東の空がようやく青に染まろうという早朝、関所の訓練場には陣衛の姿があった。肩脱ぎして朝の空気にさらしている肌からは、激しい鍛錬によって湯気が立っている。未だ手の内に馴染まない赤鞘――無明を無心で振るい続けている。
そんな陣衛に声をかける者がいる。
「よぉ、朝から精が出るな」
「……もう、体は良いのか?」
よかないねぇ。杖を突いたまま、友坂はそう嘯いた。顔色はまだ青く、右の袖は風に遊ばれあちらこちらにそよいでいる。
「さすがに寄る年波にゃ勝てんってことかもな。笠間にも、みんなにも面倒をかけてしまうが」
軽い口調だ。言外に何も気にするなと、そう告げている。言う必要は無いのだと、分かっている。だが、言うべき言葉があるように思えて、言うべき言葉が見つからずに黙る。
「別に良いさ。辻堂じゃあるまいし、流暢に話されても気味が悪いってもんだ。それよりも、だ。ほれ、受け取れ」
行儀悪く杖を両足に挟み、左手でやりづらそうに袂を探る。そうして取り出した何かを陣衛に向けて放り投げた。
危なげなく受け取った陣衛の手には、手のひらほどの小さな包みがある。口はきつく留められていて、しかし軽い。揺らしてみれば、何やらかさこそと袋の中身が動く音。
「頼まれていたやつだ。昨日、見舞いと併せて届けられた。これが傷に効くんですかなんて言われてな。んなわけ無いんだが、薬草茶だしって試しにちょいと淹れてみた。これがまた苦いのなんのって」
「その苦みがいいんだ」
変わった好みだな、全く。友坂はそうぼやくと、くるりと陣衛に背を向ける。
「じゃあな。……似合ってるぜ、それ」
振り向かぬままに友坂は去って行く。関所を去るのだろう。友坂には城下に家も家族もある。腕がなくとも、友坂ならどうとでもやっていける。それでも、市井の出でありながら水守の司まで上り詰めたのだ。人生をかけた刀から切り離されて生きていく。想像すらできぬことだ。その心持ちは、陣衛には分からない。だが、言うべき言葉が一つだけ、確かにある。
「友坂! 茶は、確かに受け取った!」
友坂の肩が揺れる。だから陣衛はそれで良かったのだと思うことができた。
***
その日、陣衛は随分と起きるのが早かった。だから気まぐれに食堂で湯を貰い、センブリ茶を自分で淹れてみた。小袋から茶葉を適当につまみ上げ放り込む。当然、陣衛には茶の入れ方も適量も分からないのだ。そして上からそのまま湯を注ぐ。すぐに湯気とともに、独特の香りが立ち上る。無色透明な湯が薄褐色に染まり、茶葉が湯飲みの中で踊るように揺れる。
満足げに口を付けようとしたときにようやく陣衛は気付いた。
「茶葉は、どう取るんだ?」
結局陣衛は妙に味の濃いセンブリ茶を、茶葉と一緒に飲むことになるのだった。
***
水調べの間に、陣衛と朝芳が座する。真っ白な水干を身に纏い、顔を薄衣で覆う様は神官のごとき清冽さがある。暮れ始めた陽が、水鏡に反射して天井に光の絵が描かれている。
襲撃の日からこのかた、あやかしを恐れて日に日に関所への来訪者は数を減らしている。同時に、あれほど水調べに現れていたあやかしの姿が一切なくなった。
代わりのように街道ではあやかしが跋扈し、多数の守人が警護する商隊以外は禄に流通もなくなっている。東松原の生命線である船便すらどこぞで止められている。少しずつ少しずつ、不穏が染みこんでくる。
もしあやかしが本当に団結し、周囲の国を巻き込んで東松原を落とそうとしたならば、本当に厳しい戦いとなったろう。だが、あやかしはあやかしだ。ひとくくりにまとめようと、同じ獲物を狙うだけの潜在的な競合相手だ。抜け駆けがある。特に強き守人を狙う竜人、大鱗丸が座して待つわけもない。
二人の目の前に、一人の少年が現れる。歯抜けでぼさぼさの整えられていない髪。体にまるで合っていない小袖と羽織を纏っている。ずかずかと水鏡の前に立ち、不敵に仁王立ちをする。
「これがあやかしの本性を暴く鏡か」
声はひび割れしわがれている。
陣衛と朝芳は動かない。
「どれ、試してみようぞ。先だってはその暇もなかったのでな」
少年が一歩、水へとその脚を踏み入れる。瞬間、陣衛と朝芳の抜き打ちが少年へと叩き込まれる。全身全霊を込めた最速の一撃に、少年はなすすべなく水調べの間から外へと吹き飛ばされていく。
――その身に傷一つないままに。
水鏡に映されたのは、水鏡に映しきれぬほどの巨躯――あやかしの姿。
当代最高の水守の司を相手にするというのに、少年はひるむどころか楽しげですらある。
