謁見の間を辞して、二人は早々に城の中庭へと出て行く。典雅というにはあまりに無骨な庭園が広がっている。警備のものを除き、普段は誰がいようが気にされない庭である。だが、二人が手にした赤鞘ほど目立つものはない。上司からの言づてに走り回る下級文官が思わず脚を止める。朗らかに近況を伝え合っていた年かさの守人が目を開く。水面に放られた石のように、陣衛と朝芳の存在が伝わっていく。
しかし今の二人にはどうでも良いことだ。なにせその手には赤鞘があるのだから。
「今日の務めはこれにて終了。という話だが、笠間はこの後どうするんだ? ……いや、答えなくて良い。聞くまでもない」
「ああ。飯にする」
どうせ花千里、つまりは美織のところだろうと朝芳には見当が付く。この相棒は獣染みた直感を持つくせに、こと女がらみには木石のごとき反応の悪さを見せる。それからすれば、自覚はなかろうが思い人のいる場所へと向かうだけマシなのかも知れない。
「お前はどうする?」
「俺ぇ?」
陣衛からの都合聞きなどめったにあるものではなく、朝芳の声がひっくり返る。
「いや、実家と許嫁に手紙でも書こうかと思ってる。いや、ここのところの忙しさで間が空いてしまったからな。蜥蜴の親玉相手にどうのこうのというわけじゃない」
「なら明日は十分に動けるな?」
陣衛が左手に提げた深紅の鞘を軽く揺する。朝芳が獰猛な笑みを浮かべる。
「いいぞ。俺も、こいつを慣らしたいと思ってたところだからな」
「飼い慣らせればいいがな」
違いないと朝芳が笑う。話は終いと、城門へと向かう。警備を務める守人の、赤鞘に向ける視線に朝芳はご満悦だ。門前で別れを告げ、陣衛は花千里へと足を向ける。急ぐ必要などないはずなのに、陣衛の体は逸るように小走りになって行くのだった。
***
「笠間さんっ?!」
店の前には屋号の由来ともなった花の鉢植えが並んでいる。水を上げていたらしい美織が、陣衛に気付いて驚きの声を上げる。そして一目散に駆け寄って来る。
何せ芝居に行けなかったあの日から数えて丸一ヵ月。今までは三日と置かずに通っていたのだから、こんなにもご無沙汰となったのは初めてのことである。
陣衛は守人であるから、戦いが生業である。だから詰めきり籠り切りだとしても、日々の延長であるともいえる。しかし、城下に住む町民にとっては違う。彼らにも既に噂として大鱗丸出現のいきさつは届いている。隠しきれるものではなく、隠そうともしていない。奇襲を受けつつも見事撃退したと、やや偏りがありつつも事実をそのまま伝えているのだ。
食事処で日がな腹を空かせた客の相手をしている美織には、それがどこまで事実であるかは分からない。客がまことしやかに語るそのことごとくを、嘘と真を判じる術がない。陣衛が腕の立つ守人であることは知っている。だが、それが噂の怪物染みたあやかし相手を前にしても平気でいられるのか。美織には分からなかった。
だから、陣衛がいつもの仏頂面で現れてくれて、美織は心底嬉しかったのだ。そして如何に鈍い陣衛とて、その心を見落とすほどではない。陣衛のむっつりと引き結んだ口元がわずかに緩む。
「お腹、空いてますよね? すぐに用意しますから!」
パタパタと美織が店内に戻っていく。そして思い出したように店内から顔だけを覗かせて陣衛に尋ねる。
「日替わりで、いつもので良いんですよね?」
「大盛りで頼む」
はいっ! とその返事は明瞭だ。
しかし美織は色々とすっぽ抜けたようで、花に上げていた水のじょうろが出しっぱなしだ。陣衛は地面に置かれたじょうろを取り上げて、鉢植えの並ぶ棚にそっと置いておく。誰かが蹴飛ばしても良くない。理由はそれだけ。陣衛の心に生じた大波が落ち着くまで、少しの時間が欲しかった。ただ、それだけの話であった。
