朝一番に吹く風というものは、いつでもすがすがしいものだ。陣衛の汗が滲んだ肌に涼が通り抜ける。
「いやぁ、やはり最高だな!」
関所の裏手にある訓練場である。赤鞘を手にして一晩。昨日は恐る恐る触れていた赤鞘を、今日は早々に抜いて試し切りをしている。
朝芳が手にするは、赤鞘より抜かれた黒天だ。名を表すような漆黒の刀身は二寸四尺ほど。反りは浅く、刃の中程から先はほぼ直刀である。切っ先の身幅は手元よりもやや太い。昨今の刀剣事情に逆行するような作りであるが、敢えて重心を刃先へ移すことで片手で振るおうとも十分に威力が乗るように鍛え上げられているのだ。
無論取り回しに難があるが、朝芳の腕であれば問題はない。むしろその優美な姿をこそ気に入った様子である。朝芳が軽く振るうだけでも風がふつと斬られるようだ。
黒い刃が立ち並ぶ巻き藁へ横一文字を描く。しかし巻き藁はわずかに震えるのみ。紛れもなく両断されたというのに、斬られたことに気がつかぬように直立を維持している。愉快であると、喜悦を隠さぬ朝芳が巻き藁へと手を伸ばしてちょんと突く。すると、巻き藁はようやくきれいな断面を残して地面に落ちる。
喜色満面で次の巻き藁を用意する朝芳はまるで童心に返ったようですらある。
対して陣衛が手にするのは赤鞘、無明。刀身だけでも五尺を越える大太刀である。長く、そして刃幅も相応に広い。並みの守人では構えることすら困難な重量を有している。しかし身丈も筋力も人一倍ある陣衛にとっては、手応えのある重さであった。事実、陣衛が無明を振るう度につむじ風が巻き起こる程だ。しかし陣衛の顔は渋い。
「どうした? 太刀の類いは近田流の本筋だろう?」
「……うまくない」
何が、とは言わない。陣衛が無明を正眼に構える。息を整えて切り下ろしから切り上げ、中空に現れる銀の太刀筋は勝虫(トンボ)が飛翔するかの様に自在だ。しかし朝芳も眉を潜める。
「……刃先が走りすぎているな。普段の笠間の剣からすれば、確かに上手くない」
「ああ。上手く合っていないと感じている」
「いいや、違うな。多分、お前はまだ赤鞘の真価を見極めきれていない。そこらの数打ちじゃないんだ。かの名工――九灯が鍛えた大太刀だぞ。お前はまだ、無明の術理を理解していない。違うか?」
「かもしれん」
「第一、集中を欠いている。雑念まみれでまともに刀を振れるものか」
「そうかも、しれん……」
まずは良く見ることから初めてはどうだ? 朝芳の助言は真っ当に思えた。だから陣衛はその場に座り、無明を空に突き立てるようにして目の前に掲げてみる。
そうして無明の形、重さ、重心や色合い、全てを見る。そしてこの赤鞘に秘められし術理を見極めんとする陣衛であった。
「で、どうだ?」
「何も分からん……」
さもありなん。諦めて陣衛は無明を馴染ませるべく素振りに戻るのだった。
***
未だ厳戒態勢が続く関所である。陣衛と朝芳にはうんざりするほどに制限がある。関所からの出入りは厳禁。生魚や貝の類いは飲食禁止。とかく常在戦陣を求められている。いつ大鱗丸による大崩しが始まるか分からないのだ。腹が痛いでは済まされない。つまり、昼餉ですら食堂以外の選択肢がないということだ。主菜は全て過剰なまでに火を通した味の濃い干物や煮物に限られる。
昨日は久しぶりに花千里で舌鼓を打った後なだけに、それがもの悲しい陣衛である。
本日の当番であったらしい氷雨が合流し、三人で食堂の席に着く。焼いてしばらく経った干物と漬物の小鉢。昼時に限るが、白米と汁物は作りたてで温かいのだけが救いだと陣衛は遠い目をする。
「あの、笠間殿は一体……」
「気にしなくて良いぞ。こいつは食堂の飯に不満があるだけだ。無駄に舌が肥えているからな」