少年の小さな口に亀裂が入る。びきびきと肌が破れ、耳まで届くほどの巨大な口が現れ、笑う。耳障りな雑音そのものの笑い声に、ごきりごきりと薄気味悪い音が重なる。身の丈に合わぬ羽織は既に襤褸布と化し、全身を覆う帷子のごとき鱗に金剛すらかみ砕く牙。名刀の切れ味を持つ爪と大木をもへし折る剛力の尾。それは水鏡が暴いた姿そのものである。
「さあ、楽しませて貰うぞ」
***
陣衛と朝芳は水調べの間をゆっくりと歩く。顔を覆っていた薄衣を剥ぎ取り、腰へとしまい込む。途中、陣衛は控えさせておいた門士から赤鞘を受け取る。屋内で振り回すには威力も間合いも大きすぎるのだ。さっさと赤鞘から黒天を引き抜く朝芳とは違い、大太刀には抜刀にも工夫が要る。鞘を地に着け、鯉口を基点に大きく腕を広げる。体の捻りと指先を駆使するのがコツである。
陣衛は無明を軽く握り、下段の構えを取る。朝芳は正眼である。対する大鱗丸は自然体のまま、ただ両手をぶら下げている。
戦いの始まりはいつだって静けさがある。陣衛と朝芳が切っ先で間合いを探る。大鱗丸は足の指先でわずかに身をずらす。瞬きを五つ。たったそれだけの時間に、膨大な駆け引きが放たれ――均衡が破れる。
飛び出す朝芳。同時に大鱗丸の尾がぶれる。長くしなやかな、暴の嵐そのものが空間を歪める様にして振るわれる。パンと弾ける音は空気のものか。人の目に捉えること叶わぬ風が吹き荒れた。当たれば死、掠れども死。陣衛と大鱗丸。互いの実力は既に開かれている。ならば、朝芳はどうか。最大の一撃が揺らす空気を、朝芳は軽く跨ぐように躱す。トンと、その場に着地して、止まる。
ならばと尾を往復させんと大鱗丸が力を込めれば、朝芳と入れ替わるように大上段に振りかぶる陣衛が現れる。大鱗丸の尾に、その赤鞘で挑もうというのだ。天地を割る一撃が振り下ろされ、地面に大きな傷跡を残す。大鱗丸は尾を引き留め下がっている。
「赤鞘はさすがに怖いらしいな」
「どうも斬られるのは嫌なようだ」
二人の軽口に、大鱗丸が口をつぐむ。朝芳の存在に、大鱗丸は明らかに困惑を持っている。見切ったはずの陣衛の動き、その剣は大鱗丸の上を行く。刀ごと打ち砕く想像を、両断される尾が塗り替えた。だからこそ大鱗丸は傷のないままでいられている。歴戦のあやかしであるからこそ、陣衛の本来持つ力を正しく計り直す機会を得た。つまるところ、水守の司とは二人一組で完全である。陣衛の剣を朝芳が活かす。朝芳の剣を陣衛が活かすのである。質の異なる二人が剣を重ねることで無尽の剣撃が生まれるのである。
「……惜しいことをした」
「自分の墓でも建て忘れたか?」
「なに、あの剣士も、もう少し、食いでがあった、と思うところよ」
友坂を揶揄するかの言葉に、陣衛と朝芳の目が据わる。
もはや言葉もなく、互いの命だけを求めて戦いが激化する。
***
突き出された拳。触れるだけで万物を打ち砕くそれは、純粋なる破壊そのもの。
関所の中庭で、巨大な竜人が暴風となって吼える。立ち向かうは白き衣を纏う二人の剣士。幾重にも戦意をたたきつけ合うも、未だ致命には至らず。
東松原屈指の剣士が二人。それでも得られた成果はそれだけだ。何十何百と人を食らい生き続けた竜人を相手と考えるならば生きているだけで金星である。命を手放さないこと、そんなことは陣衛にとって当たり前のことだ。欲しいのは首であって、自分の命は大前提である。
竜人の鱗が極めて頑丈であることは間違いが無い。固く柔軟で自在に動くそれは、天然の鎧である。刹那の機をずらし、刃を逸らし、力を弱める。しかし苦戦の理由はそこにない。大鱗丸の身のこなしと守りの術が二人を上回っている。それが事実である。
初戦の立ち会いにて陣衛が切り裂いた膝は、虚を突いた戦術と比較的鱗の薄い部位だったからこそ。しかし完全に二人を強者として食らいに来た今、そのような幸運はあり得ない。巨体を躍動させ陣衛の無明を回避し、朝芳の黒天を逸らす。あるいはその逆が繰り返される。
あやかしの巨体と人の身では、越えられぬ差がある。如何に鍛えようと、陣衛達には体力の限界がある。故に均衡は容易く崩れる。絶え間ない剣劇は思考を先鋭化させ、動けなくなる前に斬らねばならぬと剣筋が狭くなる。大鱗丸が敢えて見せた隙に陣衛は判断を誤った。
踏み込み過ぎた。陣衛の勇み足に大鱗丸が勝利を確信する。陣衛を援護せんと朝芳が大鱗丸の首を狙うが、防御と攻撃を同時にこなすのが歴戦のあやかしだ。衝撃を柔らげんと陣衛は背後に飛ぶ。だが岩をも砕く拳を前にはあまりにささやかな抵抗である。大地に殴られたかのような衝撃に、陣衛の意識は飛び、勢いままに高く空へと跳ね飛ばされるのであった。