ただ二度の攻防。それだけで広間の踏み固められた地面はめくれ上がり、門壁は崩れ落ちた。できることはないかと機を伺う門士たちに、手出しができる世界ではない。
まるで舞うように軽やかに跳ぶ氷雨。力強い踏み込みで必殺の一撃を狙う陣衛。だが大鱗丸はその上を行く。咆哮とともに突き出される拳は、人を容易く挽肉に変えるだけの破壊力を持つ。牽制であっても人の身で受けられるものではない。畢竟、陣衛と氷雨は回避を強制される。陣衛にとって回避と攻撃とは表裏である。文字通り斬り抜けるようにして大鱗丸の猛攻をしのぐ。
予備動作なしに振られる尾はまるで嵐。未だ陣衛が立っていられるのは要所要所で氷雨がわずかでも大鱗丸の気を引けているからだ。陣衛とて大鱗丸とがっぷり四つに組めるほど頑強ではないのだ。
技量の不足した氷雨だが、蜂の一刺しがごとき脅威はあるのだ。しかし、それも大鱗丸が攻撃を放つ度に氷雨は回避に時をとられる。氷雨の支えが減れば陣衛とて攻撃にさく余裕は減じる。まさにじり貧である。傘にかかって吼える大鱗丸に防戦に追い込まれる。
それでも逆境を退けるのが水守の司、その務めである。対あやかしの専門家として、関所を守る最後の守護としての矜持がある。
荒れ狂う暴風をすり抜け、陣衛が刀を振るう。正確無比な剣筋が大鱗丸の急所を狙い、そのことごとくが躱されていく。陣衛の斬撃、刀へ強く警戒をしている。鱗で受けるでもなく、人には取りえない動きで刃を近づけない。大鱗丸の体軸が崩れるを良いことに力を込めた瞬間、縮めてきた間合いを放り出し陣衛は飛び退く。大鱗丸の爪が陣衛の前髪を揺らした。
刹那の澱みですら死が見える。
死地だ。光が明滅するように、生と死が入り交じる。
常に選び続ける。陣衛の表情は変わらず、ただ汗が噴き出る。
陣衛にとっては宿敵だ。怒りの矛先を突き刺すべき憎きあやかしだ。流通を妨げ食の喜びを害す敵だ。友坂は息があるかも分からない。五体が残っているかすら。怒りがある。しかしその原因を前に、余裕などない。
半歩踏み越え死を見る。氷雨の柔らかな動きが大鱗丸の注意を引き、かろうじて生を掴む。
まるで絹の糸を渡るようですらあった。
一秒先すら保証されぬ命。陣衛の体力も無尽ではない。氷雨の決死の援護ももはや大鱗丸の動きを止めること叶わない。陣衛自身の動きすら、大鱗丸に対応されていく一方だ。ありとあらゆる雑念が死に直結する。だというのに、余計なことばかりが頭に浮かんでくる。
「剣には、性質が出る。いいぞ、力と技、見事にかみ合っている。よくもまあ美味そうに育ったものだ」
読まれ始めている。陣衛の剣は最大の一撃を最速で叩き込む、敵の排除を最優先とする剣だ。学んできた型に忠実に、正確に同じ動きを続けることが陣衛にはできる。だがそれは、剣の術理を読み取れば先を読むことができると言うことでもある。
陣衛の速さと技に抗しうる身体能力があるのならば、歴戦の経験があればの話である。そして、遙か古より生き続けているあやかしこそが大鱗丸。
陣衛は内心で臍を噬む。
せめて、もう少しまともな刀であれば。剣に責を押しつける自分の未熟に怒りが沸く。氷雨は限界だ。下がらせなければならない。辻堂の馬鹿はなぜ大事なときにいないのか。壊れた門は誰が直すのか。上役は予算繰りに悩むだろう。せめて辻堂か友坂がいれば。いや、友坂は無事であればいい。今日の夕餉は遅くなりそうだ。刃こぼれが酷い。せめて菓子の一つでも懐に忍ばせておけばよかった。
不満も後悔も尽きることはなく。それでも、陣衛の瞳はまっすぐに大鱗丸を捉えている。引くことも、負けることも考えていない。あやかしを排する。それだけのために全力を尽くす。そのために、体が動く。剣に無駄が増える。水のように澄み切った思考に雑念が交じり、そのどれもが陣衛の未練となって命を引き留める。最短を選べない現状が、回り道を行くように、剣の質を変える。
「よいな、よいぞ! そそる血肉が、今も育つ!」
「ゲテモノ食いに用はないっ!」
***
これで何合切り結んだのか。陣衛には何時間も経った様にも、一瞬のようにも思えた。そして全く同時に陣衛と大鱗丸が一歩下がる。
息を整える。既に陽は落ちている。夜はあやかしの領分だ。門士が大急ぎで用意したかがり火だけが辺りを照らす。斬れるか、斬れぬか。陣衛は素早く思考を巡らせる。
もはや陣衛に手はない。ボロボロの刀。折れていないのが不思議なほどだ。背後には膝を着く氷雨。ただ、目はまだ死んでいない。
――自分と氷雨を使い潰せばこの竜人の首に届くか?
