ぐぅと、笠間陣衛の腹が鳴った。
折しも空腹を誤魔化さんと腹に手を当てた直後のことである。六尺を越える身丈と鍛え上げられた肉体。年若き守り人であるからして、腹の虫も相応に大きい。
適当に下した前髪と高く結い上げた総髪が腹の音に合わせてかすかに揺れる。しかし陣衛の顔に恥じらいはなく、ピクリとも動かぬ鉄面皮がある。
「笠間……。お主は本当に、腹の虫だけは雄弁であるな」
そんな呆れ声に、陣衛はわずかに眉を顰める。それは一体誰のせいなのかとの意を込めて。
陣衛が今いるのは関所内部の廊下である。今日一日の務めを終え、いざ帰路に付こうとした陣衛を呼び止めたのが上役である今寺法綱。これからどこかで夕食と考えている折に留められれば腹も鳴る。
言外に不満を主張する陣衛だが、上役である今寺は全く気にした様子もない。そもそもがこの御仁、とみに話好きなのだ。所構わず話しかけて仕事を邪魔するから、関所に勤める守人達からの評判はよろしくない。
話を打ち切ろうにも曲がりなりにも上役である。勤め終わりの鐘が鳴った後であろうと、無礼な真似をできるわけもないのだ。とはいえ、今寺の口から出るのは着物談義である。務めとはまるで関係のない雑談そのもの。この御仁、いわゆる着道楽なのである。陣衛からすれば帰り際に興味のない話を聞かされることほど嫌なことはない。固く口を引き結んで不動となった陣衛の脇を、今日一日を共にした同僚達がそそくさと通り過ぎていく。
むっつりと口を引きむずび、相槌を打つことなくじぃっと陣衛は今寺に視線を注ぐ。これより食事に向かうところであると。
さしもの今寺も陣衛の機嫌の悪さに気が付いたようで、慌てたように咳払いを一つ。
「それでだな、笠間は明日非番であったな?」
「……非番は明後日でありますが」
「ん、明後日だったか。それでな、お前、こないだの城外訓練であやかしを何体か斬ったろう? その時お主が助けた商人がな、礼を言いたいというのだ」
ようやく本題らしく、陣衛も態度を改める。東松原の城と外とをつなぐ街道にもあやかしは現れる。その数を少しでも減らし平穏を保つ。それも守り人の務めだ。
水守の司は関所の守護を専門とするが、司一人一人の腕は天賦のもの。時折助太刀を依頼されることもある。今寺が言ったのはその時のことであろう。確かに陣衛にも、何体か切り捨てた覚えがあった。
「その商人はな、聞けば呉服屋をやっているのだと。で、笠間。明後日が非番というなら、礼を受けに行ってこい。その着たきりの小袖を買い換えるいい機会だ。笠間もそろそろ身を固めてもおかしくない年頃だからな、着る物にもこだわりを持つのが良い。その小袖、着飽きた頃であろう?」
着道楽の今寺とは違い、陣衛からすれば小袖に着飽きるも何もない。そもそも普段着と言うのはそういうものである。
髭こそ毎日剃るものの、それ以外の身の回りは無頓着な陣衛である。今身に着けている小袖は実家より持ち込んだもので、三日ごとに似たものを繰り返し着続けているのだ。汚れや穴がなければ良し。
陣衛の基準などその程度である。確かにくたびれているが、だからこそ体に馴染むという面もある。第一、務めの間は支給の水干を着るから普段着がなんであろうと構わないはずである。どうせ日々消耗する物に、そこまで手間暇をかけたくない。それが陣衛の掛け値無しの本音であった。
黙って頷きつつも、決して迎合するまいという眼光に、上役は口をひん曲げてため息をつく。まったく最近のはどうにもこうにも、とごちる。
そう言いたいのは自分の方だと陣衛は思うが、言うのも面倒で黙っている。
「本当に、笠間は頑固者であるな。はぁ、もう行ってよいぞ」
陣衛は一礼の後、束ねられた髪を翻してさっさとその場を後にするのだった。