ジッと干物を見つめる陣衛の顔には悲しみがあった。氷雨はやや呆れたように視線を逸らす。務めにおいてあれほど頼もしい男が、食事一つに憂いをみせる姿を見たくなかったのである。
「また、商隊が潰されていたと聞きました……」
氷雨が拳を膝の上で固く握り、悔しげに昨今の情勢を二人に告げる。いかんせん外に出られない陣衛達の代わりに、せめて情報を届けようというのだ。
「また竜人か……。普通あやかしってのは群れないものだがな。大鱗丸なんぞ出てくれば話も変わるか」
「……勝てない、と思ったのは初めてでした」
氷雨の実感がこもった声に、場が静まる。幸いに周囲にはもう人はいない。だが、聞かれていないとしても、水守の司が口に出して良い言葉ではない。陣衛は机をトンと叩く。氷雨ははっとしたように口を閉じた。
「俺たちは常に後手になる」
陣衛がぼそりと告げた言葉に、朝芳が頷く。
「こっちから攻め込む訳にゃあいかないからな。守人が攻め込むんじゃ看板を掛け替えることになる」
「……攻人とでもいいますか?」
「相馬も言うようになったなぁ。ま、昔話であれば退治の後は金銀財宝でも得られるんだろうが、あやかしを斬って残るのは煙の毒だけ。割に合わんこと甚だしい」
「備える。できることはそれだけだ」
「その割には気合が入っているな。居所が分かれば突っ込んでいきそうな鼻息だぞ」
「当然だ。アレは、俺が斬る」
陣衛の気配が荒れる。朝芳が喉を鳴らし、氷雨が身震いをする。
大鱗丸との戦いで、陣衛は不覚を取った。あやかしを滅するどころか、自分が生き残ることすら危うい戦いであった。理由なら後からいくらでも思いつく。万全ではなかったのだ。刀は数打ち、水干どころか動きにくい着流しのまま。
一日の終わり際であった。だがそれがどうしたというのか。間違いなく、陣衛の剣は大鱗丸に見切られた。もしあのまま戦いが続いていれば、地に沈むのは陣衛であったはずだ。誰よりも、陣衛自身がそれを理解している。
水守の司として。守人として。一人の剣士として。陣衛の矜持は大きく傷つけられた。ならば、その傷を癒やす術は一つしかない。
ゴクリと、氷雨が息を呑む。
「やることは変わらない。いつも通りだ。笠間、張り切るのもいいがな、組だからな。俺が斬ろうとお前が斬ろうと、それは同じことだ」
「……それはそうだが」
言葉に詰まる陣衛としてやったりの朝芳。まるで恐れのない二人に、氷雨が不思議だと思う。どれだけ剣を振っても拭えなかった不安が、たちどころに薄れていくからだ。
張り詰めていた気が緩んだ氷雨に、朝芳が事もなげに言う。
「今だけだ。相馬も、いずれこうなるさ。今だけだ。分かるだろう?」
「……っ、はい!」
「そういえば笠間、お前に聞くことがあった。笠間銀衛というのはお前の親族か?」
「……祖父だ。突然どうした」
「御館様が最後に少し言いかけていただろう、地蔵殿と。少し気になってな、調べた」
傍らで氷雨が興味津々と、目を皿のようにして二人を交互にみている。
「大崩し当時、御館様と共に廻国修行をしていたらしい。で、大鱗丸と死闘を繰り広げて撃退したんだと」
「そうなのか……」
「聞いたりはしなかったのか?」
「俺が剣を握り始めた頃になくなっていたからな」
「あ! だから大鱗丸は笠間殿の名を何度も唱えていたんですね!」
「ほぉ……。じゃあ祖父と孫、世代を跨いでの戦いということになるな」
撃退された後、大鱗丸の行方は杳として知られていなかった。大鍋山の竜人として名が知られ始めたのもここ二十年ほどである。戒鍊率いる守人が付けた傷が元で死んだのだ。そう言われていたのだ。
「しかし、なんでだろうな」
「なぜ今か」
「ああ。五十年だ。まさか切りが良いと出てきたわけではあるまいし」
古くから生き続けるあやかしは、重ねた年月に比例するように力と知恵を増す。人を食らうような化け物が何を意図して動くか。そればかりは人の身で分かるものではないのだ。