陣衛が店に入れば、何やらいつになく視線を感じることとなった。気配に敏いことも守人として大事なことであるから、その感覚に間違いはない。事実、陣衛は店内の客――隠居した老人から、家事を終えて小腹を満たしに来た奥方衆まで――からの視線を一身に集めている。
このところ美織に元気がなかったことは常連であれば誰もが知る事実。心配する声にも空元気で応えるものだから、みんな心配をしていたのだ。それが、花と見間違うような笑顔と小鳥のような軽やかさで厨房まで駆けていったのだ。常連であれば、常連同士多少の顔は覚えるもので。店の奥に陣取って大人しく定食に舌鼓を打つ陣衛のことも、美織がやけに店の奥に立ち位置を変えることも、みんな知っているのだ。
それがどういう気持ちによるものか。自身の気持ちに疎い美織をみな、見守っているのだ。が、陣衛の表情からは心配させていたという自覚は見えない。
店内を視線に気を張りつつ陣衛が歩く。いつもの席へと向かうその途中、行く手を遮るように手が伸ばされる。年の頃は四十絡み。ごま塩頭の職人風の男である。陣衛にもうっすら覚えのある顔だ。
「兄ちゃんよぅ……」
「何か?」
ぎろりと(陣衛としては単に疑問を載せただけの視線だ)鋭い視線が話しかけてきた男に向けられる。途端に声が尻すぼみに小さくなるが、それでも口を閉じることはない。
「その……大丈夫なんか……。あんまり、心配させて貰っちゃぁ困るぜ」
美織を心配させるな。優しい言葉の一つでもかけて安心させてみろ。男としてはそういうつもりである。が、陣衛には分からない。言うべきことは言う。はっきりと明確に。守人として、武門に生まれた男子としてはそれが重要である。言葉の意図とは読んで字のごとく。だから陣衛は率直に受け取った。すなわち、守人としての務めを果たせと言うことであると。
「噂には聞いているだろうが、心配は無用だ。あやかしどもが城下に踏み入れることはない。俺たちがさせない。だから安心して構わない」
自信に満ちた態度は守人として理想的ですらあっただろう。問題は誰もそんな話をしていないことだけ。気勢を削がれたように男が頷く。陣衛ももっともらしく一つうなずき、伸ばされたままの男の腕を優しく押しのけて先へ進む。実のところ、美織に会って安心したせいか、普段よりも腹が空いていたのだ。
***
食後、陣衛は美織から茶を貰う。あいにくとセンブリ茶は品切れだが、煎茶であっても上手いことに変わりはない。心落ち着くような香りに陣衛の気持ちも穏やかだ。
「……あまり詳しくはないんですけど、その刀。いつもとは違いますよね」
赤鞘である。朱の漆でつややかに光を照り返すその鞘は、端的に言えばやたらと目立つ。元々は古き神を引き寄せるための朱であるから、当然人の目も惹く。
「ああ。噂に聞いているだろうが、門破りのあやかしが出た。この赤鞘は、討滅すべしと先程御館様から賜ったものだ。だから……安心していい。遠からず船も、茶の流通も元に戻る」
もう遅れはとらない。次の戦いで確実に斬る。陣衛にとってそれこそが果たすべき使命だ。大鱗丸を討ち取れば、商隊の動きも元通りに活発になる。むしろ滞っていた分、張り切って商売をするはずだ。であれば、十分にセンブリ茶も手に入る。陣衛の頑張りが、この店の、美織の役にも立つ。
心なしか得意げな陣衛だが、それは美織の揺れる瞳を見るまでのこと。
「……私は、そんな、私が案じているのは、そんなことじゃありません!」
大きな声ではない。むしろ、押し殺したような、小さな声だ。陣衛から見ればか細く華奢なその体に、大波のごとき存在感があった。