***
陣衛が務める関所は東松原の城と外とを繋ぐ唯一の出入り口である。その片隅にある通用門から姿を現した陣衛は足早に通りを歩きだす。
着古した藍染めの小袖と袴、適当に元結で束ねた総髪。腰にはやや長めの刀が一振り。東松原の城下において治安維持と守護を役目とする守人としては一般的な姿である。しかし、道行く人々と比べても頭一つ抜けた背丈と、下ろした前髪では隠しきれない鋭い目が特徴的である。
そんな陣衛が背筋を伸ばして脇目も振らず一心に歩いて行くのだ。それ相応に目立つ。
時は夕暮れで往来に人通りは少ない。日中は呼び込みの声が絶えない街道も、そそくさと家路を急ぐ姿が見られる程度。
家人への土産はどうだいと粘る商売人どもは、まっすぐに道を突っ切っていく陣衛を見て引き上げ時だと笑い合う。
「笠間の旦那がお帰りか。じゃあおれも帰ろうかね」
そんな声を一切気にすることなく、陣衛は一心に歩いていく。その心を占めるはただ一つ。
――飯が食いたい。その一念だ。
陣衛の足取りに迷いはない。今日の夕餉を何にするべきか。ただそれだけを思い浮かべて陣衛は足を速める。上役が垂れ流す興の湧かない話よりよほど大事なことだ。
蘊蓄を聞き流し、陣衛はずっと考えていたのだ。今日何を食べるのかを。
蕎麦ではない。天ぷらも少し違う。やはり米がいい。米だ。米を食おう。そう決めていた。
つやつやに炊きあげられた白米を食べたい。塩っ辛い主菜があればなお良い。魚なら塩焼き、味噌漬けの鶏でもいい。味の濃いものを、炊きたての米で流し込むのだ。かみしめるほどにあふれる穏やかな甘みは主菜の旨みを幾重にも楽しませてくれるだろう。
陣衛はまだ二十歳そこそこの若者であり、腰に下げた刀が示すように、荒事を担う守人でもある。ゆえによく食べる。そして、味にもこだわりがあった。上役のことを困った着道楽と思う陣衛であるが、人のことを言えるものではない。
時に立派な店構えの料亭で舌鼓を打ち、時に屋台で出来立ての串焼きを頬張る。東松原の関所へ勤め始めてからは、関所の近所にある店を一通り回ったものである。あまり遠出こそできないが、昼は好きに選びたい陣衛なのだ。頭の中は付近の料理屋を記した地図があり、その日の気分に合わせて店を選ぶ。それが陣衛の数少ない趣味であり楽しみであった。
今寺を着道楽というならば陣衛は食道楽である。実のところ似たもの同士なのだ。比較的陣衛が上役に掴まる割合が多いのは、本質的に似通ったところを嗅ぎつけているのかも知れない。
そんな風に、陣衛は料理を出す店ならどこにでも顔を出す。店自慢の一品料理も、田舎出の料理人が作る郷土料理も、舶来の一風変わった見慣れぬ料理も。
そのどれもを表情一つ変えずに注文をする。多少高い料理だろうが気に入れば量を頼む。身丈の高さと愛想の無さを除けば金払いのいいお得意様であると言える。美味ければ通い、気に入らねば遠ざかる。ある意味分かりやすい男なのだ。それでいて時には質の悪い酔っ払いを素面に戻し、時には店主に絡むやくざ者を追い払う。何事もないように食事を続ける。そのどこかとぼけた姿を、関所付近で店を営む商人たちは歓迎している。だから夕暮れに街を駆けていく陣衛を、親愛をこめて時報のようだと笑うのだ。
そんな扱いをされているなどつゆ知らず、陣衛は今宵の夕餉を決めていた。断固として米を食う。そのためには、ぐいぐい米を流し込めるような、美味い料理を出す店でなければならない。熟考の末に出た店の名は”食事処花千里”。陣衛が最も気に入っている食事処である。
***
「あら、いらっしゃいませ」
店の前に着いた陣衛に明るい声がかかる。声の持ち主はこの店の看板娘の一人、美那である。