***
話は変わり、赤鞘というものが如何なるものかと氷雨が興味津々に尋ねる。
「例えようもない切れ味、と聞きます。実際に振るってみてどうですか?」
「……軽い」
「ああ、確かに軽いというのが近いか。俺の黒天は他の刀と重さは変わらんはずだが、これが妙に軽いのだ。重心の位置が工夫されている、握りの調整が上手い。それもあるが、それだけでは表せぬほどに軽く感じる。おかげで刀がよく走る」
それは素晴らしいですねと、氷雨が思わずと手を打つ。女性である氷雨が差す刀は重量軽減を狙った樋が掻かれているものだ。精緻な操剣のために過剰な重さは邪魔となる。しかし威力を求めるなら重量は不可欠。氷雨もなかなかに苦労をしているのだ。
「笠間の赤鞘を見ればどれだけか分かるだろう?」
今も陣衛の傍らにある赤鞘を指し示す。五尺を優に超える大太刀だ。密に詰まった鋼はもはや武器というより兵器に近い。腰に佩いたままでは抜刀すら困難である。当然相応の重量を持つ。身丈も筋力も人一倍ある陣衛でも、重さにあらがうことは難しい。しかしそれは、赤鞘でなければの話である。
「確かに重さがある。同時に支えを受けている感覚もある」
「赤鞘だけではありませんが、優れた刀には不思議な力が宿ると聞きます。刀自身が持ち手に力を貸すのだと」
「それについては面白い話がある。昔、とある屋敷にあやかしが現れた。折り悪く屋敷の当主は留守にしていてな、屋敷にいたのは奥方と齢九つとなる少年だけ。東松原ほど守りのある屋敷ではなかったんだな――」
朗々と語る朝芳の舌はなめらかだ。水を飲みながら陣衛はじっとその話に耳を傾ける。氷雨は目を大きくして朝芳の語りに聞き入っている。
「――無論、奥方からすれば命よりも大事な一粒種だ。逃げろと押し出し屋敷の奥へと隠し、自分は屋敷から離れるようにあやかしを引きつけた。少年は怯えながらも、抗う術を探す。そして、父の部屋に一振りの刀を見つける。矢も盾もたまらず、刀をひっつかみ少年は母の元に向かう」
山場にさしかかると朝芳の口上はますます冴え渡る。いつのまにか周囲には門士達が集まってきている。
「少年が母を見つけたのは、あやかしがその爪を振り下ろそうとするその瞬間であった。もちろん、許せる訳がない。その怒りが、刀を抜かせた。飛ぶように地を駆け、少年はただの一太刀であやかしを両断せしめたのだ」
おお……! とどよめく聴衆。陣衛はぐい飲みの水がいつの間にか無くなっていたことにようやく気がつく。
「あやかしが煙と消え、母に駆け寄る少年。無事であるかと案ずる少年を固く抱きしめるのだった。そして安心した少年の手から刀が落ちる。慌てて持ち上げようとする少年だが、刀は重く持ち上がらない。結局親子二人で何とか納刀をして、並んで屋敷に帰ったということだ」
「ほえぇ、そんな話が」
「眉唾物ではないか? 体のできあがっていない少年がまともに振れるはずもないだろう」
聴衆からはそんな声が上がる。しかし水を差された朝芳の表情には余裕がある。
「これは近衛筆頭、高塚殿の幼き頃の話だ。――刀も、高塚家に伝わる赤鞘岩薙ぎだという」
高塚道全といえば鍛え抜かれた近衛衆を率いる守人を束ねるものの一人。それほどの人間が語ったという話であれば信用に足るものだ。
「……例えば、私が握ったとしても赤鞘は答えてくれるのでしょうか……?」
「分からん。俺とてこの無明にどれほど認められているか」
「俺たちの目下の目標はそれよな」
「ああ。赤鞘を以て、大鱗丸を討つ。全力を果たそう」
ちょうど昼終わりの鐘が鳴る。陣衛と朝芳は余韻など一切無い様子で立ち上がり、さっさとその場を後にする。傍らには朱き鞘の刀がある。それを、氷雨と門士達はまぶしいものを見るように目を細めるのだった。