届かぬとて後に続く者への助けになろう。刀の柄を握る両手を指一本分広く取る。
ギラリと戦意が目に浮かぶ。その視線に応えるは竜人の目。覚悟を決めて踏み出す、その寸前。
――風が吹いた。
風に乗るのは煮炊きの香り。食事時なのだ。食堂か、近くの民家か。馴染みのあるその香りは、陣衛の決死の覚悟にするりと入り込む。
腹が鳴る。静かな広間にただ響く。恥じ入る気はない。腹が減っているのだ。むしろ陣衛は胸を張り、声を上げる。
「誰ぞ、食堂に夕餉を頼んでおけ! 煮炊き担当をまだ帰らせるな!」
どよめくように、そしてさざめくように緩い笑いが広がる。最も死を間近に剣を振るう男が、戦いの後を気にしたのだ。堅物男の決死の冗談。それを頼もしく思わない人間はいない。
――本当ならば、花千里で美味い魚を食べたかった。なんでもいいから、美織と言葉を交わしたいと思った。
そのためには、邪魔がいる。目の前の竜人が邪魔だ。
この化け物を城下に入れることだけは許されない。状況は悪く、命がけでも奴の首に届くか分からない。だからこその決死、不退転の覚悟を腹にくくった。あやかしどもに城を、守るべき人を蹂躙されるなど我慢ならない。それを許すくらいならば自分の命くらいくれてやる。そのために惜しむ命はない。それは単純に事実で、疑いようない本心だ。だが、あやかしにくれてやろうとは、思わない。食道楽が喰われて終わるなど、冗談ではないのだ。
死を受け入れた剣宿る力は如何ほどか。精々一筋の爪痕を残すのが精々。剣は死ぬためにあるのではなく、生き抜くためにあるのだから。人々をあやかしから守るためにある力だ。
ならば死を越えるために腹をくくれ。陣衛は自身を喝破する。あやかしを滅する。当然生き残る。二兎を掴んでこその守人、水守の司。
もう一度、刀を握り直す。広げた両手の間隔を元に、やや狭く取る。より貪欲に、あやかしの首と自分の命、二つを取るために。
「下がっていろ。邪魔になる」
氷雨をさらに後ろに下がらせる。まだやれると、目が言う。だが体は鈍い。陣衛の隣に立たせるにはまだ不足だ。朝芳ならともかく、まだ足りない。あと一、二年ここで経験を積めばよい水守の司になるだろう。そう、陣衛は思う。
悔しげに口を引き結び、それでも反発することなく氷雨が下がっていく。
そうして陣衛は刀を肩に担ぐ。最大の一撃を叩き込むため、陣衛は最も自身が得意とする構えを取った。静寂が陣衛を起点にして広がる。音はある。ただ、耳にわずかばかりでも意識を取られれば、それが敗因となる。大鱗丸をして油断一つで首が落ちる。それを分かるから、周囲を取り巻く音にかかずらってはいられないのだ。
袴の影に隠すように、指一本程足をずらした。そのかすかな仕草に、大鱗丸が突如として震え始めた。
「ああ、ああ、ああ!! 思い出す。カサマ、そう、カサマだ。よいぞ、よい! ここで雪辱を、果たせる、とは! ますます、貴様の心臓を、食らうが楽しみと、なった……!!」
「……」
口元から泡を吹くほど興奮し始めた大鱗丸に、陣衛の眉が一層寄る。だがあやかしと口を利く必要はない。陣衛は静かに集中を深める。刀を握る手のうちは柔らかく、それでいて確かに。最速の剣となるべく気を練り上げていく。たとえ剣筋を読まれようと、その先を行けばいい。近田一刀流、陣衛の修める剣の術理とは恐ろしいまでに愚直なものである。
陣衛と大鱗丸の意識が研ぎ澄まされ、弾けるその寸前。関に耳障りな高音が響き渡った。
その音に大鱗丸が気勢をそがれたように構えを解く。陣衛は警戒を続け、隙を狙う。
「カサマ、今日はこれで終いダ。いささか楽しみすぎたが、今日のは物見だ。喰う価値がなければ城まで崩すつもりであったが、それではもったいない。備えよ。次は貴様を喰う。必ずダ。良く牙を磨いテおくことダ」
その言葉を言い切るや否や、大鱗丸は表門へと大きく跳躍し、崩壊寸前のそれを粉々に打ち砕く。いつの間にか城外に集まっていた竜人の群れへと合流し、砂埃を巻き上げて去って行く。
それは、始まりと同じに、唐突な終わりであった。