばらくの間氷雨の組となることが確定したのである。
相馬氷雨。彼女は年初より水守の司を拝命された新人だ。これまでは友坂が指導役として教育をしてきたわけだが、時期的にはそろそろ独り立ちを考える時期でもある。
「ほれ、挨拶しろ。短い間――になればいいが、組になるんだからな」
「分かってます。笠間殿、先日はありがとうございました。これからしばらく、よろしくお願いします」
「ああ」
一言だけ応じると、陣衛はさっさと自席へと着座する。陣衛としてはそれで十分だった。頭が働くことは既に知っている。腕も水守の司を任じられ、友坂に鍛えられているのなら心配はない――だらしない男ではあるが、経験と指導力は確かなのだ――と考えたためだ。多少足りない部分はあれど、そのための組だ。問題はない。だからさっさと務めに入ったのである。
が、その考えが氷雨に伝わるはずもない。明らかに戸惑う氷雨に、友坂が笑って背を押す。
「こいつはそういう奴だ。何も言わなけりゃ問題ないとしか思わんからな、言いたいことはすぐに言わないとずっとだんまりだぞ」
ちらりと陣衛が氷雨を見上げる。何かあれば言えと、その目が言う。
「では、本日の予定を確認させて下さい。それと、稽古もご一緒させて頂ければ」
本当に遠慮なく陣衛へと要望を伝え始める氷雨。陣衛は片眉を少しだけ上げると、一つずつ答え始めた。そんな姿を友坂は満足げに頷いている。朝芳はそんな友坂を見て、呆れたようにため息をつくのだった。
***
水調べの間には常に二人の水守の司が控えるのが規則である。新人とはいえ半年以上水守を務めてきた氷雨は既に堂に入ったものだ。浅い水堀を渡る来訪者達を丁寧に見極めていく。
水守の司を含め、守人というのは大きく二つの指揮系統に分かれている。城外と城内である。ここでいう城内は文字通り城の内を、城外は城下町から門の外を示す。守人は基本的に実力主義ではあるが、城内についてはよほどでない限り武門に指南された身元のはっきりした人間が勤めることとなる。信用や内勤など多岐にわたる務めがあるため、教育を受けた者でなければそうそう勤められるものではないのだ。
そして門に勤める一般的な衛士は門士と呼ばれる。水守の司とは明確に区別されるとおり、陣衛たち水守の司もほとんどが武門の出なのである。その中でも例外なのが一般衛士からの持ち上がりで水守となった友坂であり、さらに女性でもある氷雨であった。
女性の身とはいえ、実力で周囲を黙らせてきた友坂の弟子である。水鏡の脇に控える様は陣衛ら他の司と遜色がない。顔を薄い紗で隠すこともあり、女性であることに気付いていない者すらいる。
午前の十一組目、現れた城下への来訪者は五名。ピクリと陣衛の指先がわずかに膝を叩く。身じろぎ程度のそれに気付く者などそうはいない。だが、氷雨はそれを明確に合図として受け取った。
警戒せよ。水守は城下に入り込もうとするあやかしを洗い出し、排除するのが役目だ。一体たりとも取り逃すことなく、確実に斬り捨てなければならない。しかし水に映るその正体を見てから用意するでは遅過ぎる。その影が水にかかる前には刀を抜けるよう気を整える必要がある。よって、少しでも感じる者があれば警戒に努めるのが習わしである。
何を以てそれを感じるのか。この辺りの感覚は新人である氷雨にはまだ分からない。ただ先達たる陣衛に従うのみである。
一人、二人と行商人が素足を水堀に着けて渡っていく。そして四人目。陣衛が示した男が水鏡の前へと歩み寄ろうとした。途端に氷雨の気迫が水調べの間に満ちる。唐突に張り詰めた空気に、誰もが口を閉じた。状況が分からぬ来訪者達は居心地が悪そうに身じろぎをし、経験豊かな門士がわずかに顔をしかめる。
四人目の行商人がその緊張感に何らかの行動を始める直前、陣衛が腰に下げていた小袋を落とした。静かになった部屋にガチャリと響く。自然、その場の視線が集まった。
「失礼」
陣衛からは一言。それに応じるように、来訪者を引率している年かさの門士がおどける。
「お前さんの腰のそれが落ちるか落ちないか気になって、こっちの司様まで緊張しちまってるじゃねぇか」
「気付かれていたか」
そりゃあなと笑う門士に、場の緊張がほぐれる。あやかしは殺気に敏感だ。あのままでは正体を確かめる前に暴れられかねなかった。陣衛ならばその寸前に斬り捨てられようが、それでも危険に変わりない。それ故に陣衛が気をそらすべく動いたのだ。
気を取り直して、という門士に従い四人目が水に足を踏み入れ、ほぼ同時に四人目の右足と首が断ちきられる。
――水面に映る人外がゆえに。
陣衛の抜き打ちが右足を、わずかに遅れて氷雨の刀が首を撥ねたのだ。頭と足を失った体が水に倒れ込み、そしてどろ墨のような黒い煙が吹き出す。しゃらんと血払いをし、陣衛が刀を鞘に戻す。あまりの早業に事態を理解していない残りの来訪者へ、陣衛が状況の説明および事態の収束を宣言する。
「水調べにて、あやかしの侵入と打倒を確認! これにて幕とする! 門においては引き続き厳なる対応を願う」
朗らかな場の空気が一転、たちまち修羅場と化した事実に五人目の行商人が腰を抜かしている。その目は灰になっていくあやかしと、容易く斬り捨てた陣衛とを交互に行き来している。
「……立てるか?」
今までの陣衛であれば、門士に任せている。水守の司が担うべきはあやかしの排除。それ以外は些末であると断じていたからだ。ただあやかしを排す、それだけが守人の――水守の司の責務。門士への訓練や、日々の勤めも全てはそのためにある。それが陣衛にとってのあるべき姿であると。
だが、陣衛はどうにもそればかりで良いのかと迷っている。
今目の前で腰を抜かしている男は、どのような人間か。目には恐れがある。手は震えていて、顔色は青い。水鏡に浸すからと腰にまとめている草履はすり切れ始めてボロボロだ。色あせてくたびれた羽織は、しかしよく手入れがされているようで見苦しくはない。総じて言うならば、仕事熱心な行商人であろう。それはつまり、陣衛が守るべき人だ。
「あ……は、はい。いえ、自分で立てますんで……」
そうは言いつつも足下が怪しい。力が入らないその様に、陣衛は行商人の腕をとり、一気に立たせる。あやかしの血は毒だが、清められたこの間においては直接浴びなければ問題はない。無論、陣衛の真っ白な水干には血の一滴さえもないが。
行商人の呼吸に合わせて巧みに力をかけたものだから、本人が驚くほど軽やかに立ち上がった。とまどい目を白黒させている行商人を、他の人間を誘導していた門士が引き取る。目を瞬かせながら下げられる頭に軽く頷くと、陣衛は周囲を見回して――。
今更ながらに、これからすべき水浴びについて、女性である氷雨をどう扱うべきか頭を悩ませるのであった。