夜のとばりが降りた、薄暗がり。わずかにろうそくが火を揺らし、その場に二つの影を生み出す。一つの影が広がり、もう一つの影を飲み込んでいく。しばしの間影がもみ合うように動くが、やがて静止する。
一つになった影が、重々しく問いを発する。
「――お姉ちゃん思うんだけど、それは恋じゃないかしら?」
姉である美那は、上着代わりに羽織っていた毛布と共に美織に覆い被さっている。仲の良い姉妹の戯れである。身を固めても固めきれない稚気が、二人だけの時には顔を見せる。だから美織も子供のように応じるのだ。だが、その言葉まで子供のままでいられるはずもない。美織は口をぎゅっと結び、答えを自らの中に探す。深く思索にふける美織を美那は優しく見つめている。
ここのところ美織はずっと上の空であった。
日頃の仕事には影響させていないようだが、明らかに精彩を欠いている。夕暮れ時になればそわそわと入り口を見つめている。入ってくる客一人一人を歓迎しつつ、気を落としている。
常連客でも分からない程度の変化だ。問題がないといえばない。しかし姉の目はごまかせない。だからのれんを仕舞い、家族団らんの後を見計らって美織の部屋に来たのである。軽く体をほぐして、元気がない理由を、何を気にしているのかを確かめに。もちろん美那にはその理由が分かっていたし、どんな話になるかも想像が付いていた。
だが、自らの妹がどれだけ鈍いのかを分かってはいなかったのだ。
曰く、大したことではなく、近所の猫がいなくなった程度には気になっている。もちろん美那は誰が、などと一言も言っていない。美那はその事実には触れず、でも気になってはいるのよね、と話の続きを促す。
すると出るわ出るわ。美織がため込んだ陣衛への不満がわんさかと。
曰く、目を合わせようとすると逸らすのが気に食わない。名前を呼ぶことを許しているのに、全く名を呼んでこないことが腹立たしい。料理の説明をするときに話を聞いていないことがある(ただ、うちの料理はおいしいから仕方ないけどとも言う)、もっとわかりやすく笑って見せて欲しい、いい加減髪を切ればいいのに面倒くさがっている、同じ服を三着用意して着回しているのが信じられない、実はオクラが嫌いなのだ、などと洪水のようであった。
中には不満か? と思うようなこともあったが、美那はそれら全てをうんうんと頷きながら聞いて見せた。そして、冒頭の一言を告げたのである。
***
美織の姉、美那は色恋沙汰が好きだ。周囲の人間の惚れた腫れたをいつも楽しそうに聞いていたし、自身も義兄と山あり谷ありの大恋愛をしたと言って憚らない(幼なじみという仲で、驚くほど順調に結婚まで進んだと美織は記憶している)。
そんな姉がまたおかしなことを言い出したぞ。それが美織の正直な感想だった。一つ息を吐き、あのね、と姉に前置きをする。
「あのね、お客さんの好みくらいは見てれば分かるし、第一そんな話はしてないでしょ」
美織は自分を現実的な人間だと思っている。冷血とは言わないが、どちらかといえば冷たい女だと自認している。恋、などという柔らかくて暖かい、きらきらしたものに縁などないのだ。恋とは美那のような優しい女性がするものであって、自分がするものではない。そう考えていた。
「私みたいな頑固者がそう思うことはないし、そんな風に思ってくれる人だっているわけがないでしょ?」
そんなことをいくつかの事例を元に説明すれば、美那は不思議そうな顔をして美織を見つめ返すばかり。これはもう少し説明が必要かと美織は思ったが、美那が大きく頷いたので口を閉じた。
しかしその頷く様があまりに訳知り顔なのだ。明らかに分かっていない。
「お姉ちゃん? だからね、そういうのじゃないってこと。分かるでしょ?」
「はいはい。お姉ちゃんはとても良く分かりました。とってもね」
胡乱げに見つめる美織に微笑み返し、美那は立ち上がる。そろそろいい時間であるし、なんというか当てられてしまっていたのだ。どうにも夫と話をしたくて仕方なくなった美那なのである。
「あ、でも一つだけ聞いて良い?」
「……何?」
「笠間さまの一番の好物、美織は知ってる?」
「一番かはまだ分からないけど、小茄子の浅漬けが好きなのは間違いないと思う。いつもじぃっと見てるもの。……ねぇ、何の質問なの?」
「ん~ん。別に、何にもよ?」
そう言って美那は美織の頭を軽く撫で、部屋を出て行く。妙に足取りが軽いのが気になったが、美織はお休みと言って見送る。
言葉が眠気を引き出したのか、ふわぁとあくびが一つ。何だったのかは分からないままだが、いつもの姉の気まぐれであろう。そう断じて、美織は寝台へと潜り込むのであった。