「笠間さんが強い人だってことは分かります。だって私も助けて貰いました。あっという間にあやかしをやっつけてくれて、普段見せる姿とは全然違うんだなって、すごい人なんだって分かりました。でも……傷つかない訳ではないでしょう? 大崩しの、恐ろしいあやかしだと聞いています。笠間さんだって、だから、だから……!」
陣衛にとって、守人にとって赤鞘とは名誉だ。腕を認められた証であり、誰よりも前で傷つく権利を持つ。誰かの代わりに傷を負う、そのための赤鞘だ。人々を守るために剣を振るうのが守人である。それが守人の矜持であり、生き方なのだ。
陣衛は武門の生まれとして、そうあるべきだと信じ、そうあるために腕を磨いてきた。だから陣衛には美織の気持ちが分からない。
――けれど。
心の奥底に、じんわりと、こんこんと沸き続ける湧き水のような、すがすがしくて心が浮き立つよう、何かを叫びたくなるような何かを、陣衛は確かに感じた。
自らの心と体に、自分自身でさえ制御できない”何か”がある。だというのに、陣衛はそのことを少しも嫌だと感じないのだ。
「……俺は、必要なことをする」
頬を赤くした美織が、口を引き結ぶ。溢れそうな感情の波が、美織の目元に浮かぶのが見えた。
”言い方があるでしょう?”
かつて美織から突きつけられた言葉が頭に弾ける。
”素直になるべきなんだよ、時々はな”
友坂がこぼした言葉が陣衛を揺らす。
その雫がこぼれる前に。言わなくてはならない。他ならぬ陣衛が、伝えなくてはならないことがある。それだけは陣衛にも分かるのだ。
「美織の淹れる茶を、俺は良いものだと思っている。俺は料理ができない。茶も淹れられない。人の気持ちも、今ひとつ分かっていない気もしている」
陣衛は腰の赤鞘を軽く叩く。そのつややかな鞘は、うちに秘める鍛え上げられた刃を想起させるような強い存在感を放つ。
「俺は俺のために、人を守る。そうあるのだと思って生きてきた。正直に言えば、今。そのための力を持っていて良かったと、鍛え続けてよかったと。そう思っている」
立ち上がる。上背のある陣衛と小柄な美織とでは、頭二つ分ほどの身長差がある。それでも、美織の強さを陣衛は認める。その強さを守らせて欲しいと思う。
「上手く伝える方法が俺には分からないが」
美織はただ、陣衛を見つめている。
「笑っていて欲しいと思う」
***
――ああ、この人は。
美織は自分の体の奥底にあった冷たさが、一瞬にして熱に変わったことを自覚した。
ぐるぐると頭の中を巡る、跳ねる子犬のような予想も付かない衝動。夏の日差しのような明るさと、冬の朝に街を包む朝霧みたいな捉えどころのない気持ちが、美織を突き動かす。
気がつけば陣衛の手を取っていた。
ゴツゴツと骨張っている。手のひらにはたこができていて、小さな傷でところどころ色が変わっている部分がある。なのにしなやかで柔らかさを失っていない。美織の手では包みきれないほどに大きく、誰よりも遠く高みへと届く手だ。
小指と小指を交わらせる。
「怪我をするなとか、危ないことをしないでとは言いません。でも、一つだけお願いをして良いですか?」
「聞こう」
「どんなに遅くなっても構いません。全部が済んだら、私に――いえ、このお店に食べに来て下さい。それだけでいいです。それだけなんです。だから約束――」
「約束する」
陣衛は美織と絡ませた小指を優しく揺らす。
「ゆびきった」
歌の一つもなく、全てすっ飛ばしての指切りだ。あまりに不調法な約束に、美織は思わず頬を緩める。
「……もう、省きすぎです」
呆れたように、でも気持ちが伝わるように。でもきっと陣衛には分かるまい。美織はそう思う。だがそれでいいのだ。それがいいのだ。
陣衛がホッとしたように目を和らげたのを見て、美織もなぜか安心したのであった。