薄紅色の小袖に白い前掛け姿、手元には蝋燭を持つ。丁度店の提灯に火を灯すところのようである。少々お待ちくださいと言われれば、陣衛も軽くうなずく。
灯す提灯の揺らぐ火に照らされる美那の顔は、目鼻立ちが整っていて華やかな雰囲気がある。艶のある黒髪をくるりと結い上げた髪は、最近よく見るようになった流行の髪型だ。ほっそりとした首元が夕暮れにあっても浮かぶように目を惹く。端的に言って、彼女はこの近辺にいる男の憧れだった。
「お好きな席へどうぞ。すぐに注文に向かわせますから」
提灯を無事灯し終わり、陣衛は店内へと案内される。陣衛は迷うこともなく、いつも座る席へと向かう。陣衛は常連客であり、今更案内されるまでもなく勝手知ったる様子で店内をずずいと進む。
店の奥、壁際の目立たない席が陣衛のお気に入りだ。行き止まりの席だから他の客の動きに邪魔されることはなく、一人静かに料理を楽しむことができる。 ここで日替わり定食と一杯の冷酒、そして茶を飲むのが陣衛の日常におけるささやかで大きな幸せなのだった。
手ぬぐいや筆の類いを放り込んでいる肩掛けの革袋を下ろし、まずは一息つく。腰を据えたのを見計らって、注文伺いに一人の娘がやってくる。
「今日もいつものですか? ……たまには定食以外を選んでみてもいいと思いますよ?」
そう嘯くのはこの店のもう一人の看板娘、美織である。
美那とは実の姉妹で、美織が妹だ。まっすぐな黒髪を右の肩あたりでまとめている。均整のとれた顔立ちは美那に似ているが、右の目元にあるほくろがどこか涼しげな雰囲気を感じさせる。
穏やかで微笑みを絶やさない美那に対し、美織はあまり笑うことがない。少なくとも陣衛は美織の手放しの笑顔と言うものを見たことがない。生真面な性格ではあるが、押しつけがましさはなく、年頃らしい感性もある。だから花千里に通う客や、近隣住民からの人気も高い。
「いつものを」
陣衛は美織の問いかけに少し考えてみるが、やはりいつも通りの日替わり定食が良いと告げる。
当然ながら定食には白米が付く。米に良く合う主菜や箸休めの漬物、出汁の良く効いた汁物まである。花千里の料理人は美織と美那の父親は腕のいい料理人だ。日替わり定食にはその日仕入れた材料を元に、一番うまいものを作る。それを陣衛は舌で知っているから、いつも通りの日替わりを注文することとなる。
当然ながら美織がそれを分かっていないわけもない。つまり、これは真面目で堅物な二人のささやかな交流なのだ。
美織からすれば、口数も少なくぼんやりして見える陣衛は、どうにも危なっかしく見えるらしい。こんなぼぅっとした人間がまともにやっていけるのかと心配しているようであった。
陣衛からすれば、どう見られているかについては大した興味がない。だが自分を気にかけてくれる、という気遣いは感じている。どちらも器用な性質ではないこともあり、でこぼこながらも意外と相性がいい。お互いの内心を知れば互いにため息をつくだろうが、今のところは多少の空回りがありつつも、確かに悪くない関係ではあった。
さて、"いつもの"となる日替わり定食は焼き魚である。美織がお盆を持って近づいてくると、陣衛は覿面にそわそわする。ただしその浮き立つ心とは裏腹に、表に出たのはわずかな身じろぎのみだったが。
「今日は鮎のいいのが入りましたから、焼魚の定食です。こちら柑橘を絞ればさっぱりとしますよ。……早く食べたいのは分かりますけど、説明くらいは聞いて下さい」
こくりと頷くが、目線は粒立って炊きあげられた白米と、未だ湯気の上がる鮎の塩焼きから動かない。
仕方ないですね、という言葉とは裏腹に、美織は少し嬉しげである。じゃあごゆっくり、とつぶやいて美織は下がる。そもそも看板娘は忙しい。いつまでも陣衛一人に構っていられないのだ。