***
陣衛が水守の司として勤める東松国の城には長い歴史がある。古くは神の座す森を守護するために建てられた城である。今となっては神々も隠れて久しく、脈々と続いた森もいつの間にやらただの森へと姿を変えている。しかしそれでも神々が愛した白峰は、豊かな恵みを周囲へと惜しみなく分け与えている。
そんな歴史のある城であるから、あやかしとの付き合いも長い。城の歴史は戦いの歴史とも言えるほど、あやかしに苦しまされてきた。今のように平穏が続く様になったのもここ百年、白峰から流れる清浄な大河をどうにか城へと寄せる大工事が成されたからこそ。坊主どもの術は深度を増し、清流を活用した結界が生み出された。守人は数を増やし練度を高めてきた。
だからこそ、五十年前に起きた大崩しの衝撃は大きい。一体の竜人が突然に城下に出現し、瞬く間に警邏中の守人をおよび付近の町民を食い尽くした。そして竜人に誘われるようにして現れたあやかしの群れと共に城下のことごとくを蹂躙したのである。
あまりに多すぎるあやかしに人は襲われ、腕の立つ守人は全て竜人に喰われた。それは城を治める斯波一族とて例外ではなく、生き残ったのは廻国修行中であった現在の城主、斯波戒鍊だけであった。三年ほどを修行に費やし、戒鍊が帰国した日こそが大崩しとなったのだ。戒鍊とその仲間達がその竜人を決死で撃退したからこそ、今でも東松原の城はある。紙一重の結果であり、落城すらあり得た大事件であった。
記憶は遠く、しかし危機は常にある。平穏とは、揺蕩う水ほどには容易いものではないのであった。
***
その日、東松原の国は長い平穏が破られる音を聞いた。
何一つ変わることのない日常、その夕暮れにあやかしが現れた。
見張りの門士は誰に慮ることなく正面から歩んでくる竜人を見た。人に化けることなく、隠形で体を隠すことなく、十尺(約3m)はあろうかという身の丈を堂々と晒したままの姿を見た。鉄のように鈍く輝く鱗。肉を裂き骨を砕く、その牙、その爪、その尾を誇るようにして現れたのだ。
城を取り巻く水堀を渡る橋は既に跳ね上げられている。水を基点として坊主どもによる結界が張られている。だから、水堀を越えることは敵わない。そのはずであった。
しかし、見張りの門士や、閉門に間に合わず城外で一晩を過ごす準備をしていた旅の商人、城下の外にくらす宿無しの乞食が見ている中、竜人はその予想を軽々と越えてみせた。
巨体に見合わぬ小さな着地音。それは竜人の巧みな体運びが故。技のある証である
固く閉じられた関所の門。例え最新の石火砲であれど容易く跳ね返すだろう強固で頑強な、国を守る盾だ。
竜人が門の前に立つ。如何に巨大な竜人であれど、門と比べれば門の巨大さが勝る。だが、竜人はカカと笑う。そして、ただでさえ大きいその肉体が、はち切れそうなほどに膨れ上がる。
緩く体を捻り力を蓄え、捻りの勢いが乗せられた拳が門へと放たれた。
――轟音。
関所どころか、城下町全体にまで響く程の音が生まれた。攻城兵器を想定して堅固に作られたはずの門が、竜人のたった一撃に揺れる。
竜人はきしむ門へ嬉しげに笑いを漏らす。まるで子が壊れないおもちゃを見つけたかのごとき稚気。だが続けざまに振るわれようとする拳には、確かな悪意が宿っている。
次の一撃を、と固められた拳。引き絞られた体。しかし、拳が放たれるのを待たず、雨のように矢が降り注ぐ。門士による迎撃の開始だ。突然の襲撃に混乱こそしても、即時迎撃の手はずを整える彼らの働きは十分である。一矢では足りずとも、何十何百と射貫かれて死なないあやかしなどいない。侵入者を殺すために設計された関所である。
四方いたるところに開けられた矢口や突き出しから、絶え間なく矢が降り注ぐのだ。
逃げ場はなく、残るのは骸だけ。誰かが、これならば、そう呟いた。
ごう、と関所に風が渦巻いた。嵐のように圧のある風に、矢口で構える門士の手が止まる。何が風を起こしたか。血の冷たくなるような予感を抱き、門士が覗いた先には――竜人が立つ。
風を巻き起こしたであろう丸太のごとき腕が下ろされる。竜人の足下には鏃の潰れた矢がむなしく転がっている。あやかしを貫くために鍛えられた鏃だが、竜人の鱗はなお固い。竜人に何の痛痒も与えることなく、ただ枯れ木のごときむなしさがある。
ぎろりと竜人が、突き出しから竜人を見下ろす門士をにらみつける。竜人は地に転がった矢の一本を器用にも尾の先でくるりと巻き込むように持ち上げてみせた。そして尾の先が”ぶれる”。ピッと風切り音が鳴り、門士の喉に矢が現れる。
突き出しから落下する門士を顧みることなく、竜人は再び門への攻撃を開始した。